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一章 * 養い子ベータの純心-2

 誕生日から三日後。秋弥は幸崎研究所の前に立ち、緑の中に佇む白く広々とした建物を見上げていた。  聖司いわく、敷地面積は約二万坪。メインの円環状の建物が敷地を丸く囲い、中央にはいくつか研究棟が点在している。他にも所員の憩いの場となる中庭や、気分転換のためのジムやレクリエーションルーム、仮眠用のエリアもあると秋弥は聞いていた。 (いつ来てもすごいな。もはや町……これが全部聖司さんの研究所だもんな)  何度か聖司に連れられて見学したことはあったが、研究所の半分も見ていない。さまざまな医薬品を研究開発している様子をガラス越しに見て、気軽に駆け回る所ではないと子どもながらに悟ったことを思い出し、秋弥の口元がわずかに綻ぶ。  最後にここを訪れたのは六年前。中学の自由研究で製薬のことを取り上げるため、取材させてもらった。その研究内容があまりに繊細で、選ばれた優秀な人たちでなければ出入りできないのだと理解して、必死に勉強しなければと努力した思い出が秋弥の頭をよぎる。 (第一志望の大学に行けたなら、まだ諦めずにいられたんだろうな。研究所に入って聖司さんと一緒に研究する日々を)  努力を重ねても結果は伴わなかった。かろうじて滑り止めに受けていた近所の大学に合格できただけでも良かった。平凡な自分が背伸びをして頑張ってきたことに悔いはないと、何度も自分に言い聞かせてやっと納得できたのはつい最近のこと。  それでもまだ少しだけ秋弥の中に未練が滲む。かすかに苦笑しながら研究所へと歩き出した。  中に入ると、正面カウンターにいる受付係の女性と目が合う。彼女はにこやかに微笑むと秋弥に会釈する。 「幸崎研究所にようこそ。モニター参加者のかたですか?」 「はい。エントリーさせていただいた高良秋弥です」 「お待ちしておりました。あちらで受付をしておりますので、よろしくお願いします」  指を(そろ)えた手の先でロビーの左側を指し示され、秋弥は促されるままに足と顔を向ける。  真っ先に視界に入ってきたものに、思わず目を見張った。  ロビーの壁を背にしながら椅子の上で長い脚を組み、臨時の横長のテーブルに肘をつき、ノートパソコンの画面を睨みつけている白衣の青年。その姿から所員だとわかるが、襟足が長い髪は金と黒のツートンカラー。サラサラな前髪から(のぞ)く、鼻筋の通った丹精な顔立ちに鋭い目つき。この出で立ちでホストだと紹介されたならば、何も疑わずに信じてしまいそうな容姿だった。  見目の良さと漂う威圧感は、彼がアルファだと暗に伝えてくる。秋弥が一歩近づくほどに足が重くなり、向き合うだけでベータの自分は彼には敵わないと本能が悟ってしまう。  秋弥が間近になっても来たことに気づかないのか、青年はチッと舌打ちし、唐突に片手でキーボードを素早く叩き出す。受付をしながら研究のレポートを書いているのかもしれない、と好意的に考えようとするが、どう見ても態度が悪い。秋弥は困惑しつつ顔をしかめる。 (この人、大丈夫なのか? ちゃんと受付してくれるのか?)  話しかけようと秋弥が口を開きかけた時、青年が上目遣いにジロリと秋弥を見てくる。  思わずビクッと(ひる)み、秋弥の身体が強張ってしまう。  視線が合った瞬間、不機嫌そうだった青年の目が大きく開く。そうしてようやくノートパソコンを閉じると、彼は胸ポケットに挿していた黒のボールペンと、紙を挟んだ画板を差し出す。彼の首には『幸崎研究A練所員 乙川(おつかわ)(とう)()』と書かれた顔写真入りのIDカードが下げられていた。 「モニター参加者だな? これ、名前と住所書いて」 「は、はい……」 「それから下に問診票と誓約書があるから。簡単な内容だ。さっさと書いて終わらせてくれ」  ぶっきらぼうで愛想のかけらもない態度と物言いに、秋弥は面食らってしまう。正直、苦手な人種。一刻も早く彼から離れたくて、秋弥は文句を言わずボールペンで素早く記入していく。  書き終えて青年──冬真に画板を返すと、彼はおもむろに立ち上がる。秋弥よりも背が高く、座っていた時よりも威圧感が増す。たじろぎそうになる秋弥を冬真は一瞥(いちべつ)すると、顎をしゃくって廊下を指した。 「じゃあオレについて来てくれ。