2 / 6
一章 * 養い子ベータの純心-1
「はぁ……」
賑 やかな通り沿いにある不動産屋の前で、ひとりの青年が物憂げに息をつく。
入り口に張り出されているのは、通っている大学周辺のアパート情報の数々。街中の大学だからか、学生向けでも家賃は安くない。
ひとりでやっていけそうな物件はなさそうだと、青年がもう一度ため息をつこうとした時、
「どうしたんだよ高 良 ?」
背後から同年代の男子に話しかけられ、高良秋弥 はビクッと肩を跳ねさせる。振り返り、彼が大学の同期だとわかると、清潔感のある整った顔に苦笑を浮かべた。
「あー、うん、ちょっとね。大学いる間にひとり暮らしできそうな所はあるかな、と思って」
「確か高良って市内に家あるんだろ? わざわざひとり暮らししなくても……あっ、親とうまくくいってないとか?」
「そういう訳じゃないんだけど。でも早く独り立ちしたいな、とは考えてるよ」
秋弥が言える範囲のことを告げていけば、同期の男子は感心したように頷 いた。
「偉いなあ高良は。俺は卒業まで実家頼って、勉強そこそこやって遊ぶつもりだから。まあ無理せず頑張れよ」
手をひらひらさせて同期が離れていく。その背を見送ってから、秋弥はもう一度、不動産の情報に目を向ける。
窓ガラスに自分の姿が映り、視界に入ってしまう。
ふわりと軽やかな毛質の茶髪に、目尻が少し下がって人が良さそうな面立ち。趣味のロードバイクのおかげで引き締まっているが、あまり筋肉がつきにくい中肉中背の身体。キレイだと言われることはあるが、自分では華がなく、特徴が薄いように思えてならない顔。ずっと一緒に住んでいる人があまりに凛々 しく美しいせいで、なおさら自分は平凡な容姿だと痛感する。
(どう見ても釣り合わないな。ただのベータと、優秀で完璧なアルファのあの人じゃあ……)
頭の中に毎日顔を合わせる彼が浮かび、思わず秋弥の目が潤みそうになる。
胸がキュッと締め付けられて、痛みを抑えるように胸元を掴 んだ。
(本当はずっと一緒にいたいけど、俺がいるだけ迷惑になる。ましてや片想いしているなんて知られたら──)
重いため息が秋弥の口から溢 れる。そしてもう一度、張り出されている物件の家賃を確認する。
今すぐ借りられる所はない。現状から逃げ出せないことを受け入れ、近くのバス停へと歩き出した。
秋弥が住んでいる家は、街から離れた小高い丘の上に建っていた。
緑に囲まれた洋館は定期的に庭師が入り、ずっと景観を損なわずに佇 んでいる。おとぎ話に出てきそうな白い壁に深緑の三角屋根の屋敷。ふと立ち止まって秋弥は家を見上げ、口元を綻ばせる。
(初めて来た時と何も変わらないな、ここは)
この家は秋弥の両親の家ではない。
六歳の頃、この家の主に手を引かれて住人になった。
当時、両親が事故で帰らぬ人になり、誰が秋弥を引き取るかという話になった。まったく話が決まらない中、颯爽 と話し合いの中央に歩み出て、引き取りたいと名乗り出てくれたのが父の親友だった。
心細くてたまらない秋弥の手を握りながら、ここへ連れて来てくれた人。あの時の温もりは今も忘れられなくて、思わず秋弥は成長して大きくなった手を握り込む。
(……聖 司 さん)
ほのかに胸を熱くしていると冷たい風がピュウ、と吹き抜け、肌寒さで秋弥は我に返る。十月に入り、夕方の気温が落ちやすくなった。日も陰り、間もなく山の向こうへ沈もうとしていた。
秋弥は軽く頬 を叩 いて気を取り直すと、口端を引き上げる。
(そろそろ帰宅する時間だ。早く夕飯の支度をしないと……せめて家事ぐらいは役に立たないと)
憂いなど何もないフリをして、秋弥は家に入り、台所に向かった。
「ただいまー」
靴を履いたまま廊下を進み、ダイニングキッチンに入る。すると、
「二十歳の誕生日おめでとう、秋弥」
パァンッ。乾いた音が弾け、色とりどりの細長いテープが秋弥の目の前で飛び散る。
驚いて秋弥が目を瞬かせていると、スクエア型の銀縁の眼鏡をかけた男性が鋭い目を和らげ、秋弥に微笑みかけていた。薄い唇の左下にあるホクロのせいで、ふわりと色香が漂い、秋弥の胸がドキリと高鳴る。
なかなか見られないクールな彼の悪戯めいた笑みはあまりに貴重で、秋弥は一瞬、夢でも見ているのかと本気で思ってしまう。しかしすぐに現実だと理解して、大きく息をついてから声を漏らした。
「び、びっくりした……聖司さん、いつの間に帰っていたんですか? 車がないから、まだ帰っていないと思ったのに」
「君を驚かそうと思ってタクシーで帰ったんだ。午後の仕事は所員たちに任せて、私は昼からずっとごちそう作りだ」
小さく笑いながら男性──幸崎 聖司は軽く胸を張る。幸崎研究所の所長を務め、何人もの優秀なアルファ研究者たちを抱える聖司もまた、薬剤の研究で成果を収め続けるアルフアだった。手首に着けている愛用の高級時計が、自然と聖司がまとう重みのある風格に馴染 んでいる。
いつもは黒い前髪を後ろに流し、きっちりとしたカッターシャツに白衣をまとってストイックに研究し、学会にも積極的に顔を出している多忙な人間。そんな聖司がわざわざ半休を取り、秋弥のために時間を作ってくれた──それだけでも嬉 しくて、秋弥は顔を綻ばせる。
「ありがとうございます、聖司さん!」
