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第四章:離れて気づくもの7
授業が終わって放課後になり、委員長としての仕事を手早く終えてスクールバッグを肩にかけた瞬間、スラックスのポケットに入れてるスマホが着信を知らせる。
手にしたスマホの画面に「父」の文字が浮かんだのを目にして、背筋に冷たいものが走った。胸の奥が氷の塊のように固まっていく。通話ボタンを押しただけで、息が詰まるのを感じた。
「涼、文化祭の出し物を見に行った。……くだらん茶番だったな」
低く硬質な声が、容赦なく鼓膜を打つ。
「……はい、申し訳ありません」
短い返事しか出てこない。反論なんて、最初から選択肢にない。俺は“佐伯家の跡継ぎ”として、従順であることを求められている。
父の言葉に逆らえないたびに、あの日――舞台の上で榎本と笑い合った時間が、少しずつ色褪せていくのがわかる。あれは一瞬の幻に過ぎなかったのだと、現実を突きつけられる感じだった。
「わかっているだろうが、お前は跡継ぎだ。名門佐伯家の“正統なアルファ”として、愚にもつかぬ遊びにうつつを抜かす暇はない。来月、縁談の場を設ける。お前の婚約者候補も同席することになっている」
「――!」
父から告げられた言葉が耳に届いた刹那、心臓が激しく跳ねた。視界の端が一気に滲んで、スマホを持つ手に思わず力がこもる。
「反論は許さん。これはお前にとっても、佐伯家にとっても当然の決定だ」
「承知しました」
口の中はひどく乾いているのに、声は機械のように淡々と出ていった。それが「跡継ぎ」である俺の“正しい反応”なのだと、身体が染みついたように覚えている。
通話が切れたあと、肩にかけていたスクールバッグを床に直置きして、うなだれるように机に突っ伏した。
文化祭の舞台で、榎本が熱のこもった視線で俺を見つめてくれた――あの眼差し。不意に胸を揺らされたあの瞬間。全部、禁じられた記憶のように遠くなっていく。
(俺に許されているのは、完璧なアルファであることだけ。榎本のことなど……一刻も早く忘れなければいけないんだ)
心の中で呟いたその声は、ひどく震えていた。
翌朝、いつも通り教室に一番乗りする。黒板に連絡事項を書き写しながら、自分の手元は驚くほど迷いがない。それと反比例して、心の奥は砂を噛むようにざらついていた。
昨日の帰り際、父から告げられた「婚約」の二文字が、背中に重しのようにのしかかっている。その重さをひしひしと感じていたら、教室の扉が勢いよく開いた。榎本が、金髪を揺らして明るく入ってくる。
「おっす! 委員長!」
いつも通りの声。何気ない挨拶のはずなのに、その明るさが今の俺には刺さるように痛かった。
「榎本騒がしい、静かにしろ」
冷たく、突き放すように言い放つ。自分でもわかる、榎本に対しての明らかな当てつけだった。
「はぁ? 朝の挨拶だろ。なんだよその反応」
榎本が眉をひそめて近づいてくる。俺は黒板に向かったまま、背筋を正して微動だにしなかった。
「昨日までのことは全部忘れろ。俺にとって、くだらない時間だった」
その瞬間、榎本の顔から笑みが消えた。冗談でもからかいでもなく、俺の言葉に傷ついた表情を横目で確認する。
「それ……マジで言ってんのか?」
低く掠れた声。拳が震えているのが視界の端に映った。胸の奥がぎゅっと痛んだことさえ、なかったことにしようと必死になって我慢する。
「俺にはお前に構っている余裕がない。委員長として、佐伯家のアルファとして……やるべきことが俺にはある」
言葉を吐き出しながら、自分で自分を追い詰めているような感覚があった。あの父の声が、頭の奥で何度も響く。
「くだらん茶番だったな」
あの一言が榎本への感情を封じ込める鍵みたいに、俺の喉を塞ぐ。本当は榎本の顔を見てしまったら、何もかも崩れてしまいそうだった。だからこそ無表情を貫く。
榎本はしばらく黙って俺を睨みつけ、やがて舌打ちをして机にドンと腰を下ろした。
「……ふざけんなよ!」
その背中が、いつになく遠く感じた。けれど俺は何もできなかった。立場という鎖に、自分の心ごと縛り付けたまま、そこから動くことができなかったのである。
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