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(四)小姓頭の部屋

「──今日も出航は延期だ。まったく、どうなってんだ!」  苛立たし気な怒鳴り声が、イルハリムの意識を浮上させる。  荒い足取りで近づいてきた男は、奴隷を縛りつけた寝台の端に腰を下ろし、傷が治らない足裏を手で叩いた。 「おい、生きてるか」 「うっ……」  イルハリムはもうろうとする意識の中、呻き声をあげた。  この港町に着いて、もう数日になる。  着いた翌日には東行きの船に乗るはずだったのだが、出航が延期されているらしく、いまだ船が出るとの知らせはない。  荷が揃わずに出航が見送られることは珍しくないそうで、はじめは小遣い稼ぎの日数が増えたと喜んでいた男も、昨日あたりからは焦りを隠せなくなってきた。  イルハリムの衰弱が目に見えて激しくなってきたせいもある。イルハリムは俯せた姿で、娼館の寝台に寝かされていた。  ここへ着て来た宦官長の絹の長衣は売り払われ、肌寒い季節だというのに今は全裸だ。  腹の下には丸めた敷物が押し込まれ、足の間は客が吐き出していった粘液で濡れそぼっている。両手は一纏めにして頭上で柱に固定され、口にはずっと猿轡が噛まされていた。  刑吏の男は時折猿轡を解いて水や食べ物を与えてくれたが、その代わり船乗りたちを呼び込んで、昼も夜もなくイルハリムの肉体を使わせた。  手当てもせずに放置された足裏の傷は治る気配もなく、縛られたままの手首も感覚がない。  昨日は一日中高熱に苦しんだが、今日はもう意識を失っている時間の方が長かった。 「おい」  もう一度足を叩かれたが、今度はもう呻き声さえ出なかった。水が欲しい、と訴えたかったが、思う端から意識が途切れる。 「くそ! 死ぬんならもう一人ぐらい客を取ってからにしろ!」  イルハリムから取り上げた指輪や長衣も、売れるものはすべて売り払って金に換えたというのに、強欲な男はまだ満足しないようだ。  そう考える間にも、意識はまだらに濁っていく。  霞む意識の片隅で、男の足音が遠ざかるのは感じていた。  夢かうつつかも判然としない暗闇が訪れ、次に気が付いた時には、部屋の中に複数の人の気配があった。また新しい客が来たらしい。  何を命じられても、もう指一本動かす気力もない。  汚れた寝台にぐったりとして身を預けていると、体が強く揺さぶられた。 『──イル──イルハリ──ム』  水の中から呼ばれるような声は、果たして幻聴だろうか。応えようとしたが、乾ききった喉からは掠れた呻きが漏れただけだ。  ひどく揺すられると思っていたが、いつの間にか体は宙に浮いていた。どこかへ連れていかれるようだ。  死んだと思われて、海に捨てられるのかもしれない。 「……み、ず……を……」  猿轡はもうなかった。手足を縛られてもいない。  相手が誰かもわからぬまま、無意識のうちに手に触れた服を握り締める。喉がカラカラだ。最期に一口でいいから冷たい水を飲みたかった。  口元に何かが押し当てられ、細く流れる液体で唇が濡れる。──水だ。  懸命にそれを飲もうとしたが、渇くあまりに口も喉も上手く動かない。一口も喉を通らないまま、水は口元を濡らしただけで流れ落ちてしまった。  絶望がイルハリムの胸に染み渡る。  このまま朽ち果てるしかないことが、実感となって押し寄せてきたのだ。 「へい、か……」  死を予感して、イルハリムは閉じた瞼に宮殿を思い描いた。  大理石でできた床に、壁を飾る金の装飾。庭を彩る折々の花。立ち込める蜜蝋の芳しさ、廊下に漂う微かな乳香。  華やかな薄物を纏った側女たちが、足首の鈴を鳴らして後宮を歩く。重厚な絹の衣装を纏い、重々しい足取りで宮殿を行く貴族や官僚。  彼らの頂点に立つのは、丈高い皇帝ラシッドだ。  