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 グランデ王国の王都ベイズリー。  ここ十年で急成長を遂げたその都市は魔道具で(あふ)れていた。  蛇口を捻るだけで井戸水が()めるようになり、薪が要らない(こん)()のおかげで(すす)に悩まされることも少なくなった。画期的な発明だったのは食材を長期保存できる保冷庫だろうか。  道も整備され、夜の街を街灯が明るく照らす。治安が改善するとともに、景観を保とうという意識も人々の中に芽生えはじめていた。ただ、魔物に見つかるから早く寝なさい、という子供への言い聞かせが機能しなくなったのは、多くの親の誤算ではあったが──  そして、石畳で美しく舗装された道を、馬車に混じり魔力で動く車が走る。馬車のキャビンに動力と(かじ)を付けた簡易的なものだが、貴族たちがこぞって所有したがったこともあり、王都の街並みは大きくその容貌を変えたのだ。  この急激な発展は行政局や王立騎士団、治癒院など、多くの統治機関が協力しあった成果ではあるのだが、もっとも貢献したのは、王直轄の機関である魔法局だった。  魔法局では、日夜、魔法や魔道具の研究が行われ、生活必需品から騎士団が使用する魔法まで幅広く開発されている。その中でも顧問研究員であるライン士爵は国王から賢者の称号を与えられるほどの大きな功績を収めたのだ。 「──であるからして、日常で抱いた疑問を深掘りし、現象を見極めることを怠ってはならない。魔法と結びつけることで、魔法の解像度を飛躍的に向上させることができ……」  魔法局の講堂には附属の教育機関である育成科の学生や外部聴講者がひしめき合っていた。彼らが熱心に耳を傾けるのは、薄い水色の髪をした魔法局員の講演だ。  髪と同色のぴょんとした口(ひげ)と、顔の半分を覆う瓶底眼鏡。一度見れば忘れられない特徴的な装いをした局員で、年配のように見えるが頬はつるんとしたたまご肌という、どこかあべこべさを感じさせる(たたず)まいをしていた。  この人物こそ、ライン士爵──その人だった。  カーンカーンと終了時刻を告げる鐘が響き、彼はこほんと(せき)払いする。 「では、今日はここまで」  その締めの言葉を皮切りに拍手が沸き起こり、ライン士爵は洪水のように溢れ出る音の中、純白のローブを(なび)かせて教壇を降りた。  純白は賢者の証しであり、そんな彼と言葉を交わそうと席を立った貴族たちが押し寄せてくる。だが金髪を一纏めにした(れい)()な面立ちの男──従者ミゲルが寄り添うと、その冷ややかな微笑みに、手()みしていた貴族たちがささっと距離を取った。 「参りましょう、先生」  ライン士爵は(うなず)いて、(つえ)を突きながらふんぞり返るようにミゲルの切り開いた道を(かっ)()する。その後ろに教員たちがぞろぞろと列をなした。 「参考になるお話ばかりで、学生だけでなく私どもも毎度楽しみにしているのです」 「先生がお顔を見せてくださるだけで、学生の刺激になります」 「次回はぜひ深淵(アビス)調査に使われる魔道具のお話をお聞かせください」  背後で行われるミゲルと()びた教員たちのやり取り。士爵は全く耳を傾けることなく廊下を突っ切ると、車寄せに停めてある車に足早に乗り込んだ。マホガニー色の車体には(はち)(ぼう)(せい)を模った金の家紋が掲げられており、賢者かつライン家の所有であること示していた。  ミゲルが士爵の横に着座すると、運転手がすぐさま発車させる。本日は誠にありがとうございました、と見送る教員たちに士爵は紳士然とした笑みを返した。  しばらくして大通りに出ると、士爵は大あくびをして背もたれに身を預けた。脱力し、手足をだらんと投げ出す。 「はぁぁ、疲れたぁ」 「お疲れさまです。もう外しても大丈夫ですよ」  ミゲルの許可が下り、士爵は口髭の毛先を摘まみおもむろに引っ張った。その勢いに皮膚が裂ける──かと思いきや、するりと()がれ落ちて、その下から髭一本ない瑞々(みずみず)しい肌が現れた。次いで顔半分を隠していた瓶底眼鏡が取り払われると、そこにあったのは十八歳の麗しき青年、マリリスの姿だった。  