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第二章:ひび割れる仮面6
昼休み。ざわつく教室に、榎本の声が唐突に響いた。
「よーし、今日の占いコーナー始めまーす!」
「は? なんだよそれ」
「いいから、いいから! 俺はオメガだからな、匂いで人の気分がわかるんだよ!」
榎本が机の上にひょいと飛び乗る。クラス中の視線が一斉に集まり、俺は嫌な予感しかしなかった。
「まずは委員長だな!」
「……やめろ」
制止の声もむなしく、榎本が俺の方へ突進してきた。わざと顔を近づけて、鼻をひくひくさせる。
「ふむふむ……今日の委員長の匂いは――」
「ストップだ榎本!」
「“ムカついてるけど、ちょっとだけ楽しい気分”!」
教室が一瞬静まり返った後、爆笑の渦に包まれた。
「マジで当たってね?」
「委員長、ちょっと口元ゆるんでた!」
「ははは! 笑わせんなよ榎本!」
どっと笑い声が広がる中、俺のこめかみがぴくりと動く。
「……ふざけるな」
低く呟いたが、榎本は全く動じない。
「ほら見ろよ、図星だから顔が真っ赤になってんぞ!」
「なっていない!」
「なってるなってる! おーい、みんな、委員長のレア表情ゲットだぞー!」
教室中が囃し立てる。笑いと冷やかしの視線に囲まれ、胸の奥が妙に熱くなる。この俺が――仮面を被り続けてきた俺が、皆の前でこんなに崩されるなんて。
(……榎本。お前は、どうしてそんなに簡単に人の心をかき乱すんだ)
夕暮れの校舎。人気が少なくなった廊下に、榎本の声が響いた。
「なぁ、委員長! 今日の俺の“匂い占い”、ウケただろ?」
振り返った俺の瞳は、冷たく光を宿していた。
「二度とするな」
短い言葉に、榎本が面食らったように目を瞬かせる。
「え、なんで? みんな笑ってたじゃん」
「俺をおもちゃにするな。……人前で、匂いの話を軽々しくするんじゃない」
強く言い切ると、榎本の表情が少しだけ引き締まった。オメガである彼は、人の匂いに敏感だ。それを武器に冗談を言ったのだろうが――この世界では、匂いは時に弱点を晒すことになる。
「……委員長、そんなに気にしてんのか」
「当然だ。俺は“佐伯家のアルファ”だ。隙を見せた瞬間、噂に食い潰される」
廊下に沈黙が落ちる。俺は息を整えようとしたが、胸の奥はどうしようもなくざわついていた。榎本が、ゆっくりと口を開く。
「でもさ。今日のお前、ちょっと楽しそうだったぞ」
「……何を言っている」
「だって匂いでわかるんだよ。笑ってないのに、心がちょっと軽くなってる感じというか。あのときの委員長の匂い、俺にはそう感じた」
真剣に状況を語っていく榎本の声に、言葉を失う。俺が必死に隠してきた感情を、なぜこの男は嗅ぎ取ってしまうのか。
「ふざけるな。そんな曖昧なものに……」
「曖昧じゃねぇよ!」
榎本が一歩近づく。気安い笑顔ではなく、俺を射貫くような眼差しを向けてきた。
「委員長がどんなに取り繕ってても、俺にはわかる。お前が本当に笑うとき、絶対に俺が見てやるからな」
挑むような声が、胸の奥を強く揺さぶった。怒りなのか、動揺なのか、自分でも判断できない熱が込み上げる。
(……コイツは、なぜここまで俺を乱すんだ)
胸の奥のざわめきを押し殺し、俺は冷徹に言い放った。
「俺は笑わない。感情を乱すのは愚か者のすることだ」
自分でも硬すぎる言葉だと思ったが、ここで引けば完全に榎本のペースになる。榎本は一瞬きょとんとしたが、すぐに口角を上げて挑発的な笑みを見せた。
「へぇ……委員長は“絶対に笑わない男”か」
「その通りだ」
「よーし、決めた!」
突然、榎本が指を突きつけてきた。夕陽を背にしたシルエットが、なぜかやたらと自信に満ちている。
「この俺が必ず、お前を笑わせてやる」
「……は?」
何を言い出すのかと思えば、この男は本気の顔をしていた。冗談に見えない。
「お前が絶対に笑わねぇって言うなら、俺は絶対に笑わせる。賭けてもいい」
「賭け?」
「そう。委員長が笑ったら、オレの勝ちだ。笑わなかったら、お前の勝ち」
挑発的な目つきで迫ってくる榎本に、心臓が少しだけ跳ねた。あり得ない勝負。だが、引き下がればそれは「動揺した」と認めることになる。
「くだらない。そんなことに乗るつもりは――」
「へぇ委員長ってば、ビビってんのか?」
一瞬で血が逆流する。榎本のそういう目――人の内側を見透かして、わざと煽る目が、なぜこんなにも癪に障るのか。認めたくないのに、ほんの僅かに胸がざわつく。
「いいだろう。絶対に笑わない。それでお前の無駄な努力を思い知るといい」
「決まりだな!」
榎本は勝ち誇ったように笑い、俺の肩をばしっと叩いた。軽すぎるその仕草に、なぜか胸の奥が熱を帯びていく。
(……本当に、理解できないヤツだ)
だがその日の帰り道、俺の頭の中には「榎本に笑わされる未来は絶対にない」という確信と、妙な予感が同居していた。
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