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第二章:ひび割れる仮面15

 翌朝、B組の教室の扉を開けた瞬間、空気の「欠落」を感じた。ざわめきも笑い声も、いつも通り。――ただ、榎本虎太郎の声がない。 「なぁ、榎本マジで停学だってよ」 「昨日の乱闘で、アルファが何人も病院送りらしいぞ」 「やっぱオメガのくせにケンカ最強って噂、本当だったんだな」  クラスのあちこちから聞こえる囁きが、耳の奥にひりつくように残る。俺は黙って席に着き、配られたプリントを端から端まできっちりと揃えた。まるで自分の心をいつも通りに落ち着かせるために。  ふと視線を感じて周囲を見渡すと、数人がこそこそと俺の様子を伺っていた。 (……そうか。俺があの場にいたことも、もう噂になっているんだな)  教師からはただ一言、「今後何があっても、委員長なら冷静に振る舞え」と告げられただけ。だがあの現場では、冷静でいられなかった。榎本のフェロモンに翻弄され、衝動を抑えるために手を噛むので精一杯だった。  結局、誰も守れなかった――榎本さえも。  昼休み。購買の列が伸びる廊下を横目にトイレに行き、そのあとはいつもの弁当を淡々と口に運ぶ。箸の音と、遠くの喧騒だけが響く教室の一角。その中で榎本の席――いつも無遠慮に机をずらしてきて、くだらない話を始める場所が、やけに空っぽに見えた。  音のない空席が、耳鳴りのように心に残る。 (馬鹿馬鹿しい。俺は一人で充分だ――)  そう言い聞かせても、胸の奥が妙に落ち着かない。榎本がいないだけで、こんなにも空気が違って感じることに――自分でも戸惑ってしまった。 「佐伯委員長、ノートの貸し出し頼まれてるぞ」  クラスメイトが、一枚の伝言メモを差し出してきた。そこには、はっきりと“榎本虎太郎”の名前。停学中の榎本が、授業ノートを借りたいと頼んできたらしい。 「どういうことだ。なぜ違うクラスの俺に?」 「榎本が直々に指名してきたんだよ。『佐伯のノートなら間違いねぇ』ってさ」  心臓が、微かに跳ねた。俺の“完璧”をいつも茶化して笑っていたくせに――頼るときは俺なのか。  机に並んだノートを見下ろす。整然とした文字列が、今だけは妙に重たく見える。ページを一枚めくるたびに、胸の奥で言葉にならないざわめきがどんどん広がっていく。 (――俺は、何を期待しているんだ……)  次に榎本と顔を合わせるとき。自分がどんな表情をするのか――そのことだけが不安だった。

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