透き通るように白い肌と白藍色の髪と瞳。古代エルフの生き残りといわれのあるセヴィル種の血の濃さを証明する色でもあった。  そんな彼から漂う雰囲気は(きょう)(べん)を執っていたときとは全く異なり、柔和でどこか幼いものだ。 「僕はッ、自由だぁあ!」  とマリリスは大きく伸びをしながら叫ぶ。その横で、ミゲルが(かばん)の中から水筒を取り出し、湯気の立つカフェオレをカップに注いだ。 「自由です、と言いたいところですが、残念ながら急ぎの仕事がありますので、当分は缶詰めですよ」 「えぇえ、休みかと思って頑張ったのにぃ」  不服を漏らしながらも差し出されたカップを受け取り、ミルクと砂糖たっぷりの亜麻色の液体をちびちびと口に含む。そのいつもと変わらない味に、マリリスは「おいしい」と肩から力を抜いた。 「ねぇ、急ぎの仕事っていうけど、昨日も設計書を出したのにまだあるの?」 「マリリス様、まさか、勅命を忘れたわけではないですよね?」  ミゲルににっこりと微笑まれ、マリリスはひくりと頬を引き()らせた。 「……そ、そういえば、そんなのもあったなぁ……」 「しっかりしてください。深淵(アビス)調査に欠かせないものなのですから」  そうだった、とマリリスはため息をつく。  深淵(アビス)調査──現在、国が国の未来のためにすべての労力をつぎ込んで行おうとしているものだ。 (それどころじゃないのに……)  マリリスは今想い人を追いかけるのに必死なのだ。だが、賢者という立場上、国の有事を一番に考えなければならない。 「明けには休みを取りますからしっかり集中してください。それもこれも最近の仕事の進みが悪いせいですからね」  ミゲルの歯に衣着せぬ指摘に、マリリスはぐぅと(うな)る。ただ、切り札となる魔道具が今夜にでも完成するのだ。そうすれば彼の姿を拝める機会がぐんと増え、このそわそわとした気持ちも少しは落ち着くはず。 「……多分……明日から大丈夫になる、と思います……」 「そうですか? そうなっていただけると助かりますが」  提出まで一週間を切っているのですから──と続けるミゲルのお小言を話半分で聞きながら、マリリスは車窓から見えるレンガ造りの街並みをぼんやりと眺めた。そして「多分ね」と密かに(つぶや)いた。  マリリス・ラインが魔法局に入局したのは、七年前、十一歳の時だ。  独創的な魔法と、そこから生み出される魔道具の構想が国王の目に留まり、魔法局への配属を言い渡されたのだ。当初はその幼さから入局を反対する局員も多く、マリリスも反対されるならと消極的だったが、ミゲルの「生活に困らなくなります」という一言が後押しとなり入局が決定した。両親に代わり、遺された屋敷と使用人を維持するには金が必要だったのだ。  そして、育成科修了という名目のためにひと月ほど育成科へ通ったあと、正式に入局。それからは他の追随を許さない量の発明品を生み出し、反対派の度肝を抜いた。その勢いは止まらず、入局一年後には褒賞として国王から賢者の称号を賜り、どこを見ても視界には必ずライン製魔道具が映る、と言わしめるほどの立場を確立したのだ。  ただ、そのような立場でなぜ変装しなければならなくなったのかというと、教育の刷新を掲げた王の方針で、十五という異例の若さで教鞭を執ることになったからだ。難癖をつけられることは目に見えており、年配に見えるよう髭と眼鏡を着けて教壇に立った。それが始まりだった。  今や「ライン大先生」という名が独り歩きしており、育成科を含め外部からの出張依頼の際、変装せざるを得ない状態になってしまったのだ。  だが国王の先見の明は確かで、マリリスが育成に関与するようになってから魔法技術は急激に底上げされた。従来魔法の最適化や簡易化、膨大な魔力を必要とする(ロマン)魔法の製作など、さまざまな研究が盛んに行われ、グランデ王国の魔法は五年前の知識でも古いと言われるほどの発展を遂げた。  そして直近では、魔力で動かせる兵器までも生み出せるようになったのだ。  今回の動作試験で功労者のマリリスを攻撃するという事態にはなったが、まだ伸びしろがあるということでもある。  