獅子のたてがみ、黄金の瞳。赤銅色の肉体は惚れ惚れするほど美しく、真紅の衣を纏う姿は生まれながらの支配者のように威厳に満ちている。  あの生ける軍神が、ひと時の無聊の慰めとはいえ、イルハリムを欲して抱いた。思えば、あれは夢のような日々だった。  我を忘れるほどの法悦。圧し掛かってくる大きな温もり、鼻をくすぐる蠱惑的な香り。満足の吐息を耳元で聞く誇らしさ……。  皇帝はもう、イルハリムがいなくなったことを知っただろうか。  怒り、呆れ、少しは探そうとしてくれただろうか──それともたかが奴隷一人のことなど忘れてしまっただろうか。  失踪の理由がどう伝えられたのかも、心に掛かる。刑吏の男が言ったように、淫行がすぎたから追放したなどと偽られていたら、死んでも死にきれない。  ああ、違う……。  イルハリムはかさついた唇を震わせる。偽りなどではない。  十二の歳で後宮に入ってから、何人もの男に抱かれた。この娼館でも荒くれた船乗りたちを何人相手にしただろう。  浴びるほどの精液に塗れ、尻を振りたくって男を貪り、蜜を垂れ流して悦んでいたではないか。  汚い、穢れきった体だ。 「……み、ない……で……」  もしも死体が皇帝の前に引き出されたとしても、見ないでほしい。  皇帝に寵愛された体を、卑しい男たちが掃き溜めのように扱ったなどと知られたくない。  誰にも知られぬまま、海の中で消え果てたい。  初めから、存在などしなかったかのように──。  ──闇の中に意識が沈みかけたその時、唇が覆われ、渇いた喉に冷たい水が流し込まれた。  追い立てられるような夢を見て、目を覚ましてはすぐにまた眠りに落ちる。  浅い眠りと短い覚醒を繰り返し、イルハリムは目を開けた。  今は朝か、それとも夜か。ここはいったいどこなのか。頭が痛くて息も苦しい。顔は火照って熱いのに、寒気がして体が震える。  やけに瞼が重かった。明かりが眩しくて涙が出る。目を開けていられない。  そのまま目を閉じてもう一度眠りに就こうとしたとき、誰かが肩を揺すって目覚めを促した。 「──寝るな。寝るなら水を飲んでからにしろ」  肩を揺らして厳しい顔で叱るのは、皇帝だった。 「陛、下……?」  無理矢理体を起こされて、口元に水の入った杯を押し付けられる。  問答無用で傾けられるのを、待ってほしいと制止する暇もなく、口元に水が押し寄せてきた。  苦労して数口は飲み込んだが、口の端から零れた分も少なくなかった。  少しむせて、途切れ途切れの小さな咳が落ち着いたころ、もう一度水の入った杯が差し出された。  イルハリムはそれを受け取ろうとしたが、腕を動かそうとした途端、あちこちに痛みが走って身を縮める。少し動こうとしただけなのに、そこらじゅうが痛くて呻きが漏れた。  いったいどうしてしまったのかと思いながら、霞む目で辺りに視線を走らせる。今は夜のようだ。そして、ここは皇帝の寝所のようだった。  隣に座る皇帝は寝間着姿だ。膝の上にいくつかの書類を広げている。政務を執る手元を照らすように、燭台の灯りが一つだけ残されていた。  イルハリムは皇帝の片腕に抱かれて、凭れかかるように上半身を起こされていた。 「口を開けろ」  低い声で皇帝に命じられて、イルハリムは何も考えずに口を開けた。硬い指が歯の間を押し広げて、口の中に入り込む。  甘いものが舌の上に塗り付けられた。 「水だ」  指が抜けていくと、すぐにまた杯が口に押し付けられる。  頭がぼんやりして何も考えられないまま、イルハリムは傾けられた杯から水を飲んだ。  舌の上に置かれた甘い塊が、水に溶けて流れ込んでくる。今度はほとんど零さずに飲み込めた。甘みを帯びた水が喉を通り抜け、胃の腑に落ちていく。  そうだ、喉が渇いていたのだと、イルハリムは思い出した。体中が汗をかいて熱っぽく、水が欲しくて堪らなかった。  