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(三)寵妃の罠

「──鳥が……」  イルハリムは訴えた。  帳の向こうはまだ暗いが、夜明けを知らせる一番鳥の鳴き声が聞こえたからだ。  首筋に鼻を埋めた皇帝は諦めの滲んだ息をつき、覆い被さっていた体を離した。  背中が寒々しくなると途端に物足りないような気持ちになって、イルハリムは吐息を押し隠す。  寵妃アイシェが離宮から戻って数か月が経過したが、皇帝はいまだにイルハリムを解放しようとしなかった。  間遠になるどころか、数日おきには呼びつけて夜伽を命じ、交わりはますます濃密になっていく。こうして夜明け近くまで肌を合わせていることもしばしばだ。 「戻れそうか」 「はい」  大きな寝台から苦労して身を起こすイルハリムに、先に起き上がった皇帝が手を差し伸べてくれた。その手を取って、慎重に立ち上がる。  以前、夜通し狂わされた翌朝に寝台を降りようとして、立てずに床に座り込んでしまったことがあった。それ以来皇帝は姫君にするように手を取って体を支えてくれる。ありがたいが、身分を考えると畏れ多い。  立ち上がって息を吐いたイルハリムは、隣に並び立つ皇帝を仰ぎ見た。  ──名工の手になる彫像のような、美しい裸体。  獅子帝の名の由来となった金褐色の髪が、広い肩をたてがみのように覆っている。  日に焼けた肌は赤銅色、太い首の上の貌は野生の獣のように精悍だ。  厚みのある大きめの唇、高く通った鼻梁、そして切れ長で鋭い金の双眸──。  その瞳が今は穏やかな明るい色をして、イルハリムを見下ろしていた。 「お心遣いに感謝いたします、陛下」  少しふらつくが、歩いて戻れそうだ。  イルハリムが手を離すと、皇帝は空になった掌に視線を走らせ、名残を惜しむように拳を握った。  夜が明け始めると、明るくなるのは早い。  イルハリムはだるい体を叱咤して、宦官長の長衣を身に着けた。人目につかぬよう、頭布も目深に被る。  皇帝から夜伽の命を受けていることを、イルハリムは周囲に内密にしていた。  できれば側女たちが起き出す前には自室に戻りたい。  手早く身支度を整え、辞去の挨拶をして部屋を出ようとすると、皇帝がイルハリムを呼び止めた。 「昨夜も良く仕えてくれた」  掌に収まるほどの小さな袋が手渡される。  中に入っているのは金貨だ。夜伽を務めたことへの褒賞である。  本来ならば、後宮宦官長であるイルハリムは皇帝の寝所に入る資格がない。閨の務めは、側女と寵妃だけに許された崇高な奉仕だ。  しかし側女では皇帝の相手が務まらず、唯一の寵妃であるアイシェは産後の身体が回復しないようで、夜伽の支度をせよとの下命はまだ一度も発されていなかった。  精力を持て余す皇帝は、彼女らの代わりにイルハリムを呼び出して、溢れんばかりの精を注ぎ込む。  だが成人も過ぎた宦官を側女代わりに使うのは、けっして外聞のいいものではない。偉大なる皇帝の後宮が、まともな側女すら用意していないと触れ回るも同然だ。  そのため、イルハリムは皇帝の寝室に通っていることを隠していた。  夜通し抱き潰された次の日も、疲れを押し隠して普段通りの勤めに就く。皇帝のように特別頑健というわけでもないイルハリムにとって、ほとんど一睡もしないまま翌日の仕事に入ることは、かなりの負担ではあった。  皇帝はそれを知っているはずだ。時には仕事の進捗具合は問題ないかと問われることもある。  にもかかわらず、数日おきの夜伽の命は途切れることなく、寝台の中で手を緩めてくれることもない。  その代わり、最近ではこうして金貨を下賜されるようになった。  喜ぶべきではあるが、欲しいかと問われれば正直なところ返事に困る。宮殿に勤めていれば衣食住は足りており、出所を言えない金貨は使う場所がないからだ。  かといって、皇帝から褒賞として下されるものを辞退するのは不敬となる。