それに、あの事件はマリリスにとってもけして悪い出来事ではなかった。  初恋という、新しい感情を芽生えさせるものだったのだから──     § ◆ § 『こいつ看てやってくれ』  血相を変えた局員が駆けてくると、彼は(ほう)けたままのマリリスを局員に預け、頼んだ、と一言残して颯爽(さっそう)と去っていった。  去り際の美しい笑顔と恩を着せる様子もない騎士。好感度は天を突き抜ける勢いで上昇し、マリリスは彼の背中が見えなくなるまで見送った。そして、蒼褪めた顔で迎えにきたミゲルと魔法局に戻り、お抱えの産業医に健康という太鼓判を押されたのだが、診察の間もずっと恋する乙女のようにぽやぽやと花を飛ばしていた。  そんな状態だったこともあり、恩人の名前を聞き忘れ、さらにお礼を言い忘れていたことに気づいたのは、研究室に戻ってきたあと。自分の失態に愕然としたマリリスは、すぐさま局長の秘書をしている物知りな同期のもとに駆け込んだのだ。 『え? マリリスを助けた騎士?』 『そう! 今すぐに知りたいの!』  鼻がぶつかりそうなほど迫ると『魔法以外に興味を持つなんて』と同僚は目を丸くしてから微笑んだ。 『あの人はフーゴ・ウォーリエ士爵。騎士団の副団長だよ』 『副団長……フーゴ……ウォーリエ、さま……』  マリリスはうっとりと彼の名前を口にして、その響きに目を輝かせた。マリリスの瞳に浮かんだハートが見えたのか、同僚は苦笑し、マリリスの肩をぽんぽんと(たた)く。 『まぁ、いろいろあるとは思うけど頑張って』 『ありがとう! また試験の時は手伝うから言ってね』 『うん、頼りにしてる』  同僚にもう一度ありがとうと感謝の言葉を投げてからマリリスは急いで自室へと戻った。もちろん屋敷へ招待する手紙を送るためだ。  そしてその日から、屋敷と魔法局の往復だけという単調な生活に、フーゴの姿を拝むために騎士団前で待ち伏せする、という日課が加わったのだ。  しかし、フーゴは副団長という立場上とんでもなく多忙のようで、いつもすれ違ってしまう。姿だけでも見たいという願いは叶えられることなく今に至っていた。  夜も深くなるころ、不夜城と称される魔法局研究棟は、今宵もまた暗闇に包まれた城壁外を煌々(こうこう)と照らしていた。四階建ての最上階に位置するライン研究室も例にもれず稼働中で、もちろんそこにはマリリスの姿もあった。 「んん……あと少し……」  マリリスは作業机に広げた布に顔を埋めるようにして集中していた。裁縫をしているようにも見えるが、持っているのはペンだ。特殊なインクでゆっくりと正確に魔法文字を描いていく。そして最後に魔法回路を閉じて、マリリスはペンを筆立てに差し込んだ。そのあと大きく呼吸をして勢いよく立ち上がる。 「よおし! これで会いに行ける!」  マリリスは完成品の出来ににんまりと笑う。そしてなにごとも早いうちにと、その布──正確には外套(がいとう)を羽織ってベランダへと飛び出し、その勢いのまま魔法陣を踏みつけて柵を飛び越えた。  マリリスの研究室は四階にある。もちろんそこに道など存在しない。そのまま転落すれば、凄惨な事件が起きたとして取り上げられていたはずだ。  しかし、マリリスはふわりと浮き上がった。  とん、と置いた爪先には金色の魔法陣が展開され足場となる。それを踏み台に重力を感じさせない軽さでぽーんぽんと宙を跳ね、満点の星空を。月に照らされたマリリスの髪はより色を淡くして白く(きら)めき、ふわりふわりと外套を風に靡かせる姿は妖精が舞っているかのようだった。  城壁の上空を通り、閑散とした商店街を抜けて貴族街へ。行き着いたのは、貴族街の一角を占めるタウンハウス群。アーベント地区と呼ばれる区画に建ち並ぶのは、広い庭のある屋敷ではなく、隣家と壁を共有するこぢんまりとした家が連なった集合住宅だ。その中の風情ある赤レンガの一棟が、マリリスの目的とする場所だった。  緑青色の屋根に静かに降り立ち、外套のフードを被る。内側の回路に魔力を流せば、マリリスの姿はすっと溶けるように闇に紛れた。