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第二章:ひび割れる仮面9
午後の授業が始まる直前、クラスのざわめきはようやく落ち着きを取り戻していた。皆が笑い疲れて席に戻る中、俺は教科書を机の端に並べ直しながら、必死にいつもの無表情を取り繕った。
(……榎本のヤツに、完全に調子を崩された。俺が笑うなんて、ありえない)
そう思っている矢先に、机の上に影が落ちる。
「なぁ委員長」
低い声が耳に届いた。仕方なく顔を上げると、榎本と目が合う。
「笑ったこと、いい加減に認めろよ」
「……くだらない」
「おいおい、あんだけ証人いたのに、まだ言い張るのか?」
榎本は嫌なしたり笑いをしながら、さらに顔を近づける。俺は眉をひそめて、できるだけ冷たい声で告げた。
「授業が始まる時間だ。さっさと自分の教室に戻れ」
「はーい。……でもさ」
冷たい態度を貫く俺を見ているのに、榎本は口角を上げて俺の机を弾くように指をトントン鳴らし、耳元にだけ届く声で囁いた。
「お前、笑った顔のほうが好きだぞ」
鼓膜を掠めるようなその一言に、心臓が一瞬だけ跳ねた。榎本はそれ以上何も言わず、満足げに笑って教室を出て行く。
残された俺は、僅かに視線を落とした。胸の奥に熱いものが残っているのを感じて、眉根を寄せる。
(――なぜだ。なぜアイツの言葉に、俺は動揺してしまうのか)
規律を守るための冷静さが、榎本の前では揺さぶられてしまう。そのことに気づきながらも、どうすることもできなかった。
終礼のチャイムが鳴ると同時に、生徒たちは一斉に帰り支度を始める。
俺は日直から集められた提出物を確認し、スクールバッグを肩にかける。そのまま職員室に寄って、担任のデスクに提出物を置いた。このあと塾での自習時間の内容を考えながら廊下を抜け、階段に差しかかった瞬間、いつもと同じはずの夕方の空気が、なぜか少しだけ違うのを察知する。
「おーい、委員長!」
声をかけられたことにより、スムーズに進んでいた足が止まった。俺の行く手を阻むように、正門へ続く階段の踊り場に榎本虎太郎が腰かけて、わざわざ待ち伏せしている姿が目に留まる。
「……なぜここにいる」
「お前が出てくるの、ここで待ってた」
「理由を言え」
「理由? んー……」
榎本は頭を掻きながら立ち上がり、俺の正面に立つ。夕陽に照らされた髪が、金色に光を放っている。見るからにウザい。自由な校風が売りの我が校。この髪色が校則違反にならないのも、実際のところ謎である。
「今日さ、委員長の笑った顔見て、なんか気分良かったんだよ。だからまた一緒に帰ろーぜって思ってな」
「俺はこれから塾だ」
「知ってる。でもさ、駅までの道なら同じだろ?」
言葉に詰まる。確かに家政婦に用意させた弁当を空にして、塾に向かうのがいつもの習慣になっていた。その途中までなら、残念ながら榎本と道が重なる。
「な、いいだろ? 道中くらい、委員長を独り占めしたいんだ」
榎本は軽口のように言ったが、その目は妙に真剣だった。拒絶の言葉を探そうとしても、喉の奥で言葉がひっかかる。
(……俺は、なぜ断れない?)
「好きにすればいい」
しぶしぶ答えると、榎本の顔がぱっと明るくなる。
「よっしゃ! じゃあ行くか!」
その瞬間、何かに巻き込まれる予感が強くした。榎本と歩く帰り道は、俺の日常の秩序をまたひとつ壊していくのだろう。
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