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第17話 ―蓮―
目が覚めると、知らない天井が視界を覆う。
いや、知らないわけではない。
もう、ここに来て三週間以上が経つのだから、そろそろ見慣れても良い頃だ。
「おーい、蓮、起きてるか~?」
ドアの向こうから、晴臣さんの呑気な声が聞こえる。
返事をする気力が湧かず、毛布を頭で被り直すが、なにやら焦げた匂いが鼻を掠め、ため息交じりに起き上がる。
「ようやく、起きたか」
へらっと笑いながら、焦げたパンと両面を焼きすぎた目玉焼きを皿にのせて、テーブルの上に置いていた。
「ほんっとうに下手くそですね」
「お前が起きないから俺が作ってやったんだろ? 感謝しろ」
コーヒーの入ったカップを手渡してくる彼は、何の悪びれもない。
それどころか、胸を張って恩着せがましく言ってくる。
晴臣さんは、冬真さんのような穏やかな人ではない。
対極にいる人だろう。
『俺が転勤になったから、お前もついて来い』
そう言われて、ここに来た。
可哀そうなほどに焼かれてしまっているパンを齧ると、口の中に苦みが広がる。
目の前の晴臣さんは苦みなど気にしていないかのように、パンを食べていた。
「なぁ、蓮」
「……なんですか?」
「最近、元気ねぇな」
「そりゃ、突然『転勤するからついて来い』って言われて、転校させられてるんです。元気もなくなりますよ」
「ははは、そりゃそうだ。親の都合に振り回して申し訳ないな」
コーヒーを啜りながら、晴臣さんが言う。
申し訳ない、と口にしているものの、その気持ちが乗っていないように聞こえ、ため息を吐く。
「本当に申し訳ないって思ってます?」
「そりゃ、思うさ。変な時期に転校させちまったし」
「……それなら、なんで単身赴任を選ばなかったんです?」
「お前がそれ聞いちゃう?」
カップを置いて、掴みどころのない笑みを浮かべ、俺を見る。
「え?」
「お前、冬真を避けてたろ?」
「……」
口の中の苦みが一気に、脳まで駆け上がった。
何も言えない。口の中の不快な味を消したくてコーヒーを飲む。
「図星、な」
俺の行動を見て、また食事を始める晴臣さんの口調こそ軽いが、視線は鋭い。
「……なんで……」
「当たり前だろ。俺も一応、保護者だからな。子どものことは見てるさ」
晴臣さんが、焦げた目玉焼きをフォークで突いた。
「焼くだけの簡単な料理なのに、なんでうまく出来ないもんかねぇ」
目玉焼きを口に運びながら、首をかしげる。
「いつ頃だったか、様子が変わった。
帰りが遅くなったり、湊の話題を避けたり、
まあ、決定的だったのは冬真が触れようとすると、あからさまに避けてたことか。
あんなに大好きオーラを出してたのに、そりゃ分かる」
笑いながら言う晴臣さんに何も言えなかった。
気付かれないようにしていたのに、全部その通りだった。
「別に責めてるわけじゃねぇ。でもな……」
「このままだと、お前も冬真も壊れる」
フォークを目玉焼きに刺したまま、俺を真っ直ぐ見据えて言う晴臣さんから目を逸らせなかった。
「んで、優しい俺は、色々と考えた訳よ。ちょうど転勤の話も前々から出てたしな」
「……だから、俺を連れてここに?」
「おう」
晴臣さんが頷く。
「最初は転勤の話も断ろうかと思ってたんだが、お前のこともあるし、丁度いいってことで、連れてきた」
「……冬真さんは、知ってるんですか?」
「もちろん」
即答だった。
「つか、お前のことをあいつに相談しないでどうする。
最初は断れたさ。『蓮を連れて行くなんて』って」
「でも、あいつもどうしたらいいか分からないで、不安定になってた。
子育てって難しいよなぁ」
「……」
「まあ、だからあいつも受け入れたんだ。距離を置くことに」
「……距離を置く」
「お前も、冬真も、お互い考える時間が必要だ」