明りが漏れる部屋目掛けて階段を下りるように宙を歩き、バルコニーの手すりの隙間から屋内の様子を(うかが)う。 (あっ)  人影を見つけて反射的に声を上げそうになった口を手で塞ぎ、マリリスはじっとその一点を見つめた。 (フーゴ様だぁ……!)  マリリスの頬に朱が差し、感動で目が潤む。星を浮かべたようにきらめく瞳には長身の男──マリリスの命を救った騎士団副団長フーゴ・ウォーリエが映っていた。  彫りの深い端正な面差しがランプで照らし出され、無造作にかきあげられた鈍色の毛先がさらりと頬に落ちる。瞼を伏せた目許と微かに()(かん)した唇は色気をまとい、どこをとっても美しいその容姿に感嘆を漏らすしかない。  もう少し近くに、とバルコニーに侵入し、マリリスはそっと窓に顔を寄せる。  すると、フーゴが気怠そうに何かを口に放り込み、コップに注いでいた水を一気に(あお)った。口端からこぼれ落ちた(しずく)が顎へと伝っていく。それを拭う武骨な動作さえ様になっていた。  マリリスは一挙一動から生み出される魔性の色香に、はふはふと鼻息を荒くする。もう少しだけ、もう少しだけ、とどんどん貪欲になり、しまいには侵入しているという状況すら忘れて、窓に貼りついていた。  そんな変質者めいた眼差しを受けても、フーゴはマリリスの存在に気づかない。それどころか襟に手をかけて、合わせの留め具を外しはじめた。 (えっ、えっ……ええぇえ)  怖いもの見たさ、というのだろうか。顔を手で隠しながらも、指の隙間から覗いてしまう。そしてぱさりとフーゴの上半身を隠していた衣が床に落とされ、マリリスはその場でしりもちをついた。  傷痕が白く残る鍛え抜かれた肉体。身に着けているこまごまとした装飾品を外すたびに、均整の取れた筋肉がしなやかに動く。 「あっ、あっ」  窓ガラスを通してさえも匂い立つ雄の香り。それは耐性のないマリリスには毒のようなものだった。しかしフーゴが不意に動きを止め、耳を澄ますように張り詰めた空気をまとう。 (もしかして声出てた……!?)  慌てて口を塞ぐが、すでにこぼれ落ちてしまった音を拾い集めることなどできない。そうこうしているうちに、ゆるりと巡らされたフーゴの眼光がマリリスを射た。まるですべてを捕捉しているかのような鋭い眼差しに、サーッと血の気が引いていく。  ひっと喉の奥で悲鳴を上げ、マリリスは空へ駆け上がる。咄嗟のことに四つん()いになりながらも、なりふり構わず四肢を動かし、隣家の裏側に回って身を隠した。まだ視線が貼りついているように感じるが、さすがにそれはないと頭を振る。緊張を解いて、外套に付与した魔法が発動中であることを確認してから額の汗を拭った。 「び、びっくりした」  見えていないはずなのに、目が合った。まだ心臓がばくばくと激しく音を立てている。マリリスはそれを鎮めるように、ひんやりとした瓦屋根に背中を預けた。 「はぁ……それにしてもすごかったな……筋肉……」  思い出せば、顔がじんわりと火照ってくる。全然違う、と腹筋のふの字もなさそうな己の腹を撫でた。勲章ともいえる傷痕があったが、副団長になるにはどれほどの戦果を挙げなければならなかったのだろう。  マリリスはむくむくと湧いてくるフーゴに対する探求欲を抑えるように胸に手を当てた。 (早く招待状の返事来ないかなぁ)  会いたい。  会ってお話したい。  それがマリリスの密やかな望みだった。  うっとりと恋心に浸っていると、宵の終わりを告げる鐘の音が響き、マリリスは現実へと引き戻された。夢の時間は終わりだ。家路に就かなければならない。マリリスはちらりとフーゴがいる方向に視線を投げてから、宙へと一歩踏み出した。  時折フーゴの半裸体を思い出しては足を止め、熱くなった頬を手で扇ぐ。そんなことをくり返しながらもマリリスは再び夜を(かけ)る。そして辿り着いたのは、城壁外の農業地にある白い木造建築の屋敷だった。  緑の合間に建てられたその家は、農業地に張り巡らされた防護結界の管理棟として建てられたものだ。結界の維持を任された両親が国王から賜った屋敷であり、マリリスも生まれたときからこの屋敷に住んでいた。