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エピローグ:ふたりで行く道

 桜はまだ咲ききらず、淡い蕾が春風にそっと揺れていた。校舎の前には「卒業式」と書かれた白布の看板。保護者の列が門を彩り、青陵高校の三年間が静かに終わりを告げようとしていた。  俺は胸元のリボンを結び直し、深く息を吸う。鏡の中に映る自分は、いつもより柔らかい表情をしていた。  完璧を装い、弱さを見せることを恐れていた三年前の自分とは、もう違う。笑うことも、怒ることも、泣くことも、ようやく“自分”としてできるようになった気がする。 「おーい、委員長!」  廊下の向こうから金髪が光を弾く。いつもの声なのに、今日は妙に穏やかに聞こえた。 「式、始まるぞ」 「わかってる。でもその前に、一個だけ」  榎本虎太郎が、胸ポケットから小さな封筒を取り出す。少しだけ照れくさそうに、それでも誇らしげに笑った。 「推薦、もらえた。……お前と同じ大学」 「……そうか」  短い返事だったが、胸の奥がふっと温かくなった。まるで、自分の努力が報われたような気がして。 「報告だけのつもりだったけどさ」  榎本は一歩、近づいた。ざわめいていた廊下の声が、不意に遠のく。春風が二人の間を抜け、髪を揺らした。 「俺、卒業してもずっと、涼の隣にいたい」  風が校舎の隙間を抜け、桜の蕾を小さく揺らす。榎本の声は真剣で、冗談めいた色が一つもなかった。胸の奥で、心臓の音が一拍遅れて大きく跳ねた。 「前にも言った。俺は、簡単に“好きだ”なんて言葉で済ませられない」 「知ってる。でも好きって言葉は、お前に使うためにあるんだろ」  ――まっすぐすぎる。なのに、痛いほど心に響く。理性が追いつかないまま、気づけば俺の手が榎本の腕を掴んでいた。 「俺は……お前がいたから、ここまで来られた」 「じゃあ、これからも一緒に行こうぜ」 「……あぁ」  視線が重なる。恐怖も、孤独も、家の名に縛られた重圧も――今は、どこにもない。ただ一人、隣にいる人間だけが確かな現実だった。  校内放送のチャイムが鳴る。卒業生を呼ぶアナウンスが、春の空気を震わせた。 「そろそろ行くか、ジュリエット」  その呼び名に、思わず苦笑が漏れる。何度注意してもやめない。けれど今は、不思議と嫌じゃなかった。 「その呼び方、まだ続けるのか」 「当たり前だろ。俺のジュリエット」  ほんの一瞬、視線がぶつかる。笑い合う声が、春風に乗って校舎を包んだ。その日、青陵高校にひとつの伝説が生まれる。  ――“卒業式で手を繋いだ委員長と問題児”。  クラスメイトたちは口々に囁くだろう。 「まさか本当にくっつくとはな」 「けど、あの二人なら納得だ」  舞い散る花びらの中で、榎本がそっと手を握り直す。その温もりに、俺は静かに微笑んだ。 「この先どんな道でも、涼の歩幅に合わせるよ」 「……それは、頼もしい言葉だな」  春。別れと始まりが溶け合う季節に、二人の歩幅は、静かに同じ未来を踏み出していた。

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