それに、自身の奉仕に満足してもらえた証だと思えば、やはり嬉しい。  イルハリムは素直に膝を突いた。 「……ありがとうございます。陛下のご厚情に感謝申し上げます」  礼の言葉を述べながら、果たして褒賞を差し出さねばならないのは自分の方ではないかと、イルハリムは自嘲した。  昨夜も皇帝が放埓を迎えるより早く、イルハリムの方が先に悦楽に溺れてしまった。  我を忘れ、皇帝の肉体を思うさま貪り、途中からはこれが奉仕であることなどすっかり頭から消え去っていた。  だがそれを口には出さずに、イルハリムは両手を掲げて恭しく袋を受け取った。 「それから──」  どうやら今日は金貨以外にも何かあるようだ。おとなしく待っていると、皇帝は自らの小指に嵌めていた黄金の指輪を抜き取り、イルハリムの左手を取った。  明るく輝く大粒の紅玉が付いた、いかにも高貴な指輪だ。  皇帝は重みのあるそれを、イルハリムの指に通した。 「これは……」  紅玉は獅子帝を象徴する宝石である。  側女ならば皇帝の寵を得た印として宝飾品を与えられることもあるが、イルハリムは宦官だ。このようなものを貰う謂れも、身に着けるべき場所もない。  断ることができないことはわかっていたが、思わず問うように見上げたイルハリムに、皇帝は穏やかな笑みを浮かべて言った。 「あって困るものでもなかろう。いずれ宮殿を出るときのひと財産になる」  徐々に明るくなっていく廊下を歩きながら、イルハリムは人目がない物陰で指輪を外し、懐に収めた金貨の袋に仕舞った。 『いずれ宮殿を出るとき──』  指輪を渡された時の皇帝の言葉を噛み締める。  年が明けて、イルハリムは二十八になった。幼いうちに売られてきたので、これでも後宮では古参の方だ。  自分より先にいた宦官たちは、別の宮殿に配置換えになるか追放されるかして、ほとんどいなくなってしまった。よほどの後ろ盾がない限り、ある程度の年齢になれば他所にやられるのが慣例のようだ。  イルハリムがここを出される日も、そう遠くないのかもしれない。だからこそ皇帝は、外で生きるのに困らぬようにと、金貨を与えてくれている……。  イルハリムは寝所での変化を思い出していた。  交わりが一方的だったのは初めの頃だけだ。このところの皇帝は情熱的ではあるが、細やかな気遣いを見せてくれるようになった。  夜伽の時には何度も唇を合わせ、前戯も後戯も時間をかけて濃厚に行われる。交われば、自身の快楽を追求するばかりでなく、イルハリムにも深い悦びを与えてくれる。  日常の政務でも気性の荒さは鳴りを潜め、以前とは別人のように穏やかな印象に変わった。  ──今ならば、皇帝は慈悲をもって奴隷の身分から解放してくれるだろうか。  歩くたびにシャララシャララと鳴る鈴の音を聞きながら、空想する。願い出ればこの足環を取り去って、『与えた褒賞で故郷を探すなり帝都に住むなり、自由にせよ』と言ってくれるのではないか、と。  だが心浮き立つはずの想像は、イルハリムの気持ちを少しも明るくはしてくれなかった。足元の床が消えてなくなるような不安に襲われただけだ。  いつの間にか、今の日々がこの先もずっと続くつもりでいたのだと、気付かされた。  いつまでも後宮にいられるわけではない。身の振り方をそろそろ真剣に考えておくべきだ。  そう自分に言い聞かせながら廊下を進んでいたイルハリムは、角を曲がった際に、自室の前で側女が待っているのを見た。  確かアイシェ妃の部屋付きになった側女だ。 「……宦官長。お妃様がお部屋でお待ちです」  側女の固い表情に、ついに来るべきものが来てしまったとイルハリムは悟った。  窓の外がようやく明るくなり始める時刻にもかかわらず、寵妃アイシェは衣服を整え、化粧も済ませた姿でイルハリムを迎えた。子どもたちの姿は見えない。  前に進み出て深々と礼をとろうとして、イルハリムは彼女の目元が泣き腫らしたように赤くなっているのを見てしまった。