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(五)二人きりの婚姻
金の装飾で飾られた取っ手を掴み、重い扉をゆっくりと開く。
扉の向こうは、見慣れたはずの皇帝の居室だ。叱責や報告のために何度もここを訪れ、怪我を負って以降はずっとこの部屋で療養していた。
だが今は、何もかもが違って見える。
大振りの花器に盛られた色とりどりの花、炎を揺らす何本もの蝋燭。華やかな祝い菓子をいくつも並べた、銀製の丸いテーブル。
扉が開いたことを知って、皇帝が部屋の奥から姿を見せた。
白い絹の衣装を身に纏う獅子帝。──その姿を、イルハリムは眩しく見上げる。
厳かな衣装に長身を包んで、獅子帝がイルハリムの元へ歩み寄ってきた。
何色にも染められていない白の絹地に、襟元には壮麗な金糸の刺繍。
肩からは金褐色の豊かな髪がたてがみのように降りかかり、その額にはイルハリムの首飾りと同じ意匠の宝冠が輝いている。
精悍に整った顔に浮かんでいるのは、どこか面映ゆそうな笑みだ。
「……陛下」
泣き出しそうな声が出た。
胸が苦しいほど高鳴るのを覚えながら、イルハリムはゆっくりと進み出る。震える脚で、皇帝の足元に跪いた。
金糸で飾られた裾を両手の指先に取り、あらん限りの敬意をこめてベール越しに口づける。
促されて立ち上がると、正面に立った皇帝がイルハリムのベールを捲りあげた。化粧した顔を熱っぽい視線で見つめられ、気恥ずかしさに頬が熱くなる。
「……良く似合っている」
緊張でいたたまれなくなりかけた頃、皇帝が静かに告げた。
満足そうな声の響きに勇気を得て、イルハリムは思い切って訊ねてみた。
「陛下は……これが何の衣装か、ご存じなのですか……?」
手の震えを押し殺すように、柔らかな袖を握り締める。知らぬと言われたら、どんな反応をすればいいのかわからない。
微かに笑う気配に、イルハリムはぎゅっと目を閉じた。
「さて」
はぐらかすような言葉とともに、イルハリムの体は獅子帝の腕に攫われていた。
「ぁ……ンッ……!」
短く悲鳴した口を唇で塞がれて、横抱きに抱かれたイルハリムは寝台へと連れていかれた。
軽々と抱き上げる腕、温かく逞しい胸板。
鼻を擽る芳香が、薄れていた記憶を呼び覚ます。──あの港町の娼館で、確かにこの匂いを嗅いだことを。
高貴な乳香の香りと微かな体臭が混じり合った、特別な匂い。悦びを分かち合い、汗ばんだ体で抱き合ったときに香る獅子帝の匂いだ。
間違いない。脱いだ上着でイルハリムの全身を包みこみ、汚れた体を厭いもせずにしっかりと抱き留めてくれたのは、この腕だ。
死の淵から呼び戻そうと、何度も名を呼ぶ声。口移しで水を与えてくれた唇の感触。
他の誰かと思い違うはずなどない。助け出してくれたのは、海軍司令ではなかった。
あの時来てくれたのは──。
「ン、ンン……!」
太い首に両腕でしがみついて、イルハリムは皇帝の唇を貪った。
音を立てて何度も吸い、それでも足りぬと唇を舐める。
伸ばした舌を絡め取り、皇帝は喉の奥で笑って噛み付く素振りをした。イルハリムもそれに甘噛みで返す。
唇を交わしたまま悠々と足を進めた皇帝は、イルハリムの体を寝台に下ろした。
「……何の衣装か知っているか、だと」
飢えた肉食獣のような目で見つめながら、声だけはそれを押し隠すように笑いを含んでいる。
「この地上に、余の知らぬことなどない」
鼻の先を触れ合わせて、金の目の獣が囁いた。
涙を溜めた目でイルハリムは皇帝を見つめる。
イルハリムが纏うのは、遠い東の国の婚礼衣装だった。
