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第18話 ―蓮―
目が覚めると、見慣れた天井が視界に入る。
ここに来て、もう数か月が経った。
最初はぎこちなく着ていた制服も、今ではすんなりと着られるようになった。
鏡の中の自分が、数か月前より少しだけ違って見える。
ここの生活にも、だいぶ慣れてきた。
窓の外を見ると、馴染みはじめた街に冬の景色が広がっている。
でも、空気が少しだけ柔らかくなった気がする。
春は、もうすぐそこまで来ている。
リビングに行くと、晴臣さんが朝食を作っていた。
「起きたか~」
「……おはようございます」
テーブルには、少しだけ茶色くなってしまった目玉焼きと、焼きの甘いパン。
「……晴臣さん」
「ん?」
「今日の目玉焼きは黒くないですね」
「お! 気づいたか。そうなんだよ~。真っ黒にしなくなったんだぜ!」
胸を張って言う晴臣さんを見て、思わず笑ってしまった。
「お、笑ったな」
「わ……笑いましたよ」
「最近、表情が和らいできたな。うんうん、いい傾向だ」
少し嬉しそうに頷きながらコーヒーを淹れてくれる。
そう言われて気づいた。
確かに、笑えるようになっていた。
強張っていた頬の緊張が解けていた。
あの家ではいつも息を詰めていた。
どこか躍起になっていて、笑うことも少なかった。
でも、ここでは――
「そういや、学校はどうだ?」
「……なんとか慣れてきました」
「友達は?」
「……よく話すクラスメートができてきたかな」
「そっか。ま、蓮なら大丈夫だ。焦らなくていい」
晴臣さんがコーヒーを飲みながら、新聞を広げる。
「時間はまだある。自分のペースでゆっくり進めろ。そのために俺はここにいるんだからな」
新聞を少しずらして、俺を見ながら言う言葉に、胸が少しだけ温かくなった。
朝食を終えて、学校へ向かう準備をする。
鞄を手に取ると以前ほどの重さを感じない。
なんなら少しだけ軽く感じる。
「行ってきます」
「おう、行ってらっしゃい。気をつけてな」
晴臣さんが、新聞をたたみながら言う。
玄関を出ると、冷たい空気が頬を撫でた。
でも、その冷たさも、以前ほど厳しく感じない。
春は、確実に近づいている。
◆
学校では話す相手が少しずつ増えていった。
最初こそ、変な時期の転校ということもあって、珍しさなどで、話しかけてくる人が多かった。
だけど日が経つにつれ、それも落ち着いた。
その頃によく話をする相手ができた。
授業のことだったり、部活の話。
他愛のないことを他愛なく。
そういった話をして、笑う時間が少しずつ増えていった。
教室に入ると、何人かのクラスメートが挨拶をしてくれる。
「おはよう、高遠」
「おはよう」
まだ、深く関わるほどの関係ではない。
でも、それでいい。
今は、これくらいがちょうどいい。
窓際の席に座り、教科書を開く。
正直なところ、あの家では、学校でも常に緊張していた気がする。
湊の気持ちを気にして、冬真さんのことを考えて――
でも、ここでは違った。
誰も俺のことを知らない。
誰も俺に何かを求めない。
ただ「自分」が「自分」として、ここにいられる。
その安心感が、少しずつ俺を解きほぐしていた。
昼休みになれば、クラスメートに声をかけられる。
「なあ、高遠、昼飯どうする?」
「食堂で食べるつもりだけど」
「じゃあさ、俺も一緒に行っていいか?」
「ああ、もちろん」
「今日のBランチはアジフライなんだよ。美味いんだよなぁ」
「そうなんだ」
「もし苦手じゃなかったら食ってみろよ」
特別親しいわけではない。
でも、この距離感が、心地よかった。
食堂に向かいながら、窓の外を見る。
校庭の木々の、つぼみが付き始めていて、春の気配に少しだけ気が緩んでいた。
――だから、油断した。
放課後、スマホが震え、小さく心臓が跳ねた。
反射でポケットから取り出して、画面を見てしまう。
そこに表示されている名前を見て、喉の奥がきゅっと縮む。
震えるスマホを見て、湊の声が頭の奥でよみがえる。
――影は、君の中にある。それは憧れの残滓だよ。だから、ちゃんと見て。
あの時の、あの言葉。
俺はまだ湊のトーク画面すら開けずにいる。
怖くて見られないくせに、都合のいい時だけ胸の中に引っ張り出して、支えにしている。
最低だと思いながらも、今の俺にはそれしかできなかった。
震える指先で『冬真』と表示されている通話ボタンを押した。
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