華やかに化粧を施した顔も、滲み出る憔悴を隠し切れていない。  昨夜は眠らなかったのだろう。理由は、考えるまでもなかった。 「──宦官長。昨夜は部屋を空けていたようね。何処にいたのか言いなさい」  脚を組みなおして、アイシェは尋ねた。  イルハリムに見せつけるかのように、左の足首を飾った鈴をリリリ……と鳴らして。  帝国の法において、婚姻とは一夫一婦制である。  皇帝といえどもそれは同じで、正式に妻と呼ばれるのは皇妃ただ一人だ。  後宮に住まう幾人もの女人は妻でも妾でもなく、すべてが奴隷であり、皇帝の所有物という扱いになる。それは皇帝との間に子を為した寵妃であっても例外ではなかった。  しかし寵妃の身分は、世話係である宦官や一夜の無聊を慰める側女とは一線を画している。  寵妃にはそれぞれ個室が与えられ、筆頭寵妃ともなれば、皇帝の代理人として後宮の管理も任される。産んだ子が皇位に就けば母后と呼ばれ、奴隷の身分からも解放される。  その特別な身分の証として、寵妃の足環には、黄金の鈴とともに小さな丸い記章が着けられることになっていた。──表には皇帝ラシッドの名が刻まれ、裏には紅玉で皇室の紋章を象った、瀟洒な円形の飾り物だ。  アイシェはそれをイルハリムの方に向けた。  この記章に向かって安易な偽りや誤魔化しを口にすることは、皇帝への冒涜ともとられかねない。  イルハリムは心を落ち着かせるために、息を一つ吸ってから口を開いた。 「昨夜は皇帝陛下のお召しがあり、御前に参っておりました」  平静な声が出るようにと祈りながら、問いに答える。 「こんな時間まで? 何の用で?」 「宦官の人事と側女の処遇についてお尋ねがあり、ご報告申し上げました。その後、皇帝陛下より来年度の予算についてのご意向と、近々の視察についてお話がありましたので、それを承っておりました」  淀みなくイルハリムは答える。口にしたことは事実だ。  皇帝の寝室に長く留まるようになってからは、交わりの合間の時間に、宦官長としての報告を行うこともあった。二度三度と交わっても尽きぬ皇帝の体力に、イルハリムの方が休みなしではついていけないためだ。  それゆえに、イルハリムはアイシェがなぜ今日という日を選んだのかも知っていた。  今日、皇帝は午前のうちから港に出向き、海軍司令とともに造船所の視察を行う。  どれほど早く見積もっても宮殿に戻るのは夜か、もしくは翌日の昼以降になるはずだ。  皇帝の不在という好機を、彼女は指折り数えて待っていたのに違いない。  アイシェが部屋付きの側女に目で合図すると、二人の側女が大きな盆を運んできた。その上には見覚えのある袋がいくつも載っている。 「お前の部屋から回収したものよ。これだけの財をどのような手段で得たのか答えなさい」  盆の上に載っているのは、金貨の袋だった。  イルハリムは宦官長として小さいながら個室を与えられている。皇帝の寝所に出向いている間に、そこを家探しされたのだろう。  ついにこの日が来てしまったなと、イルハリムは思った。これから断罪されるというのに、まるで他人事のように現実味を感じない。  故郷の村から攫われて、船に乗せられた時もそうだった。悪い夢のような現実が前触れもなく訪れて、平穏を奪い去っていく。  そして、幼いあの日も今も、イルハリムは運命に逆らう力を持たない。 「……宦官として後宮に入って十六年になります。その間にいただいた給金と、折々に賜った褒賞でございます」  何を言っても無駄だとわかっていたので、思ったよりも声は冷静に出た。  イルハリムの答えを聞いて、アイシェは芝居の筋書き通りに叫ぶ。 「嘘を言うな!」  彼女は掌に収まる小さな袋を手に取って、イルハリムの足元に投げつけた。重たげな音とともに、袋から金貨が散らばり出る。次の袋も、その次の袋も。 