「さあ、手を洗っておいで。今日は特別な日だ。いっぱい楽しもう」
大きく頷いてから秋弥は踵 を返し、手洗い場へ足を運ぶ。
蛇口から水を出し、手を洗いながら秋弥は自分の胸の昂 りと向き合う。
聖司が祝ってくれる。毎年自分の誕生日を忘れるような人が、秋弥の誕生日はしっかりと覚えてくれていて、本当の親のように生まれた日を喜んでくれる。
嬉しくて今にも叫び出したくてたまらない。
でも同時に泣きたくもあった。
あくまでこれは身内の愛情。秋弥が本当に望んでいるものは、きっと永遠に与えられないと思っているから。
目頭に熱が集まりかけて、秋弥はバシャリと顔を洗う。
(もう俺は子どもじゃない。自立して、聖司さんから離れる……二十歳になったら伝えようって決めたんだ)
顔を上げ、滴る水滴をそのままに鏡を睨 む。これから過ごす特別な時間に心が日和らないように──。
「味はどうだい、秋弥?」
「すごく美味しいです! 前から思ってたんですけど、聖司さんの料理ってお店出せるほど美味しいです。特にこのフライドチキン、柔らかくてジューシーで、こんなに美味しいもの、他で食べたことありませんから!」
テーブルに並んだ料理を食べ進めながら、秋弥は心からの感動を聖司に伝える。
いつもは秋弥が作るか外食するかで、多忙な聖司が厨房 に立つことは稀 だった。それでも両親を亡くして引き取られ、秋弥が料理を覚えるまでは、かなり無理をして聖司が料理を作ってくれていた。確かな愛情がそこにはある気がして、秋弥の心は何度も救われた。
美味しいのはチキンだけではない。ほのかにバターが香る野菜のコンソメスープも、玉ねぎをすり下ろして作ったサラダのドレッシングも、カリッと香ばしく揚げられたポテトも、今日焼いたばかりのロールパンも、秋弥の口に美味しさを与えながら、ホッとさせてくれるものばかりだった。どれも秋弥の大好物で、よく馴染んだ味。
顔を綻ばせながら食べる秋弥を見て、聖司が小さく笑う。
「光栄だな。秋弥を引き取る前は、口に入ればなんでも良かったから、料理なんかしなかったんだよ」
「えっ……それ、初耳なんですけど」
「大切な親友の息子に、いい加減な物は出したくなかったからね」
聖司の眼差しに温もりが混じった気がして、思わず秋弥の目が泳ぐ。胸も高鳴って、この人が好きだと告げてくる。
ずっと一緒にいたい──しかし、秋弥は自分の本心にフタをして、言おうと決めていたことを喉から押し出す。
「ありがとうございます、聖司さん……そしてごめんなさい。俺のせいで負担ばかりかけさせてしまって」
「秋弥。私は君のことを負担に感じたことなど──」
「聖司さんは優しいから。でも俺、知ってます。聖司さんが昔から多忙で、俺のことで無理を重ねていたことを……今だって新薬の研究が忙しくて、夜遅くまで書斎で調べ物をされているのに……」
一度、大きく息を呑み込み、覚悟を決めてから秋弥は言葉を続けた。
「俺、ずっと前から心に決めていたことがあるんです。二十歳になったら自立して、ひとり暮らしを始めようって」
「……ここを出る、と?」
「はい。まだ資金が足らないので今すぐは出られないんですけど、できれば今年中に引っ越したいと考えています」
口に出してしまった以上、もう後戻りはできない。
聖司と離れたくないと、秋弥の胸がズキリと痛む。泣いてしまわぬようにと、顔に力を込めて返事を待っていると、
「そうか。もう二十歳、自立したいと望むのは当然か」
わずかに聖司の眉が寄る。それでも笑みは消えず、寂しげな色が滲 む。
ふぅ、と感慨深げに息をついてから、聖司は軽く身を乗り出した。
「資金が欲しいなら、私の所で新薬の治験モニターを何日かやらないか? ちょうど若い男性のモニターを募集しているところなんだ」
「やらせてください! 聖司さんの研究のお役に立てるなら、喜んでやりますから」
思わず秋弥は目を輝かせ、頬を熱くしながら伝える。お金がもらえるのはありがたい。しかしそれ以上に聖司の研究の役に立てることが嬉しくて仕方がなかった。
ここを出ていくと言っても、二度と会えなくなる訳ではない。それでも多忙な聖司と時間を合わせて会うのは難しくなる。年に一度でも会えればいいような関係。自立すれば聖司の役に立つ機会など、ほぼ無くなることは目に見えていた。だからこそ家を出る前に役立てる機会が巡ってきて、秋弥の胸は歓喜に溢れる。
秋弥の快諾に聖司が大きく頷いた。
「助かるよ秋弥。男性ホルモンに働きかけて神経を落ち着かせる薬で、もしかすると眠くなるかもしれないけど、身体に大きな負担はかからないから。その点は安心して欲しい」
「わかりました。聖司さんのこと信じてますから、まったく不安なんてありませんよ」
一笑してから、秋弥は皿にある食べかけのフライドチキンに食らいつく。
その姿を柔らかな眼差しで見つめながら、聖司は赤ワインの入ったグラスに秋弥を映す。
「信じてくれて嬉しいよ。大切な僕たちの息子に幸あれ」
一口ワインを喉に通した後、聖司の口端が引き上がる。
どこか妖しい色香が溢れ、秋弥の身体がそわそわと落ち着かなくなる。やっぱり離れたくないと言ってしまいそうで、秋弥は敢えて食べることに集中した。
書籍の購入
ともだちにシェアしよう!





