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第二章:ひび割れる仮面8

 翌朝。いつも通り一番乗りで教室に入った俺は、黒板に今日の連絡事項を書き写し、机にプリントを並べていた。窓の外からは早朝練習の掛け声が響き、穏やかな日常の始まりを告げている――はずだった。  しかし始業のチャイムが鳴る前から、教室が妙にざわついた。 「おーい! 今日から俺は“委員長専属芸人”を名乗ることにした!」  扉を蹴破るように入ってきたのは榎本虎太郎。相変わらず制服を着崩し金髪をやたら乱して、胸を張っている。 「はぁ!? 何それ」 「虎太郎、朝っぱらからうるせぇ!」  クラスメイトたちが笑い混じりの突っ込みを飛ばす。 「昨日、委員長がちょっとだけ笑っただろ? 俺は見逃さなかった!」  榎本は教壇に飛び乗り、指を天高く突き上げた。 「よって! 俺の使命はただひとつ――委員長を毎日笑わせることだ!」 「……っ」  俺は思わずペンを止めた。 「おい榎本、またバカなことを……」 「でも面白そうじゃん!」 「昨日の逆転ごっこ、マジで腹抱えて笑ったし!」  クラスが次々と乗っかり、教室は一気に祭りのような空気に変わっていく。 「まずは第一弾、『朝のモーニング笑わせショー』だ!」  榎本は誰かの椅子を拝借し、妙なポーズを取った。オメガ特有の柔らかい匂いがふっと広がったことで、周囲のベータたちは敏感に反応して「うわ、なんか変な空気が出てきた!」と笑い声を上げる。 「今日の俺のテーマは“アルファあるある”だ! アルファって、すぐマウント取りたがるよな! 『俺が一番!』って! でも家じゃママに叱られてたりしてな!」 「ぶはっ!」 「やめろ、ウチの兄貴そうだわ!」  生徒たちが机を叩いて爆笑する。俺は机の上のプリントを揃えながら、冷徹な声を飛ばした。 「……くだらない。榎本、授業前に騒ぐな」  それでも黒板に視線を戻した瞬間、頬の奥が少しだけ熱くなる。笑うつもりはない。けれど、昨日に続いてまた、榎本の仕掛けが心を乱しているのを自覚していた。 「おーい委員長! 今日は絶対に笑わせてやるからな!」  榎本の宣言が、教室いっぱいに響いた。  昼休み。弁当を広げて黙々と食べ始めた俺の前に、いつものように榎本が現れた。カレーパンを片手に、にかっと笑う。 「さぁて! お待ちかね、第二ラウンドだ!」 「……何の話だ」 「“委員長を笑わせる作戦”だよ! 今度はみんなにも協力してもらうぜ!」  榎本が声を張り上げると、クラス中の視線が一斉に集まった。昼休みの教室は、弁当の匂いとざわめきに満ちている。そんな中で、彼の金髪はスポットライトのように目立った。 「まずはこれ! 『佐伯あるある選手権』!」 「えー!?」 「なにそれ、絶対怒られるやつ!」  クラスがどよめき、すぐに数人が立ち上がる。 「委員長ってさ、休み時間でも勉強してるよな!」 「うんうん! で、誰かがしゃべりかけても『今は休み時間だ、静かにしろ』って言う!」 「はははっ! あるあるー!」  爆笑が教室に広がる。俺は無言で箸を動かし、弁当を食べ進めた。心なしか噛む速度が早くなる。 「よし、次はモノマネ部門!」  榎本が勝手に指名したクラスメイトが立ち上がり、胸を張って言った。 「……榎本、シャツをしまえ」  声色まで真似している。クラスがまたどっと沸いた。 「うわ、似てる!」 「やべぇ、今のマジで委員長そっくり!」 「くだらない……」と呟いたつもりが、俺の耳まで赤くなるのを自覚する。 「ほら見ろ! 照れてるぞ!」 「委員長、怒ってる顔と照れてる顔の区別がつかねぇ!」  榎本は机に足をかけ、勝ち誇ったように叫んだ。 「な、こうやって笑いに変えてけばいいんだよ! オメガとかアルファとか関係ねぇ! クラスみんなで笑って、委員長も笑わせる――それが俺の作戦だ。だってさ、委員長が真顔でいると、なんか空気が張りつめちまうんだよ!」  瞬間、胸の奥が妙にざわついた。馬鹿馬鹿しいはずなのに……なぜか少しだけ、心が軽くなる。 「委員長を笑わせろ!」という榎本の掛け声で、教室はお祭り騒ぎになっていた。真面目に弁当を食べていた俺は、完全に巻き込まれている。 「次! 俺やる!」 「俺も! 佐伯の“注意するときの手の角度”モノマネやりたい!」  クラスメイトたちが次々と立ち上がり、真似を披露する。腕を組み、眉をひそめ、低い声で「規律を守れ」別のヤツは黒板を指差しながら「字はもっと丁寧に書け」そのたびに爆笑が起きる。 「……本当にくだらない」  俺は淡々と弁当を口に運ぶ。笑い声に負けないように、無表情を崩さないように。だが――。 「よし、トリは俺だな!」  榎本が勢いよく立ち上がった。颯爽と机に乗り、胸を張って俺を指差す。 「『榎本、シャツをしまえ』!!!」  声だけでなく、眉間の皺まで完璧に再現していた。さらに榎本は机の上で大げさに歩き回り、次々とモノマネを連発する。 「『廊下は走るな!』」 「『授業中に寝るな!』」 「『購買のカレーパンは栄養価が偏っている!』」  最後は両手を腰に当てて、わざとらしく深いため息。 「『榎本……規律を乱すなと言っている』」  クラス中が腹を抱えて笑い転げる。そのあまりに大げさな表情と声色に、俺の口元が不意に緩んでしまった。  ――しまった。 「おい! 見たか!? 今、笑っただろ!」 「委員長が……笑った!?」 「奇跡だーっ!」  どよめきと歓声が一斉に上がる。榎本は机の上でガッツポーズを決め、得意満面の笑顔を浮かべた。 「やったぁぁぁ! 俺の勝ちだ!」 「……笑ってない」  必死に表情を引き締め、低い声で否定する。 「いやいや、笑った! みんな見てただろ!」 「見た見た! 証人多数!」 「笑うと普通の男子校生っぽいなー!」  クラスのざわめきが収まらない。榎本は机から飛び降りると、俺の肩をばんばん叩いてきた。 「いいじゃん委員長! もっと笑えよ!」  乱暴な手の重みを受けながら、胸の奥でなにかが静かに揺れていた。笑ってはいけないと思っていた。感情を隠さなければ、居場所を失うと思っていた。けれど榎本は、俺の殻をいとも簡単にこじ開けていく。

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