「お前たちの給金は銀貨だというのに、これだけの金貨をどうやって手に入れた! 皇帝陛下の信頼を裏切り、職位を悪用して賄賂を受け取ったのだろう! 違うと言うなら言ってみよ!」  足元に散らばる黄金を、イルハリムは悲しい思いで見つめた。  皇帝の横顔を象った金貨が、まるで石ころのように床に叩きつけられる。  皇帝自身には向けることのできない怒りを、彼女はこの金貨にぶつけているのだ。  帝都の後宮に住まう寵妃は、今はアイシェ一人である。  彼女は皇帝の寵愛が移ろうのを怖れ、自分以外の寵妃や側女にさまざまな罪を被せて後宮から追い出した。  ようやくそれで一息つこうとしたのに、皇帝は彼女が出産で不在にしている間に、よりにもよって宦官などに手を付けていたのだ。アイシェの怒りと絶望は深かったに違いない。  側女であれ宦官であれ、彼女は自分以外が皇帝の側に侍ることを決して許さない。事実を知れば、アイシェは即座にイルハリムを排除しに来る──。  それは、宦官の身で初めて夜伽を命じられたときから、わかっていたことだった。  言い逃れできるものならしてみろと、アイシェはイルハリムを睨み据えている。イルハリムは沈黙を選んだ。  どちらにせよ、この芝居の結末はすでに決められていた。逆らうすべはない。  ならば、その結末に僅かばかりでも慈悲を加えてもらえるよう、従順でいるしかない。  無言を通すイルハリムを見据え、アイシェは一つ息を吸い込んだ。  緊張を孕んだ甲高い声が部屋に響く。 「衛兵! 反逆者を投獄せよ!」 「──宦官長イルハリム。賄賂で私腹を肥やした罪により、足打ち刑五十、罷免し私財没収の上、国外追放処分とする」  罪の確定は速やかだった。日が中天に昇る頃、イルハリムは牢の中でアイシェから刑を言い渡された。  その内容に、密やかな吐息をつく。  収賄による反逆罪に問われたにしては、破格に軽い罰だ。アイシェの描いた筋書きに逆らわず、夜伽の事実も口にしなかったことで、いくばくかの温情をかけてもらえたらしい。イルハリムは慈悲深い処分に礼を述べた。  足打ち刑は、足の裏に細い木製の鞭を受ける刑罰で、窃盗の罪に適応されることが多い。  二十を超えると当分の間歩くことができなくなるが、それでも手足を切り落とされることに比べれば十分軽いと言える。  仰向けに寝かされ、台の上に揃えて縛られた両足の裏を刑吏が打つ。その間、刑の執行を見守るアイシェは肩を震わせて泣いていた。  後宮の覇権争いは苛烈だ。  アイシェが産んだ以外にも、皇帝の血を引く皇子は大勢いる。自らの容色は日々衰える一方で、後宮には若い側女が次々と買い取られてくる。  イルハリムを排除したとしても、彼女の苦悩はこれからも続くのだ。我が子が皇帝となる日が来るまで安寧はなく、その日が来るかどうかも定かではない。  苦痛に呻きながら、イルハリムはその啜り泣きを聞いていた。  足裏に振り下ろされる鞭の苦痛は、皮膚を打たれる鋭い痛みから、骨に響く激痛へと変わっていた。  意識を朦朧とさせながら、イルハリムは皇帝を想う。  夜半を過ぎてもなお、獅子帝の精力は尽きなかった。  中で味わう絶頂の深さに正気を失くした時、皇帝はその力強い腕でイルハリムを抱き留め、息が整うまでただ抱きしめていてくれた。  恍惚の余韻を惜しむように、身を寄せ合って他愛もないことを話す時間が好きだった。  温かい皇帝の腕の中でじゃれあうように口づけを交わし、互いの髪を指で梳きあう心地よさ。そんなときの皇帝は、獅子のような金褐色の瞳を優しく細めて、口元には柔和な笑みを滲ませていた。  猛々しい皇帝のひと時の安らぎになれることを、イルハリムは誇りに思っていたのだ。  ──皇帝が自分の不在を知るのはいつになるだろう。  イルハリムは考える。  今朝肌を合わせたばかりなので、きっと数日は召されることもない。  皇帝が気づく頃には、あるはずのない罪の証拠が揃っているはずだ。