渇き切っていたのか、欲しかったはずの水を飲むだけでひどく疲れた。  体調を崩してしまっているようだ。もしかして、また皇帝に迷惑をかけてしまったのだろうか。  困惑しながら息を吐いていると、目の前に茶色く練ったものを乗せた皇帝の指が突き出された。おとなしく口を開けると、先程と同じ甘い塊を舌の上に塗り付けて、指が出ていく。  薬を蜜で練ったものだと、やっと見当がついた。 「仕事が溜まっているぞ、宦官長」  水の入った杯を押し付けながら、皇帝が厳しい声で叱責する。水を飲まされているので返事もできないが、直々に叱責を受けるほど仕事を溜めてしまったということか。いったい、いつ──。  何かおかしいと思いながら、与えられるままに水を飲む。  まるで喉を塞がれたかのように、たかだか杯いっぱい程度の水が喉を通っていかない。  口の中に残った水を苦労して飲み下した途端、無理矢理開けていた重い瞼が、時間切れだと言わんばかりに降りてきた。  もう起きていられない。意識が眠りの中に沈んでいく。 「──さっさと職務に復帰せよ。お前の仕事の肩代わりは誰にもさせぬからな」  皇帝はひどく機嫌を損ねているようだ。  御意、と答えようとしたときには、イルハリムはもう眠りの中にいた。   「──それで、大宰相に話は通してあるのか?」  隣に腰かけた皇帝からの問いに、イルハリムは議事録の写しを差し出して答えた。 「ご報告済みです。近日中に法官の選定を行うとのお言葉でした」  写しを手に持って字面を追う皇帝は、残る片手でイルハリムの体を引き寄せて、自分の胸に寄りかからせた。後ろから回りこんだ手が熱を測るように額を覆う。今日はイルハリムの額より、皇帝の掌の方が温かいようだ。  一時は少し根を詰めただけですぐに熱が上がったが、しつこかった病魔もこの頃はすっかりイルハリムのもとを去った。  治りが悪かった足裏の傷も、保護のための布を巻いてはあるが薄皮が張ってきている。今日ようやく、医官から室内を歩く許可も下りた。  イルハリムは皇帝に肩を預けながら、周りに視線を巡らせる。  ここは皇帝の居室だ。  天蓋布に覆われた大きな寝台と、政務のための長椅子と机、中庭を見下ろす広いバルコニーがついている。  室内の一角には皇帝専用の浴室への扉が、その対面には皇帝の身の回りの世話や重臣たちとの橋渡しをする、小姓頭の部屋の扉があった。  もう目に馴染んだ景色だ。  娼館から助け出されたイルハリムは、宮殿に戻ってからずっと皇帝の居室に閉じ込められていた。  ──あの日、予定より早く視察から戻った皇帝は、イルハリムの不在をすぐに把握したらしい。  皇帝は、すぐさま街道の閉鎖と港の出入港停止を命じ、帝都及び周辺の都市に早馬を走らせた。各都市の長に対して、すべての宿という宿を検めて、黒髪に黒い瞳を持つ宦官を探し出すようにと命じたそうだ。職務に復帰し始めた頃、次官のデメルからそう聞いた。  イルハリムが連れていかれた港町は、皇帝が視察を行った造船所のある都市だったそうだ。  軍港を預かる海軍司令が直々に指揮を執り、安宿に監禁されていたイルハリムを見つけ出した。  傷の手当てをして宮殿に送り届けてくれたと聞いているが、生死の境を彷徨っていたイルハリムはそのあたりのことを覚えていない。  宮殿に戻ってからも、しばらくは高熱を出して意識がないままだった。  五日ほど寝込んでようやく起きていられる時間が長くなったのだが、そうなった途端、溜まった仕事が山のように運ばれてきた。  ただでさえ熱で頭が働かないところに、期限を過ぎた急ぎの決済が後から後から舞い込んでくる。皇帝はイルハリムの側を離れず、怖い顔をして仕事の進捗を見張っている。  次官のデメルは一体何をしていたのかと考える暇さえなく、イルハリムは皇帝の寝台を占拠したまま仕事をし、書類を握ったまま眠りに落ちる毎日を過ごした。  