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第五章:壊したい未来、守りたい人12

 日曜の夕刻。重い雲の色が窓硝子に滲んでいた。俺は父に呼び出され、重厚な応接間に座った。大理石の床に反響する時計の音が、ひどく耳障りに感じる。 「……涼」  低く、冷ややかな声が耳に落ちる。目の前の男は佐伯家の当主であり、この街の経済を動かす人物。だが俺にとっては、生まれたときから“仮面を被った父親”だった。 「学校での振る舞い、すでに耳にしている。例の“榎本”というオメガと交際していると、皆に宣言したそうだな」  その声は、父親のものではなかった。まるで家の威信そのものが喋っているような、感情の一滴も混じらない響きに背筋が凍る。それでも、ここで否定することだけはしたくなかった。 「事実です」  静かに、しかしはっきり答えた。父の眉が僅かに動く。 「相手はオメガだろ。馬鹿なことを言うな」 「……」 「お前は佐伯家の跡を継ぐ者だ。今からオメガに入れ込んでいては誰からも信用されん。アルファの力を無駄にするだけだ」  淡々とした言葉が、まるで判決のように耳に届く。血を分けた父親の口から放たれた一言一言が、心の奥を切り裂いた。けれどその奥に、榎本の笑顔が浮かぶ。  あの不器用な優しさが、俺を縛っていた鎖をひとつずつ解いてくれた。 「俺には……榎本が必要なんです」  両手の拳を握りしめながら告げた言葉は、情けないくらいに震えた。父の眼差しが鋭さを増す。 「不適格だ、涼。お前がその道を選ぶというのなら、跡継ぎの資格を失うことになる」  喉の奥が焼けるように痛む。跡継ぎの資格――つまり、佐伯家の“息子”であることすら捨てろということだ。それでも、俺には迷いはなかった。俺は初めて、父の瞳を真正面から見つめ返す。 「それでも、俺は榎本を選びます」  その言葉に、父の眼差しが一瞬だけ鋭さを失った。あの強靭で揺るぎない人間が、言葉を呑み込んだのがはっきりとわかる。 「……お前は……」  その声は、苦しげに途切れた。まぶたの奥に、一瞬だけ“あの人”の影がよぎったような気がした。懐かしい痛みを抱えたその瞳。俺の母――かつて、オメガだった秘書の面影がそこにあった。 (父さん、オメガの母さんのことを……?)  思わず、胸の奥がざわめく。父と母――オメガである秘書との関係は、表立って語られることはなかった。けれど、俺は知っている。確かに父が彼を愛していたことを。その記憶が今この瞬間、父の中で疼いているのだろう。 「……くだらん」  それだけ吐き捨てるように言うと、父は立ち上がった。その背中は威厳に満ちていながらもどこか重く、ゆらゆら揺れているように俺の目に映った。 「今日はここまでだ」  冷たくも震えを帯びた声を残して、父は扉の向こうに消えた。重い扉が閉まる音が、心臓の奥で鈍く響く。  広すぎる応接間に、俺はひとり取り残された。だけど不思議と後悔はなかった。榎本を選ぶと、はっきり言えた自分に。そして動揺を隠しきれなかった父の背中に。 (父さん……もしかしてあのときの痛みを、まだ抱えているんじゃないのか)  そう思った瞬間、胸の奥がじんわりと熱を帯びた。それは怒りでも反抗でもない。初めて、父と同じ痛みを分かち合えたような――そんな静かな温もりだった。

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