実在しない商人の名で、イルハリムに賄賂を収めたと偽る証言がいくつも出されるだろう。これまでイルハリムが見ぬふりをしてきた、アイシェの常套手段だ。  信頼を裏切ったと皇帝に思われるのは少しつらい。だが、他にも多くの人間が同じように汚名を着せられて宮殿を追放されてきた。  強く聡いものは生き残り、弱いものは排除される。  ここはそういう場所なのだから──。  刑が終わって台から解放された時には、イルハリムはもう立てなくなっていた。きつく縛られていた縄を解かれた途端、傷口から血が滲み始める。  痺れて鈍くなっていた感覚も戻ってきた。焼けた石を踏んでいるかと思うほど、足の裏が熱い。  だが、科せられた刑はそれで終わりではない。 「三日以内に東へ行く船に乗せなさい。もしも遅れたらお前の首を斬り落としてやる」  アイシェは金貨の入った袋を投げて、刑吏に命じた。  刑吏は金貨を懐に収めると、呻きを漏らすイルハリムを大きな麻袋に詰め、宮殿の外に出る馬車の荷台へと投げ込んだ。  宮殿の裏門を出た荷馬車は、誰に怪しまれることもなく帝都の市街を抜け、西日に向かって進んでいく。  逆光に照らされているせいで、御者は道の向こうから進んでくる隊列に気づくのが遅れたらしい。慌ただしく馬を止めて地面に降り立ち、馬車を道の端に寄せる気配があった。  すぐ横を通り過ぎていく馬蹄の振動が、板で組んだだけの粗末な荷台を揺らす。  麻袋の中に閉じ込められて、イルハリムは熱っぽい体を丸めていた。  通り過ぎる隊列が獅子の旗を掲げているのを、イルハリムが目にすることはなかった。  荷馬車が港のある街に着いたのは、眩しく突き刺さる夕日が沈んで、辺りが薄闇に包まれる頃だった。  日は暮れたが、漁師や船乗りが多い港町は、むしろ今からが稼ぎ時だと活気に満ちている。麻袋から出されたイルハリムが見たのは、けばけばしい装飾に彩られた娼館の扉だった。 「東行きの船は明日出るそうだ」  顔を間近に寄せて息を吹きかける刑吏から、イルハリムは顔を背けた。  足の裏の血は乾いたようだが、焼けるような痛みは続いている。傷を負った体は熱を帯びているのに、朝から一滴も水を与えられていない。  走って逃げるどころか、これではまともに歩くのも無理だ。途中でイルハリムが逃げださぬよう、わざと手酷く打ち据えたのだろう。  罪人の立場を思い知らせるように、男はイルハリムの髪を掴んで仰向かせた。 「やることはわかっているな。今から船代を稼いでもらうぞ」  下卑た笑いを見るまでもなく、男が企んでいることは想像がついた。拒んでも無駄なこともわかっていた。  足打ち刑の途中から、男は打たれるたびに苦痛に顔を歪ませるイルハリムを、粘りつくような視線で見ていたからだ。  宮殿を追放された宦官の中には、体を売って口を養う者もいる。  幼い頃に去勢を受けた宦官は、髭も生えず体も女のように柔らかな上、肛淫でしか快楽を得られない。イルハリムも後宮が買い取ってくれなければ、街の娼館に売られていたはずだ。  しかし、こんな安っぽい店に売られたと知れば、皇帝は激怒するに違いない。  憤怒の表情をした皇帝を脳裏に思い描きかけ、今更だとイルハリムは自分を嗤った。  娼館に売られなくとも、生きるためにしてきたことは同じだ。皇帝の寝室に侍るようになるよりずっと前、後宮の薄暗い物陰で何人の衛兵を相手にしてきたことか。  イルハリムは気持ちを切り替え、阿るような微笑みを浮かべて刑吏の首に腕を回した。 「刑吏殿……」  男の期待に応えるように、哀れっぽい目で刑吏を見つめる。 「貴方になら、喜んで船代をお支払いします。心を込めてお仕えさせてください」  唇を舐めると、冴えない中年男がごくりと唾を飲み込んだ。  イルハリムはもう若くはなく、目を見張るような美貌の持ち主というわけでもない。  だが、帝国の人間に比べて東方人は若く見え、柔らかに整った癖のない顔立ちも、触り心地の良い肌も、こちらの男たちには好まれることを知っていた。  