村長の娘が、これに似た衣装を着て他所へ嫁いでいったのを覚えている。立派な家に迎えられるのだと、村中が大騒ぎだった。
そして皇帝の逞しい長身を包んでいるのは、これと対になる装束だ。
生糸そのままの柔らかな白に、襟元を飾る精緻な金糸の刺繍。黄金の宝冠、黄金の首飾り。同じ形の紅玉──。
「イルハリム──余はお前を欲する」
白い婚礼衣装を纏った皇帝が、イルハリムに求愛した。
異国から来た宦官の奴隷。皇帝の私物に過ぎないイルハリムに、厳かな声で獅子が問う。
「お前は、余を欲するか?」
激情を抑え込んだ声音だ。今にも獲物に食らいつこうとしながら、それを寸前で押し留めているかのような。
胸が詰まって声が出せずに、イルハリムは皇帝を見上げた。
敵対するものをことごとく葬り、剣を以てこの広大な帝国の支配者となった皇帝ラシッド。──時に乱暴で荒々しく、時に慈愛に満ちて優しいこの男に、イルハリムはずっと心惹かれていた。
奴隷に自分の意志などというものはあってはならない。金銭で売り買いされ、誰の所有物となっても、身を粉にして働くことだけを求められるものだ。
けれど、心を持たないわけではない。
「……欲しています。もう、ずっと前から……」
温かい掌、抱き寄せる腕の強さ。
身を穿つ凶暴な牡と、それがもたらす忘我の悦び。
首筋に満足そうな吐息を感じる充足感。交わす睦言の柔らかさ。乳香の香りに包まれて眠る幸せ──。
いつの頃からか、寝所に呼ばれる夜を心待ちにしていた。
寵妃や宦官たちを欺くことに後ろめたさを覚えながらも、風呂で念入りな準備をし、深く被った頭布で顔を隠して廊下を行く。金貨を持たされるたびにやりきれない思いになり、今日が最後ではないかと不安になる。
いつか宮殿を出される日を思うと怖ろしくて、せめて仕事は疎かにすまいと、疲れを隠して働いた。
皇帝の側にいられるだけでいい。彼の人が健やかで、充実した日々を送る姿を見られるのなら、それだけで満たされる。──そう自分に言い聞かせて、いつ飽きて遠ざけられるかもわからぬ不安を和らげてきた。
アイシェに呼び出されたあの日。
絶望と同時に、この煩悶から解き放たれるのだという安堵が確かにあった。
惨めに捨てられる前に姿を消せば、少しの間だけでも皇帝の心に残れるのではないか。すぐに忘れられると思いながらも、ほんの一瞬でも惜しんでもらえるなら本望だとも思っていた。
だがそんなものに何の意味があっただろう。本当の望みはまったく別のところにあったのに。
「命尽きるまで……どうか、お側に置いてください……!」
イルハリムは心のままに口にした。
奴隷が抱くにはあまりにも大それた望みだ。
身に纏っているのが厳かな婚礼衣装でなかったなら、決して言葉になどできなかっただろう。
白い長衣を着た皇帝が、眩しいものを見るように目を細めた。
「死が我らを分かつまで」
感情を抑えた低い声で、皇帝が粛々と続ける。
ここには宣誓の書も、契りを証し立てる法官の姿もない。
互いを生み出した家族の同席もない。イルハリムの家族は生死も知れず、獅子帝は兄弟を自らの手で葬った。
片方は東方から売られてきた奴隷、もう片方は至高の帝国の支配者。
──だが今この瞬間、ここにいるのはラシッドという名の一人の人間だった。
イルハリムを伴侶として娶る、ただ一人の相手。
「病めるときも、歓びのときも」
皇帝は身をかがめ、イルハリムの額に恭しく口づける。
「我らは永遠に互いのものだ」
額に口づけを落とした唇が、左右の頬にも押し当てられ、唇に重ね合わされる。
幸福を噛み締めるように、今度はゆっくりと互いの唇を啄ばんだ。鼻腔に獅子帝の乳香が届く。