何かの手違いか、皇帝から渡される仕事の中には、宦官長としての職域を超えたものも時折紛れ込んでくる。獅子帝は側近である小姓頭を持たずに、幾人かの小姓にその職務を分担させているが、そちらで処理すべきものの一部が誤って回ってきたようだ。  後宮の管理に関わる書類や、大宰相や軍部からの報告書が届いたこともあった。差し戻そうとしたが、なぜか皇帝はそれらの確認までイルハリムの仕事にしてしまった。  ある時には、寵妃アイシェと彼女の部屋付きの側女、港町で捕らえられた元刑吏の処分に関する書類が、イルハリムの元に届いた。それに関しては、偶然や誤りによるものではなく、彼らの末路を知らせようという皇帝の計らいだったのだろう。  書面によると彼らの罪状は、皇帝の私物を盗み取って売り捌いたことによる反逆罪となっていた。私物というのはおそらく、皇帝の奴隷であるイルハリムのことだ。  量刑もすでに決定していた。側女三名は私財没収の上、宮殿を追放。元刑吏は足打ち刑五十ののち、四日間晒しものにして車裂き。寵妃アイシェは寵妃の位と私財を取り上げ、足打ち刑五十ののち、帝都を遠く離れた地方へ放逐する、とあった。  あとは皇帝の玉璽を待つばかりの、刑の執行書だ。  目を通したイルハリムは、震える手でそれを隣にいる皇帝に差し戻した。  皇帝は顔色も変えずに玉璽を押し、部屋に大宰相を呼びつけると、イルハリムが見守る前で『直ちに執行せよ』と静かに命じた。  後宮を預かる筆頭寵妃でさえ、皇帝の私物に害をなすことは許されない。  命を召し取られなかったのはアイシェが産んだ皇子皇女への配慮だと思われるが、彼女が辿る運命を思えば、慈悲深い処遇だと考えるのは難しかった。  ──その夜、久しぶりの高熱と悪夢がイルハリムを苦しめた。  だが、それ以降は憑き物が落ちたように、身体は回復へと向かっていった。  今日の分の報告が一段落したところで、イルハリムは凭れていた皇帝から体を離し、姿勢を正して伝えた。 「……本日、医官より歩行の許可が下りました。室内を歩いてみたのですが、問題ないようです」  手当てが遅れたせいで治りの悪かった足裏の傷だが、今日ようやく完治が伝えられた。  とはいえ、長い間皇帝の寝台に寝たきりで、食事や体を清めるのも側仕えの腕に抱えられて行っていたので、まだ元の通りとは言い難い。  歩き始めにはかなりの痛みがあり、足もすっかり細くなって自分の体重を支えるのがやっとだったが、後は少しずつ体を慣らしていくしかないだろう。  いつまでもこうしているわけにはいかない。何しろここは皇帝の居室だ。 「そろそろ御前を下がらせていただく時期かと……」  と口にして、イルハリムは自分の部屋はまだあるのだろうかと、ぼんやりと考えた。  左足の環についた鈴は七つ。  宮殿では職位が上がるごとに良い鈴に換えられて、歩くと軽やかな音を奏でる。  その数が以前と同じままなのは、処分がまだ決まっていないからだと思っていた。  皇帝がどこまで事実を把握しているのかは定かでないが、夜伽の命を受けていた身で娼館に堕とされたのだから、追放か降格は必至だろう。少なくとも、宦官長の役職を解かれるのは間違いない。  目が覚めて以降、仕事に追われてばかりで疑問に思う暇もなかったのだが、果たして今は何の位に就いているのか。 「お前の部屋は隣だ。ただし、まだ部屋を出ることは許さん」  皇帝はそっけない様子で答えた。  隣、と口の中で呟いて、イルハリムは密かに眉を曇らせる。  宦官長の隣の部屋と言えば、下級書記官の控え室だ。  下級書記官とは、宦官長の手足となって働く雑用係。後宮や皇帝の居室、時には厨房や洗濯室にまで出向いて、あらゆる雑務をこなさなければならない。  宮殿中を走り回る激務だが、この足で耐えられるだろうか。  