あちこちジロジロ見て遅れるなよ」  言いながら冬真が歩き出し、慌てて秋弥もついていく。だが歩幅が違うせいで普段の歩く速さでは離されそうで、つい小走りになってしまう。  しばらくの間、長い廊下を二人は無言で歩いていく。  冬真は足を動かしながら秋弥が書いたものを確認し、時折何かを書き込んでいく。書き漏らしがあったのかと秋弥は尋ねたくなったが、できれば彼とは関わりたくなくて唇を硬く結ぶ。  このままモニター用の部屋に通されるのだろうと秋弥が思っていると、不意に冬真が振り返った。 「なあ。名前の読み方、『たから しゅうや』でいいんだな?」 「ええ、間違いありません」 「……所長と、どういった関係なんだ?」  突然の質問に秋弥は即答できなかった。  一部の所員とは顔見知りだが、大半は秋弥を見て聖司の養子とはわからない。冬真とは初めて出会ったばかり。それなのに聖司との関係を尋ねてくるとは思いもしなかった。  少し動揺を落ち着かせようと深呼吸してから、秋弥は穏やかに答える。 「幸崎所長の養子です。私の亡くなった父が所長と親友で、その縁で引き取られました」 「ふーん。養子、ね。てっきり愛人かと思った」  愛人。まさかの単語に秋弥の頬がカッと熱くなった。 「な、な、なんでそう思ったんですか!? 所長がこんな取り柄のない、未熟な人間を、そんな……っ」 「なるほど、アンタは悪くは思ってないのか……って、所長の身内にアンタ呼ばわりは駄目だな。悪かったな、秋弥」 「呼び捨てもどうかと思うんですけど」 「じゃあオレのことも呼び捨てにしてくれ。冬真でいい。それでチャラにしよう。な?」  冬真の言動についていけず、秋弥は目を白黒させてしまう。その時の思いつきで生きているような、配慮せず回りを振り回してしまう人種。やっぱり関わり合いたくないタイプの人間だと悟る。  モニターをしている間は顔を合わせてしまうだろうが、終わってしまえばそれまでの関係。必要最低限のやり取りで済ませて、関わらないようにしようと秋弥は心に決める。だが、どうしても気になることがあって、冬真に尋ねてしまう。 「あの、どうして私が所長の、あ、愛人だなんて思ったんですか?」 「だって秋弥に所長のニオイ、がっつり付いてるから」 「匂い……同じ家に住んでいるせいでしょうか」  首を傾げながら漏らした秋弥の言葉に、冬真が勢いよく振り向く。何か言いたげに口が開きかけたが、フッと苦笑して前に向き直った。 「立ち入ったこと聞いて悪かったな。さ、着いたぞ。中に入ってくれ」  首に下げたままIDカードを手にすると、冬真はドアの前にある読み取り機にかざす。ピッ、と電子音が鳴った瞬間、ドアが自動で横にスライドし、真っ暗だった部屋に明かりが点く。  中はパイプベッドと点滴、データを集めるための機材が置かれていた。乳白色の壁に、木のフローリング風の床。病院の処置室のような部屋だと思いながら、秋弥は軽く見渡しながら足を踏み入れる。 「そこに座って、ちょっと待ってろ。今、薬の準備をする」  言われるままベッドに腰かけると、秋弥は気だるそうに動く冬真を見つめる。  態度はいい加減で、しっかり仕事しているのかどうか怪しい。そんな人間でもこの研究所で働いている。優秀なアルファだから。  どれだけ望んでも秋弥が得られないものを、生まれた瞬間から当たり前に冬真は持っている。それがジワジワと秋弥の胸奥を焼いていく。 (……早く出て行って欲しい。この人を見ていると、ベータの俺が惨めでたまらなくなる)  なるべく顔に出さないよう、表情は穏やかに保ち続ける。けれど秋弥の心の中は()(がゆ)さで乱れてしまう。  次第に視線が下がり、秋弥の目が冬真から外れていく。思わず物憂げなため息を吐き出していると、目の前にズイッとカプセル薬を乗せた冬真の手が現れた。 「これを飲んでくれ。そうしたら一時間ほど横になって安静にして、時間が来たら血液の検査で各ホルモンの数値を見させてもらう。それで今日はおしまい。また来週……って流れだが、質問はあるか?」 「特にありません」 「じゃあ始めてくれ。水はこれな」  差し出されたペットポドルを冬真から受け取り、秋弥はすぐに薬を口に含み、水で流し込む。  そして説明された通りにベッドの上に横たわると、おもむろに冬真が秋弥を覗き込んできた。間近になったせいか、彼から木の家に入った時のような、ほのかな温もりと甘みが混じった匂いが秋弥の鼻に届く。 