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第二章:ひび割れる仮面

 家の門をくぐる瞬間、胸の奥に重いものが沈んだ。塾をサボっただけなら、まだ理由をつけてごまかせる。だが――あの金髪のオメガと一緒にいたことが父に知られたら。 (……考えるな。余計なことは考えるな)  無表情を貼り付けたまま、母屋に足を踏み入れる。広い廊下を音もなく通り過ぎ、誰とも顔を合わせないように自室に滑り込んだ瞬間、ようやく肩の力が抜けた。机の上には、整然と並べられた参考書とノート。いつもの時間なら塾の自習室にいるはずが、今夜は部屋でひとり――そのことが妙に居心地悪く感じられた。 「……くだらない」  呟いた声が、静かな部屋に淡く響く。  榎本と笑い合った時間。購買のカレーパン。夜の路地での騒動。全部、俺にとっては規律を乱す“くだらない出来事”のはずだった。けれど胸の奥に、温かい余韻が残っている。 (アイツの隣で……俺は一瞬だけ、弱い自分を見せてもいいのかもしれないと思ってしまった)  はっとしてノートを開く。ペンを走らせ、文字を埋めることで雑念を押し込めようとした。だが、書いた内容が頭に入ってこない。思い浮かぶのは、月明かりの下で屈託なく笑った榎本の顔ばかりだった。  深く息を吐き、机に突っ伏す。 「俺は……どうかしてる」  完璧でなければならない佐伯涼。その仮面に、初めて小さなひびが入った夜だった。  夜のざわつきは眠っても消えず、目覚ましが鳴るより早く目を開けた。鏡の前に立ち、表情を整える。制服の襟を三度確認し、ネクタイの歪みを直す。少しでも乱れた顔を見せたくなかった。 (昨日のことは、忘れろ。あれは……ただの偶然だ)  自分に言い聞かせ、いつも通りの足取りで青陵高校へ向かう。だが教室に入った瞬間、聞き慣れた声が響いた。 「よっ、委員長!」  まるで昨日のことがなかったかのように、榎本虎太郎が俺の肩をがしっと掴んできた。クラス中の視線が一斉にこちらに向かい、面倒ごとの予感が背筋を走る。 「いきなり肩を叩くな。驚くだろう」 「堅いなぁ。ほら、今日も元気にいこうぜ!」  榎本は勝手に俺の隣の席に腰を下ろし、弁当箱を机の上に置いた。コイツは本来、隣のクラスのはず。どういう神経をしているのか、理解できない。 「お前、自分のクラスに戻れ」 「いーじゃん。俺と委員長の仲だろ?」 「その“仲”とやらを勝手に定義するな」  眉を寄せる俺をよそに、榎本はにやりと笑った。その笑顔が、昨日の夕暮れに見た真剣さと重なり――胸が僅かに跳ねる。 (……いったい何を考えているんだ、コイツは)  冷静さを装う俺と、悪びれもせず距離を詰める榎本。こうしてふたたび、俺の日常は静かに乱され始めていくのだった。

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