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第一章:火花と氷9
その日、帰りのホームルームが始まる直前だった。クラスの空気がざわつき始める。熱気とも焦燥ともつかない視線が、妙に一方向に集まった。
(なんだ……嫌な予感がする――)
次の瞬間、隣の席のアルファが苦しげに額を押さえ、後ろの席のオメガが真っ赤な顔で呼吸を荒くした。
「おい、誰だ……フェロモン、ぶっ放してんの」
「うっわ、やめろって!」
教室のあちこちから呻き声があがる。冷たい汗が俺の首筋を伝う。胸の奥がざらつくように熱を帯び、理性の表層が薄皮のように剥がれていく感覚に顔を歪ませた。
(制御しろ! 俺は誤爆なんかしていない、はずだ……! 俺の持つ薄いフェロモンに、周りが反応するわけがない)
必死に呼吸を整えて、体内の熱を押さえ込む。だが視線は一斉に、俺へと突き刺さった。
「委員長じゃね? 顔色やべーぞ」
「やっぱりな。ずっと堅物ぶってても、アルファなんだなぁ」
ざわめきは悪意を帯び、嘲笑に変わっていく。唇を噛み締めても、状況を否定する言葉が出てこなかった。
そのとき――。
「お~い、ストップ!」
隣のクラスからわざわざやって来た榎本虎太郎が、教壇にひょいと飛び乗った。一瞬、空気が凍る。その沈黙を切り裂くように、大声で教室全体に響かせる。
「委員長のせいじゃねーよ! これは俺のフェロモンだ!」
「はぁ!?」
「オメガなのに?」
騒然とする教室を前に、榎本は胸を張って堂々と言い放った。
「俺だって、がんばれば出せんだよ! ほらほら、みんな気ぃ抜けー! 俺の男らしいフェロモンで、虜になっちゃうくらいにメロメロにしてやっからよ!」
榎本は両腕を広げて大げさにポーズをとり、妙な決め顔までしてみせる。クラスに笑いの波が一気に広がった。
「ははっ、なにそれ!」
「榎本、バカすぎ!」
「マジでこいつ、おもしろすぎだろ!」
張りつめていた空気は嘘のように弾け、いつもの教室のざわめきに戻っていく。担任が入ってきたときには、誰もが榎本の“バカ騒ぎ”のことしか話題にしていなかった。
帰り支度を終えたあと、教室を出ようとした俺は廊下で肩を掴まれた。振り向くと、例の金髪がにやにやしながら立っていた。
「なぁ委員長。ホントは、お前だったろ?」
「……何の話だ」
「シラを切んなって。あのときのお前の顔色、すげーヤバかったぞ」
榎本の瞳は、いつものふざけた色じゃない。俺の心臓を、まっすぐに射抜いてくる。
(ここのところの忙しさとストレスで、フェロモンの制御が不能になってしまったことを、榎本にバレてしまうなんて――)
「……」
言葉が出ない俺を見て、榎本は小さく笑う。
「安心しろよ。絶対、誰にも言わねぇから」
その声には、ふざけ半分と――それだけじゃない、何かが滲んでいるのを感じた。
「……どうして」
「決まってんだろ。俺だけが知ってる“委員長の秘密”って、なんかワクワクすんじゃん?」
あっけらかんとした口調。だがその言葉は、胸の奥をひどく揺さぶった。
(……コイツだけには、知られたくなかった。けど――)
不思議と、榎本に見透かされるのが怖くないと思ってしまった。
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