不安そうに足を見るイルハリムを、皇帝は不意に引き寄せた。 「体調はどうだ」  声の調子が変わっていた。  皇帝は寝台の上にイルハリムを押し倒し、顔の横に手を突いて、上から目を覗き込んできた。たてがみのような金褐色の髪が肩から落ちて、まるで金のベールのようだ。  イルハリムは笑みを滲ませた皇帝を、黒い両目で見つめ返しながら答える。 「皇帝陛下のご温情を持ちまして──」  と言いかけて、イルハリムは気づいてしまった。  口づけせんばかりに覗き込んでくる目に、かつてのような情欲の炎が揺らめいているのを。 「……!」  思えばもう一か月以上も皇帝の寝台で寝起きしている。その間、皇帝は隣でともに眠るものの、夜伽を命じることもなく、側女を召すこともなかった。  あれほどに精力を持て余していた皇帝が。 「あの……すぐに側女の手配を……!」  宦官長として最優先で考えるべき問題をすっかり失念していた。  アイシェが放逐された以上、今の後宮に寵妃は一人もいない。側女たちは年若く、皇帝を受け入れるのは難しい。だからこそ、イルハリムが寝所に呼ばれていたというのに。  早急に奴隷商人を呼んで、見目良い妙齢の女を何人か揃えなくてはならない。もしくは、色事に慣れた宦官を探す方が早いだろうか。  慌てて寝台を出ようとするイルハリムを、皇帝の腕が捕らえて引き戻した。 「そうではない」  寝台の上に散らばる書類を投げ落とし、皇帝は金の目で射貫くようにイルハリムを見つめた。 「お前に夜伽を命じても良いかと聞いている」 「……!?」  思いもしない言葉だった。  もうすっかり、そういう意味では興味を持たれていないのだと思っていたからだ。イルハリムは困惑して視線を彷徨わせる。  皇帝に望まれるのは、この上もない喜びだ。  日頃の厳しさからは想像もつかないほど、寝台の中の獅子帝は情愛深く、思いやりに満ちている。  抱き寄せる腕は優しく、愛撫はいつも濃厚だ。  丹念に準備を施した体の中に、皇帝はゆっくりと慎重に入ってくる。苦しめば動きを止め、悦べばさらに深い悦びへと導いてくれる。余韻を楽しむように睦言を交わし、気を飛ばせば目覚めるまで寄り添っていてくれる。  並外れた巨躯を受け入れるのは苦しいが、耐えた後には蕩けるような愉悦が待っている。  熱い体にしがみついて奥深い場所にたっぷりと精を浴びる瞬間を、イルハリムは誇りにさえ思っていた。  けれど、自分にはもうその資格がない。 「陛下、私は……」  どう言葉にすればいいのだろう。  港町の娼館で何人もの卑しい男に身を売り、体中に汚液を浴びせられたのだと、どうして口にできようか。  ここは皇帝の居室で、一か月以上も同じ寝台で眠ってきたというのに。  だが黙っているのはさらなる不敬だ。  意を決して口を開きかけたイルハリムを、皇帝の指が寸前で押しとどめた。 「海軍司令より必要な報告は受けている。お前から聞くべきことは何もない」 「ですが──」 「言うなと言ったのだ……!」  突然、皇帝は隠し持っていた牙を剥き出しにして低く唸った。獅子の名の通り、肉食獣のような二つの金の目が凶暴な光を帯びてイルハリムを射すくめる。  怖れに身を強張らせた次の瞬間──、イルハリムは覆い被さってきた皇帝の胸の中に抱きしめられていた。 「……忘れろ、何もかも。お前が生きて余の側に居れば、それでいい」  苦悩に満ちた声が、イルハリムの耳朶を震わせた。  ──かつての皇帝ラシッドは、人を寄せ付けない人物だった。  先帝の五番目の皇子として生まれた彼は、ごく若い頃から周辺国との戦に揉まれて成長した。体格や剣の腕ばかりでなく軍略の才にも恵まれ、先帝崩御の後に起こった皇位争いでは、わずか一年余りで内乱を制してみせたほどだ。  並み居る政敵を退けて至高の座に就いたのは、今からおよそ八年前──三十歳になったばかりの頃だった。