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第五章:壊したい未来、守りたい人14
日曜の朝。空気はもう冬の匂いがしていた。吐いた息が白くなるのを見て、やっぱり俺は場違いなんじゃないかと思った。
佐伯の家の門は、やたらとでかい。敷地に足を踏み入れた瞬間から、背筋が勝手に伸びた。
(……やべぇ、緊張してきた)
佐伯は横で静かに息を整えていた。スーツ姿の彼はいつもの“委員長”より少し大人びて見える。
「大丈夫か」
「う、うん。たぶん」
「父は、見かけより柔らかい人だよ」
そう言われたけど、“見かけより”の部分が逆に怖い。だけどここまで来て、逃げるわけにはいかない。
応接室の扉を開けた瞬間、空気がやけに冷たく感じた。佐伯の父親は、まっすぐ背筋を伸ばして座っていた。黒のスーツがすげぇ似合う人で、その視線は俺たちを射抜くような圧がある。
「こっ、こんにちは! 今日はお時間を作っていただき、ありがとうございます」
言いながら深く頭を下げる。畳の上に手をつく指先が少し震えた。けれど、言葉だけはまっすぐに出せた。
「榎本くん……頭を上げなさい」
その声は意外にも静かだった。俺はゆっくり顔を上げる。佐伯の父親の瞳は冷たいようで、どこか遠くを見ていた。隣にいる佐伯が先に口を開く。
「父さん、俺は榎本と番になりました。これからは彼とともに生きていきます」
「お、俺も佐伯を支えられるように頑張ります!」
俺たちの宣言を聞いた佐伯の父親は、持っていたカップを静かに置いた。そして、しばしの沈黙のあと――ぽつりとつぶやいた。
「……君を見ていると、昔のことを思い出す」
「え……?」
「私の秘書だった……オメガの男性だ。君とはタイプは違うのだが」
その言葉に、息が止まった。佐伯が驚いたように目を見開く。俺は黙って耳を傾けた。
「彼はとても有能で、誰よりも優しかった。だけど当時、世間は今よりも彼を“異質”と見なした。私はそれに押し潰されて守れなかった。……結局、彼を失った」
佐伯の父親の声が少しだけ震えた。その震えが、胸の奥にじんと響く。抑制剤の開発のおかげで、昔よりはオメガに人権が与えられている。進学もオメガばかりの学校に通うことがないし、職業だって夜職以外にも自由に働くことができた。
それでも、オメガじゃないとわからない苦労――好きな相手と番になりたくても、なれない現実はそこにある。
(――この人も、痛みを知ってるんだ)
どんなに立派でも、冷たく見えても。失った記憶の奥には、ちゃんと人間らしい心があることに、胸がじんと熱くなる。
「だから、わかる気がする。涼が君を選んだ理由が。まだまだ半人前の息子ですが、支えてやってほしい」
その言葉にすぐさま返事をしなきゃいけないのに、喉の奥が突っかかって言葉が出ない。視界がにじむのを堪えながら、俺は深く頭を下げた。
「ありがとうございます。……俺、絶対に佐伯を幸せにします」
その瞬間、佐伯の父親がふっと目を細めた。微かに笑ったようにも見えた。
「頼んだよ、榎本くん」
外に出た瞬間、冬の風が頬を撫でた。緊張がほどけて、肺の奥まで冷たい空気が入ってくる。話し合いで熱を持った体を冷やすのには、ちょうどよかった。
「なぁ、委員長……俺、ちゃんとできたかな」
「……あぁ。よく頑張った」
その声に、心が少しあったかくなる。見上げた空は、どこまでも透き通っていた。
「俺さ、ちょっとわかった気がする。お前の父さんもお前も、ずっと“誰かを守れなかった”痛みを抱えてたんだなって」
佐伯は綺麗な二重瞼を細めて、優しく笑った。その笑みが、夕暮れの光にやわらかく溶けた。
「でも、もう守れる」
「え?」
「俺の心は決まってる。俺は絶対にお前を守る。父さんも、もうそれを否定しない」
言葉の一つひとつが、胸の奥に落ちていく。気づけば、涙がにじんでいた。
「ううっ……やっぱ、好きだわ。お前のこと」
俺がそう言うと、佐伯は少し照れくさそうに笑って、そっと俺の頭を撫でた。
「知ってる」
その瞬間、冷たい冬の風さえも、やさしく感じた。
「榎本、どうした? 珍しく静かだな」
「いや、なんでもねーよ」
「嘘が下手だな。顔に出てる」
佐伯は足を止めた。街灯の光が俺の横顔を照らす。明るく笑うときのそれではない、影を帯びた表情だった。