「調子が悪くなってきたら、枕元にあるボタンを押してくれ。すぐに誰かが来てくれる」 「わ、わかりました……あの、まだ何か?」  話し終えてもジッと見つめてくる冬真に、秋弥は思わず尋ねる。  しばらくして冬真の口がニヤリと笑った。 「不満があるならちゃんと言えよ。オレ、怒られて当たり前のことやってるって自覚はあるから」 「な……っ」 「わざと無礼に生きてるんだよ。アルファ狙いの人間に近づかれたくないから。ロクでもないヤツだってアピール」  ヒラヒラと手を振る冬真に目を見張った後、秋弥は眉間にシワを寄せる。わざわざアピールしなくても、十分ロクでもない人間なのはわかった。文句のひとつでも言いたくなったが、口を閉ざして視線を逸らす。  秋弥の無言の反発に冬真は小さく笑うと、かすかに息をついた。 「モニターやってる間は何度も顔を合わせると思うから、言いたいことがあったら罵倒でもダメ出しでも、なんでもぶつけてくれよ」 「見ず知らずの人に、そんなことはしません」 「よしよし、ちゃんと言えるな。それぐらい主張できるなら、なんか不調が起きてガマンするってことはなさそうだな」  あっ、と思わず秋弥から声が出そうになる。関わり合いたくない人間だが、冬真は冬真なりに考えて動いていることが垣間見えて、やはり優秀な人なのだと思う。それでも苦手な人種には変わりなかった。 「……わかりました。何か異変があればすぐにボタンを押します」 「ああ。本っ当にガマンするなよ。秋弥からガマン慣れしている感じがしたから、わざわざ言ってやってるんだからな。頼んだぞ。何か起きて助けが間に合わなかったら、オレが責任取ることになるし」  まったく本音を隠さない冬真を秋弥が(あき)れながら見上げていると、冬真の白衣のポケットからピピッと電子音が鳴った。 「おっと、そろそろ受付のほうに戻らねぇと……じゃあな、秋弥。眠くなったら寝ていいから、ゆっくり昼寝してくれ」  手を振りながら踵を返そうとした冬真が、ぴたり、と動きを止める。  しきりに鼻を動かした後、顔をしかめながら冬真が秋弥に振り向いた。 「秋弥、ここに来てから香水なんて付けてないよな?」 「え? ええ、付けていませんけど。香水なんて、そもそも持っていませんし」 「オレが今まで気づかなかっただけか? 秋弥から甘いニオイがする。桃? 綿あめ? いちご? ニオイが変わってうまく掴めないな。所長のニオイと混じって、なんかイライラするし」  何度か首を傾げた後、冬真は大きな息をつきながら頭を()いた。 「まさかこの部屋を前に使ってたヤツが、いちごオレでもこぼしたか? たぶんそういうことだな」  ひとりで勝手に結論付けてしまうと、冬真は足早に部屋を出て行ってしまう。  ドアが閉まり、唐突に静けさが訪れる。  ころん、と仰向けになってから、秋弥は自分の腕の匂いを交互に嗅いでみる。どれだけ鼻を動かしても、わかるのはうっすらとある冬真の残り香のみ。 (甘い匂い? まったくわからないな。自分の匂いって自分だとわからないって聞くし……聖司さんの匂いもするって言ってたけど、それもわからないんだけどな)  聖司の顔が脳裏に浮かび、秋弥の肩から力が抜ける。 (でも、そうか。聖司さんの匂いが、俺に付いてるのか……)  胸にむず痒さを覚えながら、秋弥は自分の身体をギュッと抱き締める。ほんのりと体温が高まり、心地よさにまどろんでいく。 (聖司さん、離れたくないよ……俺、本当はずっと一緒にいたい。聖司さん──)  絶対に口には出せない想いを心の中で(つぶや)く。何度も愛しさを込めて聖司の名を呼び重ねていくうちに、秋弥が秘め続けてきた本音が浮かび上がる。 (──もし俺がオメガだったら、一緒に居られるのかな?)  絶滅してこの世界から消え去ってしまった第二の性、オメガ。  アルファが欲して止まないその性があれば、聖司を満たすことができる。ずっと役立ち続けることができる。そう思えば思うほど、ベータである自分が無価値だと認めている気がして泣きたくなってしまう。  思わず背中を丸め、秋弥は込み上げてくる衝動を抑え込む。  次第に意識が細切れになり、全身から力が抜けた時──ツゥ、と今まで堪えていたものが溢れ出たように、秋弥の目から涙が一筋流れていった。

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