若き皇帝はその後も精力的に遠征を行い、地図に描かれる帝国の領土は拡大を続けている。かつて敵対していた国々も、今ではおおよそ属国へと下った。  並外れた長身巨躯に、血を分けた兄弟さえ容赦しない戦いぶり。宮殿にいる誰もが彼を敬い、怖れた。  数限りない側女たちが閨に召されることを望んだが、実際に相手が務まった者はごくわずかだ。宦官長の地位に就く以前から、イルハリムは夜中に泣きながら後宮に駆け戻ってくる側女を何人も見た。夜伽を命じられると、喜ぶどころか沈鬱な表情になる寵妃たちの顔も。  昨日まで笑い合っていた相手が敵となり、敵であった相手が阿り笑いを浮かべて平伏する。媚態を示して身を寄せてきたはずの女人は、寝台に入れば顔色を変えて逃げようとする。  ──そんな光景を、皇帝は何度も目にしてきたに違いない。  人を側に置くまいと厳しくなるのも道理というものだ。 「皇帝陛下……」  イルハリムは皇帝の背に両手を回した。大きな体をぎゅっと抱きしめる。  至高の地位に就きながら、皇帝はあまりにも孤独だ。  実のところ、彼が欲するものはそれほど多くないのかもしれない。自分を怖れず側にいて、ただすべてを受け止めてくれる相手。──肌の温もりと悦びを分かち合える相手さえいれば、数多くの美姫も財宝も必要としないのかもしれない。  だからこそ、皇帝はイルハリムを側に置いてくれている。  汚されたことを知りながら、それでも大切な宝を守るように、こうして腕の檻に閉じ込めるのだ。  イルハリムは、故郷の名すら知らぬ異国人だ。  射干玉の髪と漆黒の目は帝国では珍しく、好奇と蔑みの視線を受けてきた。  後宮に買われて、食べる物にも寝る場所にも困らずに済んだが、いつ放逐されてもおかしくない宦官奴隷の身。足元が常にあやふやで、自分の居場所をどこに定めてよいのかもわからない。  その漠然とした不安に近いものを、誰よりも強く高貴な皇帝も抱いているのかもしれない。  至高の皇帝に、イルハリムが捧げられるものは多くはない。  ただの奴隷だ。目を見張るような美貌の持ち主でもなく、初々しい少年でもなくなった。子を為す胎も持たない。  できるのは皇帝の側に寄り添って、望まれたときにいつでも肌で温めることくらいだ。  それだけでいいのだと言ってもらえたなら──。 「私に……陛下にお仕えする喜びを与えていただけますか……?」  厚い胸に頬を押し当てて問いかける。  返事の代わりに、皇帝は抱く腕の力を苦しいほどに強くした。  側仕えの手を借りて、イルハリムは皇帝の居室にある風呂を使った。  体の隅々まで洗い流し、中に香油を用いて準備を施す。  風呂から上がったイルハリムは、そのまま側仕えの腕に抱かれて、続きになった隣の部屋に連れていかれた。皇帝の一番の側近、小姓頭のための部屋だ。  次官のデメルと数人の宦官が、夜伽のための衣装や宝飾品を捧げ持って、そこに待っていた。 「お支度を致します」  恭しく跪いた宦官たちの手で、イルハリムは夜の支度を整えられていく。  水気を吸い取るガウンに包まれて椅子にかけると、宦官の一人が爪を磨くために手を取った。  洗い上げた長い黒髪は、別の宦官が丁寧に櫛を通して香油を馴染ませる。温めたこてを用いて緩く巻いた後、髪は品良く結い上げられ、紅玉をあしらった黄金の飾りで留められた。  露わになった首筋には、高貴な乳香の香油が垂らされた。皇帝ラシッドが用いるのと同じ香りだ。  体温で立ち昇る香りを封じ込めるかのように、その上から紅玉を散りばめた黄金の首飾りを掛けられる。  髪と爪が整うのを待って、ガウンが取り去られた。  代わりに着せられたのは、宮殿では目にしたことのない白い絹の装束だった。  透けるほど薄く織られた練り絹が、肩を覆うように幾重にも重なり、羽のように柔らかに裾を広げている。襟元には壮麗な金の刺繍。