「なぁ、委員長」
「なんだ」
「俺、昔さ。ちょっとヤバいことがあったんだ」
佐伯の眉が僅かに動いた。けれど彼は口を挟まず、ただ黙って聞く姿勢を見せたことで、重たい口が自然と開く。
「中学のとき……俺、フェロモンの抑制剤が切れてるのに気づかなくて。そのとき、同じクラスのアルファに嗅がれた」
短く、乾いた笑いが混じった。だけど、その声の震えはどうしても隠せなかった。
「運悪く放課後、誰もいない教室でさ。逃げようとしたけど、身体が動かなかった。オメガの本能が勝手に反応して、息ができねぇくらい怖かった。でもそのとき親父が迎えに来てくれて、扉を開けた瞬間、アイツ(加害者)が怯んで……ギリギリ助かったんだ」
隣で歩く佐伯が眉をひそめる。最後は笑いながら告げた“助かった”という言葉の軽さに、どれほどの恐怖が隠れているのかがバレてしまったのだろう。
「それからだよ。抑制剤は絶対切らさねぇようにしてるし、喧嘩が強いとか言われるけど、ただ……もう二度と、自分も他人も傷つけたくねぇだけなんだ」
もっと笑おうとした。けれどその笑みは、今にも崩れそうなものになってしまった。
「俺がふざけてるように見えるのは、そのせいかもな。本気を出すと、あの時の空気を思い出すんだ。だから、馬鹿やってごまかしてんのかもしんねぇ」
佐伯はゆっくりと俺に歩み寄った。そして俺の手を優しく取る。その手は、いつも喧嘩で擦りむいた跡が残っているけれど、今は少し震えていた。
「榎本……言ってくれて、ありがとう」
「は? なんでお前が礼を言うんだよ」
「お前が“恐れ”を抱いて、それでも笑おうとする理由を知れたからだ。俺は、そんなお前を軽く見ていた。メンタルも喧嘩も強いヤツだとばかり思ってた」
「違うよ。俺、全然強くねぇ。……でも、お前の前では強くありたかった。それだけだ」
俺の告げた言葉に、佐伯が真剣なまなざしを注ぐ。俺の「強がり」がただの明るさではなく、過去の痛みの裏返しだと知ってしまったせいだろう。
「榎本……」
「なぁ、委員長。俺、あの時――襲われたのが、お前じゃなくてよかったって思った」
「それはどういう意味だ」
「お前みたいな真面目なアルファが、あんな恐怖を知ったら壊れちまうと思う。だから俺が代わりでよかった。そう思えば……少しだけ怖さが薄れるんだ」
その自己犠牲のような言葉が佐伯の胸を締めつけたのか、彼は俺の手を強く握り返す。
「榎本。俺は、そんな理由でお前を放っておけない。お前が怖い思いをした分だけ、今度は俺が守る」
「委員長、マジでそういうのズルいって……」
「ズルくてもいい。俺はお前の隣にいる。お前のために強くあり続けたい」
ハッキリと強く告げられた言葉に、息を詰めた。俺はそれをごまかすように、いつものように無理やり明るい声で言った。
「お前、ホント真面目すぎて、ずるいって」
「悪かったな」
言葉が風に溶ける。二人の間に、静かな夜が流れた。夜風が冷たく吹き抜ける中、二人の影がゆっくりと寄り添うように重なった。
「……お前さ、俺の話、全部聞いて引かなかったよな」
「引く理由がない」
佐伯はまっすぐに答えた。
「誰に何があっても、それを理由に価値は変わらない。お前は榎本虎太郎、それだけだ」
佐伯が言いきったセリフに短く息を飲み、手を伸ばしかけて途中で止めた。
「なぁ……俺、今まで“好き”って言葉、冗談みたいにしか言ったことなかったんだ」
「知ってる」
「でも今は違う。佐伯、俺……マジでお前が好きなんだ。フェロモンとか関係なしに、心臓が勝手にうるせぇくらい好きなんだ」
夜風が止まった気がした。胸の奥で、何かが弾けたように熱くなる。気づけば、佐伯の体を抱きしめていた。
「榎本……俺も、お前が好きだ。だが俺はまだ“家”ってものに縛られてる。簡単に全部を捨てる覚悟は、まだまだ足りない」
俺は小さく息を呑み、それでも笑った。
「わかってる。だから待つ。お前が“自分の足で”立つまで」
「……ありがとう」
「礼なんかいらねぇよ。だってこれが、俺たちの普通だろ?」
そう言って笑うと、佐伯も同じように笑った。その笑顔が月明かりに照らされて、ひどく眩しかった。胸の奥の、何年も冷たく凍っていた部分が、ようやく溶けた気がした。
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