イルハリムは手を伸ばし、頬を掠める柔らかな髪を指の間に滑らせた。太い首、盛り上がった肩。肌に触れる滑らかな練り絹の感触。
皇帝もまたイルハリムのベールと髪の留め具を取り、指を入れて結い上げた髪を崩した。皇帝のための装いだ。乱すことを許されるのは、皇帝以外にない。
長い黒髪が敷物の上に広がった。
「お前は余のものだ……この髪も、夜空のような瞳も」
目を閉じたイルハリムの瞼に口づけて、皇帝は絹の衣装の襟元から手を滑らせる。
時には剣を握って戦の指揮を執る掌は肉厚で、指も太く長い。
その指に胸の飾りを抓まれて、イルハリムは小さな鳴き声をあげた。
「ここもだ」
「ぁ……んっ……」
ぷくりと膨れた肉粒を弄られると、胸元に甘い電流が走る。ここがこれほど感じるようになったのは、皇帝に抱かれるようになってからだ。
指で愛でられ、舌でくすぐられる。熱い口の中に含まれて、時折は歯を当てられて、絶頂を味わう最中に指で抓まれ──。
脚をもじもじと擦り合わせて息を乱すイルハリムに、皇帝は欲望を隠さない声で囁いた。
「ここに飾りを着けてやろう。余の名を刻み込んだ黄金の環を穿って、余の宝石である紅玉が揺れるように……」
「ひぅ……ッ」
指の腹で乳首を潰されて、イルハリムはその甘美さにすすり泣いた。
首にも指にも足元にも、所有権を示すように獅子帝の紅玉が揺れている。なのに皇帝はまだ足りぬと言うのか。
着けたところで余人の目には触れぬというのに。契りを交わしたことを忘れぬよう、この敏感な場所に宝石を飾ると。
イルハリムの脳裏に、飾りを穿たれた自分の姿が思い浮かんだ。
重い金の環が柔肉に食い込んで、歩くたびに乳首を揺らす。それはきっと、皇帝の指に抓まれているような心地にしてくれるはずだ。
昼も夜も、一人きりの時にも、皇帝の気配を感じていられる。
離れていてさえ存在を主張する飾りは、交わるときにはもっと痛烈な感覚で、皇帝のものとなったことを教えるだろう。
息も吐けぬほどの剛直に突かれて、胸の紅玉も煌めく。獅子の牙が食い込む痛みは、きっとイルハリムを狂おしく鳴かせるに違いない──。
「着けてください。陛下の所有である印を、私に……」
着物の襟を緩めて、イルハリムはささやかに主張する胸を皇帝に差し出した。
ツンと立ち上がったそれを、皇帝は愛おしそうに指の腹で撫でた。
「色の良い石を選んでやろう。お前の象牙色の肌が映えるように」
胸の尖りが皇帝の唇に包み込まれる。
濡れた舌に押し潰され音を立てて吸われると、下腹がきゅっと疼いた。歯を立てられると甘い痛みに啼き声が漏れる。
下腹部から零れ出た温かい湿りが、腿を伝って絹の衣装を濡らしていく。
──もう欲しくてたまらない。
イルハリムは胸元に顔を埋める皇帝の頭を両腕に抱き、その髪に鼻を埋めて口づけした。
「陛下……どうか、私の口に栄誉をお与えください」
口淫を許されるのは信頼の印だ。決して主人に逆らわず、最大の敬意をもって奉仕すると確信されていなければ、決して与えられることはない。
「許す」
皇帝の返答には迷う素振りもなかった。
長衣を脱ぎ落した皇帝が、高く積み上げた枕に背を預ける。鍛え上げた美しい裸体が目の前に現れた。
厚く盛り上がった胸の筋肉に、引き締まって割れた腹部。
その下方で渦を巻く金の体毛は、少年のころに性器を失ったイルハリムには永遠に手に入らないものだ。
草むらから頭をもたげ、すでに勢いを持ちかけているものを、イルハリムは羨望をもって見つめた。
これほど悠々として見事な牡をイルハリムは他に知らない。
張りつめてえらが張った先端、筋を浮かせた太い竿、すっと伸びた剛直の力強さ。