染料を用いずに、生糸そのままの色で仕立てられた装束は、重厚さを好む帝国のものには見えない。  これは、異国の服だ。  イルハリムは幼い頃に一度だけ、これと同じ形の装束を見たことがあった。無論これほど豪華なものではないが、祝いの日に相応しい厳かさだけは変わらない。  故郷の村の若い娘が、少しばかりの緊張とともに、誇らしげに身に纏っていた衣装。 「この衣装、は……?」  問いかけるイルハリムに、宦官たちは穏やかに微笑むばかりで答えを返そうとはしない。高まる鼓動を抑えるために、イルハリムは大きく息をついた。  火照る顔に薄く化粧を施され、唇に紅を差される。  美しく装った顔を覆い隠すため、長いベールが頭から被せられた。寵妃となる娘が初めて皇帝の寝室に入るとき、ほかの男の目に触れぬようにと被せられるものだ。  胸が苦しいくらいに高鳴っていく。  次官のデメルがそっとイルハリムの左手を取った。  花の汁で淡く染められた爪先。その指に、あの港町で売り払われたはずの紅玉の指輪が通される。二度と手にすることもないと思われた、皇帝の寵愛の印。  最後にデメルは、小さな宝石箱を恭しく捧げ持ってきた。  真紅の絹を敷き詰めた箱の中に入っていたのは、丸い黄金の記章だ。  息を呑むイルハリムの左足を絹張りの台に乗せ、デメルは七つの鈴を連ねた足環に、新たに記章を取り付ける。  表には獅子帝の名が刻まれ、裏には紅玉で皇室の紋章を象った、小さな飾り。獅子帝の寵妃であることを示す、奴隷にとって最高位の装飾品だ。  台から床に足を下ろすと、揺れ動く鈴と記章が、新たな寵妃を祝福するかのように優美な音色を奏でた。 「御身に祝福あれ」  礼を取った宦官たちが、頭を深々と下げたまま後退して、小姓頭の部屋を出ていく。今まで後宮で何度も立ち会ってきた、初夜の儀式だ。  ──今宵、イルハリムは寵妃として皇帝に召される。  込み上げてくる感情を抑えるために、イルハリムは部屋を見回した。少し気持ちを落ち着かせなければ、どんな顔をして扉を開ければいいのかわからない。  初めて足を踏み入れた小姓頭の部屋は、長らく空き部屋だったはずなのに、なぜか懐かしい感じがした。その理由に気づいて、イルハリムは小さく声を上げる。  部屋に置いてある調度や日用品は、すべてイルハリムが宦官長の自室で使っていたものだったからだ。 『お前の部屋は隣だ』  そっけない口調で、皇帝は言った。あの時に言われた隣の部屋とは、ここを意味していたのだ。  皇帝の居室と扉一枚で隔てられただけの、出入りが自由な部屋。公私を問わず常に側で仕えるべき小姓頭の部屋を、皇帝はイルハリムに与えた。  そのことの意味を噛み締めながら、イルハリムは一歩を踏み出す。  ひどく傷つけられた足裏は、治癒したはずの今も踏み出すたびに痛みを生んだ。その痛みが、イルハリムに問いかける。──皇帝の寵愛を受ける覚悟はあるか、と。  アイシェは帝都を追放されたが、同じようなことは何度でもあるだろう。  嫉妬という名の剣は、見えない場所で巧妙に研ぎ澄まされ、隙を見せた途端に襲い掛かってくる。皇帝の側にいる限り、一介の宦官ならば知らずに済んだはずの苦難が、これからも待ち受けている。  それでも側に居続ける覚悟があるかと、足の痛みは問うているのだ。  イルハリムは顔を上げて、まっすぐに扉を見つめた。  ──この向こうに、皇帝が待っている。  偉大なる帝国の統治者でありながら、胸に孤独を抱えた一人の男。厳格で猛々しい仮面の下に、優しく情愛深い心を隠し持つ獣王。  その心に少しでも触れることを許されるのならば、向けられる切っ先など怖れはしない。  イルハリムは足を踏み出し、皇帝が待つ部屋の扉へと手を伸ばした。

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