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第一章:火花と氷7
午後の授業前。昼休みの大騒ぎが尾を引いて、まだ教室はざわざわしていた。俺は自分の席に座り、プリントに目を落としていたが――。
「委員長! 次の作戦いくぞ!」
榎本が突然立ち上がり、手に持っていたチョークを鼻に差し込んだ。
「どうだ、俺“二本角のアルファ”!」
鼻から突き出した二本のチョークを誇らしげに掲げる榎本に、教室は一瞬の静寂のあと爆発した。
「バカすぎる!」
「やば、ツノ生えた!」
机を叩いて笑うヤツ、涙を流すヤツ、床を転げ回るヤツまで出る始末だ。
「……くだらない」
俺はそう言って、わざと視線を外した。だが榎本は引き下がらない。
「まだまだだ! 見ろ、俺の必殺“黒板落下芸”!」
黒板の上に手を伸ばし、消しゴムをつかもうとした瞬間――。
「うわっ!」
見事にバランスを崩し、派手に机の上へ突っ込んだ。ノートや教科書が宙を舞い、榎本本人は頭に黒板消しの粉をかぶって真っ白になる。
「虎太郎、大丈夫か!?」
「ぎゃははっ! 真っ白になってる!」
爆笑が渦を巻く中、榎本が頭を振った。
「げほっ、ちょ、マジで目に入った! くそっ、俺は白銀の戦士になっちまった~!」
その必死の叫びがあまりに馬鹿らしくて、 ふと口の端が勝手に持ち上がった。自分でも驚くほど自然に、力が抜けた感覚。はっとして顔を引き締めたときには、もう遅かった。
「……委員長、今、笑った?」
榎本の目がギラリと光る。クラス全員の視線も、一斉に俺に突き刺さった。
「え、ええーっ!? 佐伯が笑ったぞ!」
「見た見た! ちょっとだけニヤってした!」
「奇跡だ! 青陵の氷の委員長が笑ったー!」
教室が地鳴りのような歓声に包まれる。
「っ……くだらない」
俺は咳払いして視線を逸らす。だが頬の熱さはどうしようもなかった。
「へへっ……やったぜ!」
白い粉まみれの榎本が、子供みたいに嬉しそうに笑っていた。
放課後。人気のない教室に、紙をめくる音だけが響いていた。その静けさを破るように、足音が近づいてくる。振り返ると、またアイツだった。
「よぉ、今日の“ニヤリ事件”は永久保存版だな!」
榎本虎太郎が教室のドアを勢いよく開け放ち、にかっと笑いながら歩み寄ってくる。
「……くだらないことを大げさに言うな」
「いやいや、大事件だろ! 佐伯涼が笑った! クラス全員が証人! これは奇跡だ!」
榎本は机にどんと腰かけ、わざと俺の視界に入り込んでくる。俺は手元のプリントを整理する手を止めずに淡々と答えた。
「一瞬表情が緩んだだけだ。笑ったわけじゃない」
「出たー! 委員長の苦しい言い訳! 絶対に笑ってたって!」
榎本は机に手をつき、ぐっと身を乗り出してきた。至近距離で金色の髪がきらりと光を反射し、瞳の奥が妙に近い。体温まで伝わってきそうな距離感に、不意に息が詰まった。
「……近い」
「だってさぁ、気になるだろ。あの完璧な仮面の下で、どんな顔で笑うのか」
その無邪気な声に、心臓が跳ねた。俺は表情を固め直し、椅子を引いて距離を取る。
「榎本、くだらない遊びはやめろ」
「遊びじゃねぇよ。俺、もう決めたから」
「何をだ」
「お前を毎日笑わせる! “氷の委員長”を崩すのは、この俺だ!」
教室に響いたその宣言に、思わず手が止まった。榎本の目は、馬鹿みたいにまっすぐで。からかい半分のくせに、本気の色が宿っている。
「勝手にしろ」
そう吐き捨ててプリントに視線を戻してみたものの、鼓動の速さはどうしようもなかった。
(なぜだ。あんな無鉄砲な男に――俺は、少しずつ崩されているのか……?)
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