これが身体の中に入ってくると、息もできないほどの圧迫感に苦しめられる。
だが、いくらもしないうちに苦痛は快楽に変わり、体中蕩けるような悦びがイルハリムを支配する。
声をあげ尻を揺さぶり、まるで一匹の獣になったかのように、皇帝の牡を貪らずにはいられない。そんなイルハリムを、皇帝はいつも存分に啼かせてくれた。
イルハリムは皇帝の足元に跪き、袖に包んだ両手で恭しく捧げ持った。あらん限りの敬意をこめてその先端に口づける。
「咥えよ。お前が余を思う心の深さと同じだけ」
尊大な声で皇帝が命じた。
そうと言われて、どうして生半可な奉仕ができようか。
イルハリムは上目遣いに皇帝を見つめ、主を迎える唇を舐めて濡らした。
十分に潤してから舌を伸ばし、円を描くように先端を舐め回す。そっと優しく、羽で触れるように繊細に。
勢いを増す逸物は、上下に揺れて持ち上がっていく。それに舌を巻きつけて濡れた唇で包み込み、長大な凶器をゆっくりと口内へ迎え入れた。
「……ッ……」
珍しく余裕を失って、皇帝が息をつめた。
歯を当てぬよう細心の注意を払いながら、イルハリムは喉の奥へと皇帝を導いていく。顎が外れそうなほど立派な幹を舌で巻き取り、喉の行き止まりに怒張の先端を擦りつけた。
息苦しさと吐き気で額に汗が浮かんだが、怖気そうになる自分を叱咤して頭を上下する。
今からこの立派な牡で腹の中をたくさん突いてもらうのだ。今までの交わりよりももっと深い場所まで、気を失うほど激しく。
体と体をぴたりと合わせ、一分の隙も無いほど抱き合って、正気をなくすまで愛でてもらえる。
そのことを思えば、つらいどころか、喉を突く大きさがいっそ心地よいほどだ。
「イル……」
上擦った声で皇帝が名を呼んだ。
吐き気に蠕動する喉を指で愛しげにくすぐって、本能のまま腰を突き上げたいのを堪えてくれている。イルハリムは頬を窄めてそれに応えた。
皇帝が息を詰まらせるのが聞こえ、鼻の奥に微かに精の匂いを感じた。
その途端、皇帝の手がイルハリムを引きはがした。
「もうよい。それ以上は余が持たぬ」
初めて聞く弱音を吐いて身を起こした皇帝は、あっという間に体を反転させ、イルハリムを寝台に組み敷いた。
婚礼衣装の裾から手が忍び込んでくる。
久々に交わるイルハリムが十分に準備できているかを、皇帝は確かめようとしたらしい。
伸ばした指がトロトロに濡れそぼった内股に触れて、金の目が見開かれた。
「お前」
「……お許しください……」
イルハリムは顔を真っ赤に染めた。新床にあるとも思えぬ淫蕩さを皇帝に知られてしまったからだ。
熱く火照る顔を両手で隠しながら、イルハリムは蚊の鳴くような声で答えた。
「……陛下に愛でていただけると想像しただけで、もうここが……アッ……!」
言いきらぬうちに、太い指が待ち続けた窄まりに潜り込んできた。
「は、ぁああ……ッん……!」
付け根まで埋め込まれた指を、イルハリムの濡れた肉は歓喜して迎えた。吸い付くように奥へ奥へと呑み込んでいく。
柔らかさを確かめるように指を中で動かされた途端、ギリギリのところで耐えていたものが弾けた。
「ッ……いく、ッ……いっちゃ、ぅ……やぁあッ!」
ぶるる、と震えを放って、イルハリムはあっけなく悦びを極めた。
皇帝の腕を汚して、脚の間が濡れていく。
「お前というやつは……!」
快楽の証に絞り込んでくる肉から指を抜いて、皇帝は隆々とした剛直を宛がった。そのまま低い唸りをあげて身を埋めていく。
「……あ……、あ、あ……ッ!」
あまりにも逞しい皇帝の牡に、イルハリムが上擦った鼻声をあげた。
入り口を限界まで押し拡げ、絡みつく肉襞をものともせず、皇帝は圧倒的な重量でイルハリムを侵略する。