イルハリムは長衣の懐に残っていた袋を取り出し、男の手に押し付ける。 「……これは、どうぞ心付けとしてお納めください」  今朝がた皇帝から下賜された、今となっては最後の金貨だ。  中には大粒の紅玉を嵌めた指輪も入っているが、ここで出し惜しんでも取り上げられることに変わりはない。それにこの指輪を売り払って足がつけば、男は罰を受けるだろう。ささやかな仕返しだ。 「お願いですから、水を少し分けてくださいませんか。喉も渇きましたし、足の傷がひどく痛んで……」  首に凭れかかると、男は機嫌よくイルハリムを両腕に抱いた。  場末の男娼にでもなったような惨めさから目を逸らし、男に身を任せる。どうせすることが同じなら、ほんの僅かでも苦痛の少ないほうがいいに決まっている。  娼館の中へと運ばれながら、イルハリムは男の耳朶に唇を寄せて、吐息を吹きかけた。 「宦官流のご奉仕をいたしますから、どうぞ存分に堪能なさいませ……」  相手をせねばならないのなら、せめてこの男一人で済ませたい。  そう思って誘ったものの、残念ながら望み通りにはいかなかった。  水と僅かな食事を与えられたのと引き換えに、イルハリムは両手首をそれぞれの足首と繋がれて、床の上に転がされた。宮殿の宦官であることを表す頭布を猿轡にされ、長衣の裾を捲られる。  臍から下を露出したところで、数人の男たちが部屋に入ってきた。  男は初めからイルハリムに情けをかけるつもりはなかったのだ。 「後宮を追放された罪人だ。東へ追い返されるそうだから、せいぜい船代を稼がせてやってくれ」  膝を掴んで左右に開かせながら、刑吏の男が言う。  宦官の足の間をよく見ようと、客の男たちは手燭を持ったまま覗き込んだ。  象牙色の滑らかな下腹。  申し訳程度の柔毛の下は、排泄のための小さな孔と火傷に似た傷跡があるのみで、性別を象徴するものは何もない。  腰から尻にかけては、女というには少し寂しく、男というには丸みを帯びていて、まるで年端もいかぬ少年がそのまま大人になったような独特の線を描いている。  その脚の間に息づく窄まりは、今朝がたまでの激しい交合の名残で、かすかにぬめりを残していた。 「いったいどうして追放になったんだ」  左足の足環を掴んで、客の一人が最奥をよく見ようと蝋燭を近づける。  無防備な場所を炎に炙られる恐ろしさに耐えられず、イルハリムは自ら足を開いて、男たちが見たがる場所を曝け出した。  刑吏の男がその様子を見て、口の端を歪めて言い放つ。 「淫行だよ。宦官ってのはナニがない分、アッチの方に見境がなくなるらしくてな。所かまわず衛兵を咥えこんで、ついに皇帝陛下のお怒りに触れたんだと」 「おとなしそうな顔して、とんだあばずれだな」  刑吏の挑発に、男たちの熱気が一気に噴き上がるのをイルハリムは感じた。 「さぁ、どうする? 宮殿落ちの宦官を味見するのか、しないのか」  男たちの答えはすでに決まったようなものだった。  誰から名乗りを上げるのか、懐具合を窺うように互いの顔を見合わせた、その一瞬──。  手燭の蝋燭から溶けた蝋が、イルハリムの秘部に落ちた。 「ンッ! ンン──ッ!」  猿轡の間から漏れた苦鳴が引き金となった。  目の色を変えた男たちは、我先にと縛られた獲物に襲い掛かっていった。  反り返った肉棒が、前戯もなしに突き入れられる。  いきなり奥まで貫いて中を残酷に掻き回した荒くれは、溢れ出てきた残滓の多さに蔑みをあらわにした。 「この淫売が! ケツの中にたんまり精液溜め込んでやがるぞ!」  イルハリムは目を閉じて屈辱に耐える。  皇帝は昨夜もイルハリムの中に何度も精を解き放った。途中で溢れた分は布で拭き取ったものの、最後の数回分は収まったままだ。濃く濁った白濁は、腹の奥が熱く感じられるほどたっぷりと注がれた。  