「考える……時間」
「ああ」
晴臣さんが、俺の方を見る。
「ここで、ゆっくり考えろ……っつっても、環境を変えさせちまったから、厳しいかもだけどな」
「……」
「お前が自分の答えを見つけるまで、俺はお前に付き合ってやるよ」
にっと笑いながら言う晴臣さんを直視できなくて、視線を焦げた目玉焼きに移す。
「……答え」
「ああ」
「な、俺は優しいだろう?」
そう言って、晴臣さんが腕時計を見て立ち上がる。
「急ぐ必要はない。焦りは禁物だ。あ、でも、学校には手続きが終わり次第行ってくれよ」
皿を流しに持って行きながら、手をひらりと振る。
晴臣さんは最後まで晴臣さんだった。
◇
一人になった部屋で、俺は動けないでいた。
テーブルの上には、冷めたコーヒーと食べかけの焦げた朝食たち。
ポケットの中のスマホの重みを不意に思い出す。
取り出してロックを外すと、通知画面には何度も消そうと思って消せなかった通知が並んでいる。
湊からのメッセージ。
最後に届いたのは三週間以上前。
「また連絡するね」
その後、何も来ていない。
――もう、逃げない。
湊に言ったのはいつだったか。
そう言った時の、湊の安心したような笑顔が脳裏に浮かぶ。
――だから、もう少しだけ時間をくれるか? ちゃんと向き合う準備をしたい
それらしいことを言って、相手からの連絡を絶ち、逃げ回っている。
それでも湊は待ち続けてくれているのだろうか。
――俺は、なんて酷いことを。
トーク画面を開いて既読をつけてしまったら、何か返さなきゃならない。
でも、何を返したらいいのか分からずにいた。
それでも湊の気配を消したくなくて、通知だけは残していた。
湊とのトーク画面を開けない指が、逃げるように別の名前を探すように画面上を彷徨う。
そして、冬真さんとのメッセージを見返した。
こちらに来た時の内容で、心細さや、不安もあり、避けていた冬真さんにメッセージを送ったのだ。
――こちらに着きました。当たり前ですが、景色が全然違いますね。
避けていた癖に、なんとも虫のいい話だ。
それでも、この不安をかき消したかったのだと思う。
――体調に気を付けてね
――晴臣の言うことをちゃんと聞いて
――なにかあったら晴臣に相談するんだよ
そのメッセージを見た時に、思いきり頭をバチンと叩かれたような感覚に陥ったのを覚えている。
ああ、この人は本当に俺のことを『俺』としてではなく、どこまでも『息子』としか見ていない。
心のどこかで、『蓮がいなくて寂しい』――そんな言葉を欲していたのかもしれない。
たった一言、「寂しい」「会いたい」と言われたら、俺はどうしていたのだろう。
ここから抜け出し、あの人の元へ駆けつけただろうか。
……それとも、その言葉に安堵すると同時に、また、あの甘い檻に囚われ、湊から逃げただろうか。
取り留めない考えが頭の中を駆け巡り、思考が停止する。
ようやくの思いでスマホの画面を閉じ、テーブルの上に伏せて置く。
窓の外を見ると、曇天の空に見知らぬ街の景色が広がっていた。
湊への罪悪感。
冬真さんへの淡い期待――あの甘い檻――
どれも、まだ整理がつかない。
――自分の答え。
晴臣さんの言葉が、頭の中で反響する。
何が、答えなのか。
俺はこの檻から出たいのか、出たくないのか。
まだ、分からないでいるが、ただ一つだけ分かっていることがあった。
この檻の錠を、湊が壊してくれているということ。
窓の外でヒュゥッと風が空を裂くような音を立てた。
あの家では息苦しかったが、この場所は息ができることは確かだった。
だからこそ考えることが出来る。
俺がどうしたいのか。
厚い雲からは光が見えない。
シロツメクサの匂いと混じることのないサンダルウッドの匂いだけが、微かに鼻を掠めた。
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