下腹が引き攣れる重苦しい痛み。失った性器の付け根を内側から押し上げられ擦られる快感。
極太の肉棒がイルハリムを貫き、所有の印を刻みつけていく。
「ああぁ──ッ……」
一気に高く舞い上がり、そのまま失墜する感覚に、イルハリムは体を仰け反らせて叫んだ。
「……そら、入ったぞ……!」
歯の間から搾り出すような声で皇帝が宣言したが、もう頭に届かない。
引き締まった腰に両脚を絡めてしがみつき、大きさに馴染む間も待てずに尻を振り始める。
「あぁ、いい……ッ、陛下、陛下ッ……好きです、陛下……ッ……」
突っ伏して動きを止めた皇帝にイルハリムはしがみつく。
壊れてしまいそうなほどいっぱいに、皇帝の怒張が中を埋め尽くしていた。押し拡げられる下腹の苦しさも、今はただ狂おしい喜悦としか思えない。
こうやって皇帝の熱い体を受け入れるのが好きだ。
いっぱいまで拡がって張りつめた入り口も、脈打つ幹を咥えて蜜を溢れさせる下腹の奥も、突き殺されるかと思うほど深く押し入られた体の奥も、どこもかしこも叫びだしたいほど気持ちいい。
「陛下……好きです、陛下……中でいきます、もう、いっちゃ、うッ……あああぁッ、いく、ぅ……ッ」
「こ、の……ッ」
快楽を貪るイルハリムに引きずられて、皇帝が低く吠えた。
奔放に腰を躍らせるイルハリムを押さえ込み、淫らな肉を罰するように穿ち始める。
「この好き者め! 余を狂わせる淫婦めが!」
「やぅ、ッ……あ────ッ……あ────ッ!」
奥を責め抜かれたイルハリムが全身を突っ張らせて叫んだ。
ずり上がろうとする体を引きずり寄せ、恍惚に酔いしれるのを許さずに、皇帝はなおも深く穿ち続ける。
「二度と離さぬ」
噛み締めた歯の間から皇帝が唸った。
花嫁衣裳を捲り上げ、脚を大きく開かせて二つ折りにする。鈴をつけた足環が悲鳴のように鳴り響いた。
その可憐な音を聞きながら、獅子帝ラシッドは組み敷いた体を、濃い黄金の目で見下ろす──。
男でも女でもない平坦な下腹が、噴き出る蜜で光っていた。
象牙色の柔らかな腹が内側から隆起して、中に呑み込んだものの存在を露わにしている。
男でも女でも、これほど見事に自分を受け入れてみせた者はいない。怯えもせず、苦しみをただ耐えるのでもなく、艶やかに舞って悦びを享受してみせた者など初めてだ。
ラシッドは、先帝の五番目の皇子として生まれた。
体格にも才覚にも恵まれたし、運や家臣にも恵まれたほうだろう。
敵国も競争相手も叩き落として皇帝の座に就き、屈強な軍隊に広い領土、権威も富も名誉も手に入れた。手に入らぬものなど何もないと思っていた。
──この宦官を腕に抱くまでは。
無防備に腕の中で眠る存在を得たとき、ラシッドは生まれて初めて自分が孤独だったことに気づいてしまった。
肌を合わせる行為は、欲望を解消するためでも何かを奪うためのものでもない。互いの温もりを分かち合うためにこそ抱き合うのだと、異国生まれの宦官に教えられた。
とるに足らぬちっぽけな奴隷。
それが自分の首にしがみつき、無我夢中で口づけをせがんでくる。
信頼と敬意に満ちた目で自分を見つめ、何を命じても怖れることなく触れてくる。
その充足感と愛しさは言葉で言い表すことなどできはしない。
満たされたと感じた時、ラシッドは何もかも手に入れたはずの自分が、実際には何も持っていなかったことを知った。
山ほどの黄金も美しく着飾った女たちも、この黒髪の宦官一人が与えてくれたものには遠く及ばない。
ラシッドが心の底で求めていたものはここにある。世界の果てでも大海原の向こうでもなく、手を伸ばせば届くところにあったのだ。