自室に戻ったらすぐに処理しようと思っていたのに、牢に入れられてそのままになっていた寵愛の名残が溢れ出てくる。 「足を打たれるくらいじゃ足りねぇなぁ、おい!」  腫れあがった足裏を叩かれて、イルハリムは腹の中の男を締め付けた。  釈明の機会は与えられない。手も足も封じられ、舌を噛むこともできない。男たちを満足させるまで、決して解放されることはない。  ──ならば、することは一つしかない。 「……すげぇ……こいつ、めちゃくちゃ絞ってきやがる……!」  突き上げる男の動きに合わせて腰を蠢かせ、しゃぶりつくように締め上げる。涙に潤んだ目で凌辱者を誘い、鼻の奥から呻きをあげて興奮を高める。  生きるために、今までさんざんしてきたことだ。 「うわ、っ……なんなんだ、よぉ……ッ」  きゅうッと全体を締め付けると、一人目の男が上擦った声をあげて体を震わせた。あっけなく精を放ち、生温かいもので内股を汚す。  呆然とする男を押しのけて、次の男が濡れた肉壺に挑んできた。  イルハリムは黒い瞳で二人目の男を見つめながら、力を抜いて猛る怒張を受け止める。 「おおぅ……こりゃ、堪んねぇ……」  圧し掛かったまま動こうとしない男のために、自由にならない体で尻を揺さぶった。  あの皇帝の相手を務めてきたのだ。木っ端のような男たちを悦ばせるなど容易い。  皇帝の剛直は、慣れたイルハリムでさえ毎回息が止まるかと思うほど逞しかった。  自身のために用意された肉体の中を、いかにも帝王然として、粛々と進んでくる。  焦りも見せずに堂々と突き進み、苦痛に呻けば動きを止めてくれるが、決して退くことはしない。退くのはイルハリムのすべてを侵略しきった後だ。  太い両腕でイルハリムをかき抱き、厚い胸の檻に閉じ込めて、並外れた怒張を根元まで収めさせる。その時に必ずイルハリムを抱きしめて言うのだ。──全部入ったぞ、と。  時には勝者のように誇らしげに、時には労わるように優しく囁いて、皇帝は少しの間じっとしてくれる。長大な剛直がイルハリムの中で馴染んで、快楽を生み出す源へと変わるのを待つために。  あとはもう、魂を揺さぶられるような陶酔の連続だ。  下腹の奥から湧き起こる快楽から目を逸らすことなど許されない。  喘いで、叫んで、声も嗄れるほど啼き狂って、高みに昇ったかと思うと失墜し、落ちる最中にまた舞い上がる。  蕩けるような恍惚の余韻に酔う暇もなく、次から次へと痺れるほどの官能に襲われて何もかもわからなくなる頃──まるで獲物を爪に引っ掛けて弄ぶようだった皇帝が、いよいよ獣王の本性を見せ始める。  泣き濡れるイルハリムの体を抑え込み、静かな唸り声をあげながら、深い場所を力強く突き上げて──。 「ン……ンフゥッ……!?」  腹の底から押し寄せてきた官能に、イルハリムは鼻に抜ける声を上げた。  皇帝とは似ても似つかぬ粗末な男たちだというのに、肉を穿たれる悦びが頭の中を徐々に白く染めていく。体の中に埋まった怒張を締め付け、より深い陶酔を得ようと肉襞が勝手に蠢き始める。 「見てみろよこの売女、何か漏らし始め、ッ……ああぁ、くそッ!」  イルハリムの下腹が快楽の蜜で濡れていくのを揶揄しようとして、男は余裕を失った。後はもう無言のまま、獣のような息遣いで腰を叩きつける。  足環が鳴る音に耳を犯されながら、イルハリムは猿轡を噛み締めた。  こんな下賤な男たちにと思うのに、波のように襲い来る官能に逆らいきれない。固く閉じた眦から、屈辱の涙が滲み出る。  その顔に、粘つく飛沫が上から注がれた。 「噂通りのメス猫が」  手で搾り出した白濁でイルハリムの顔を汚しながら、刑吏の男は口の端で嗤った。 「……今のうちに船乗りどもの愉しませ方を覚えておくんだな。船旅は長いぞ」  その瞬間、イルハリムは東へ向かう船に男娼として売られることを悟った。

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