「陛下……好き、好きです陛下……もっとして……」
うわ言のように言いながら、小柄な宦官がしがみついてきた。両手で皇帝の頭をかき抱き、飢えたように唇を吸ってくる。
吐息の合間に唾液を啜りながら、その腰は飽くこともなく自分を求めて揺れ続けていた。
「イルハリム」
ラシッドは淫らな伴侶に望みの物を与える。
口づけしながら腰を大きく揺らすと、唇の間から甘えるような喜悦の声があがり、濡れた媚肉が搾り取るように絡んできた。
港の視察で偶然手に入れた花嫁衣装が、歓喜の蜜で象牙色の肌に貼りついている。雄の獣欲を駆り立てる扇情的な姿だ。
二度と離しはすまいと、奥を力強く突きあげる。
「ヒィッ……アッ、アッ、気持ちいい……こんなの、いっちゃうッ……もうおかしく、アッ、ああああ──ッ……」
イルハリムが何度目かの法悦を訴えた。初夜の花嫁には相応しからぬ乱れぶりだが、それがラシッドには好ましい。
ほかの男を知る肉体に嫉妬を覚えぬとは言わないが、抱かれることに慣れた宦官だったからこそ、生娘が泣いて逃げるような自分を受け入れることができた。あまつさえ娼館に放り込まれても生き延びて戻ってきた。それで十分だ。
帝国の領土は大陸中に広がり、後継者たる皇子たちもいる。至高の帝国に君臨する皇帝としての務めはすでに果たしたはずだ。
あとはただ一人の男として、伴侶の腕の中に安らぎを見出してもよかろう。
「イルハリム……余の側を離れることは許さんぞ」
ラシッドの言葉に答えることなく、愛する伴侶は足の鈴を鳴らして身を仰け反らせた。紅玉を連ねた首飾りを揺らし、柔らかな喉が尾を引く叫びを迸らせる。
その体をラシッドは抱き寄せ組み敷いた。
必要ならば足に鎖を繋いで、この部屋を出られないようにしてしまおう。全身を黄金で飾り立て、その重みで身動き取れなくしてやるのもよい。
獅子帝の寵愛がどのようなものかを、骨の髄までわからせてやろう。
「お前は永遠に、余の宦官長だ……!」
忘我の悦びに酔いしれる頬に口づけを落として、ラシッドは情熱を解き放った。
「──それから、第一皇子殿下の師より、そろそろ殿下の地方赴任をご考慮いただいてもよろしい時期ではないかと、ご進言がございました」
朝食の給仕をしながら、イルハリムは昨夜伝えきれなかった報告を行った。
「もうそんな歳か」
「はい」
テーブルいっぱいに並んだ皿を次々と空にしながら聞いていた皇帝は、隙をついて蜜漬けの果実をイルハリムの口に放り込んだ。皇族しか口にすることを許されない高価な菓子だ。
ほかの側仕えも周りにいるのだが、彼らは何も見なかった顔で沈黙を守っている。
「法政学への理解が不十分だと聞いた気がするが、あれから学びは進んだのか。いくら後見人が付くとはいえ、政治の仕組みもろくに知らぬままでは地方を治めるのは難しかろう」
「ン、ン……ええと、それは」
口の中の果実を急いで飲み込むべきか、それともしっかり味わうべきか。
決めかねて口をもごもごさせる宦官長を見て、皇帝は後ろに手を振った。宦官長を残してあとは全員出て行けとの合図だ。
二人きりになったところで、皇帝はイルハリムの前に果物皿を押しやった。
「給仕はいいからゆっくり食べろ。今より痩せられると抱き心地が悪くなる」
啼きすぎた日の翌朝は、疲れが残って食が進まない。
それを知る皇帝は、自分用に用意された皿をしばしばイルハリムに寄越してくる。
皇帝ラシッドは気難しいことで良く知られ、臣下に優しい言葉をかけることなど滅多にないが、周りの目がないときにはイルハリムをまるで家族のように扱う。
「一度詳細な報告を上げさせよ。お前が目を通して足りぬところは補うよう、法政学の師に伝えておけ。それから宰相たちに赴任先の候補をあげておくようにもな」
「承知いたしました」
食事を終えた皇帝は、必要な指示を出し終えると、政務の準備をするべく立ち上がった。
慌てて自分も立ち上がったイルハリムは、『あ……』と声をあげて動きを止める。
それを横目で確かめた皇帝は、口元ににやりと悪い笑みを浮かべた。
「まだ痛むか? ……ん?」
珍しく優しい声を出した皇帝は、手で胸元を押さえたイルハリムを後ろから抱き寄せ、その頬に唇を寄せる。
「いいえ、もう痛みは……」
目元に朱を昇らせて、イルハリムが答えた。
少し前に皇帝の手で乳首に黄金の飾りを穿たれた。その飾りが、イルハリムには少し重い。
用心して動いているときには平気なのだが、気を抜いて何かをすると胸に甘美な疼痛が走って、まるで皇帝の指に苛まれているような気分になる。
皇帝はそれを知っていて、ことさらに優しい声で問うのだ。
「痛みがないのなら、どうした? 言ってみよ」
恥じらいに潤んだ黒い目で、イルハリムは間近にある皇帝を恨みがましく見上げた。わかっているくせに、言わせる気なのだ。
口をへの字に曲げて答えずにいるイルハリムに、後ろから抱きすくめた皇帝が手を伸ばした。脛まである宦官長の長衣の裾を捲り上げていく。
男とも女ともつかぬ、少年のような白い足が現れた。
左の足首には瀟洒な金の足環が嵌まり、そこに連なる鈴は、二つ増えて九つになった。黄金の記章も、紅玉を光らせて揺れている。
腕の拘束から逃れるように身じろぐと、鈴がリリリ……と可憐な音を立てた。
膝の上まで裾が上がったところで、内股を伝い落ちた昨夜の名残が冷たさを帯びる。
「もしや、紅玉が小さすぎたのではないか?」
イルハリムの手の上から、皇帝が胸に触れた。
胸の飾りは、柔肉を穿つ黄金の環に、乳首と同じ大きさの紅玉が下がったものだ。明るく透き通った紅玉は、イルハリムが動けば輝きながら小さく揺れる。
素直に甘えてこないのは、宝石の大きさに不満があるせいかと、皇帝が揶揄った。そんなことはあるはずがないと、皇帝の方がよく知っているくせに。
イルハリムは観念して振り返り、背後の皇帝に口づけを強請る。
顎を捕らえられ、待ち構えていた唇に吸い取られた瞬間、あぁ、と切ない溜め息が零れ出た。
政務の時間が迫っているのに、今日もまた宰相たちを待たせてしまう。外で待機している小姓たちにも何と思われることか──頭の片隅をそんな思いが掠めたのは一瞬だった。
長衣越しに尻の狭間を押し上げてくる肉棒が、恥じらいも慎みも忘れさせる。
「……陛下が……欲しくなりました……」
悔しそうに目元を染めながら、イルハリムは途中まで上がった長衣の裾を自ら捲り上げた。内股に幾つもの吸い跡が残る象牙色の肌が露わになる。
乳首を苛む飾りのせいで、すっかり皇帝の愛撫が恋しくなってしまった。
指に紅玉を挟んで虐められたい。飾りが無い方の乳首も優しく噛んでほしい。
濡れていく足の間に、もう一度たっぷりと精を注ぎこまれて、皇帝の雄々しさと乳香の匂いに一日中包まれていたい。
「食事より、陛下を食したいのです」
唇を吸って求めてきたイルハリムを、皇帝は両腕の中に捕らえた。
喉の奥で獣のように笑い、二回り小柄な体を軽々と横抱きにする。
「奇遇だな。ちょうど余も食い足りぬと思っていたところだ」
獅子と謳われた皇帝は、悠然と歩き出した。
手にした獲物の肉をもう一度食らおうと、絹を敷き詰めた寝床の中へと──。
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