今は亡き両親から継いだ唯一の遺産だと聞いているが、全く思い入れはなかった。  薄情と言われても仕方のないことだろう。だが、十年前のことだからなのか、肉親を亡くして心神喪失状態に陥っていたからなのか、マリリスの過去の記憶はあやふやなのだ。この屋敷に住むようになった経緯も両親のことも全く覚えていない。気づいたときにはこの家に住んでいて、ミゲルが手続きなどすべての処理を済ませてくれていたのだ。  継ぐ予定だった伯爵位と領地は、管理能力のなさから早々に叔父に譲渡しており、所有する資産はこの屋敷のみ。とはいえ平民というわけではなく、自身が授爵した士爵という地位と賢者という肩書きにより、それなりに余裕を持った生活を送れていた。  美しく整えられた生垣の側に降り立ち、飛び石の上をポンポンポンと跳ねる。同じ調子で階段を三段上り、鼻歌を歌いながら(さび)色の木製扉を開けた。  しかし家に足を踏み入れた瞬間、エントランスホールのど真ん中に佇む金髪碧眼(へきがん)の従者と目が合い、マリリスは凍りついた。 「随分と楽しいお出かけだったようですね」  と、物腰柔らかそうな紳士が穏やかに微笑む。しかしその背後では(りゅう)の幻影が牙を()いていた。 「そ、それはもう……」  マリリスは引き攣った笑みで応えながらも逃げ出さず、凍るような視線を受け止める。それを見て、ミゲルがふっと短く息を吐いた。 「ならばよいのです。ご無事でなによりでした」  ミゲルは硬直するマリリスの外套をささっと脱がせ、乱れた髪を整える。従者としての仕事をしっかりとこなしてから、最後にそっとマリリスの首にペンダントをかけた。 「あ、これ」 「落とされていましたよ」 「ありがと……」  チェーンにつり下げられた、家紋が彫られたペンダントトップを指先で撫でる。父の遺品らしいが、マリリスにはピンと来ない。親しみを感じられるようになるかも、と身に着けていたが、今のところ全く効果はなかった。 「今夜はもう遅いのでお休みください。明日、ぜひ理由をお聞かせくださいね」 「そ、それはもう、よろこんで……」 「ではお休みなさいませ」  ミゲルは一礼すると、屋敷の廊下に姿を消した。 (ざ、罪悪感が……)  こういうときは怒られたほうがましだ。そう思わせるように仕向けるのがミゲルのやり方のような気もするが、だとしても申し訳なさが先に立つ。外套が完成し、喜び勇んで飛び出してしまったことを後悔しつつ、階段の一段目に足をかけた。  しかし、大切なものが手元にないことに気づき、ハッと弾かれたように振り返る。 「ミゲル待って! それ持っていかないで~!」  マリリスは情けない声をあげながら、ミゲルの後を追って廊下を走っていった。     § ◆ §  外套はすぐに手元に戻り、呆気(あっけ)なく解放されたが、翌朝、当然のことながら経緯を聞かれ、すべてを打ち明けることになった。  命を助けられたこと、優しく声を掛けられたこと、見たこともない美しい人だったこと。マリリスは今でも鮮明に蘇ってくる記憶をなぞるようにしてミゲルに伝えた。 「──それで恋に落ちてしまった、と。そのお相手が騎士団の副団長……」 「そう、フーゴ・ウォーリエ様!」 「では昨夜のお出かけの目的も彼だったのですか?」 「うん、ちょっとだけお姿を見に行ってきたの。招待状出したのに返事が来ないからもう限界! ってなって」 「そのためにあの透明化の外套を?」 「えへへ、その通り!」  ペンを動かしていた手を止めてマリリスは自慢げに胸を張る。するとミゲルが短くため息をついた。 「散漫とされていたことに納得しました」 「うん……僕、恋なんてしたことないから、ずっとソワソワしちゃって」 「そうですね、このようなことは初めてですから。……一応確認しますが、彼の性別をご存じの上でおっしゃっているのですね?」 「もちろん! 恋って女の人に抱くものかと思っていたけど、魅かれるんだから仕方ないよね」 「わかりました。子孫を残すという意味で結婚は異性に限られていますが、恋愛に関する法律は定められておりませんので、どうぞ仕事に影響のない範囲で(おう)()してください」 「ミゲルありがとう! 僕、フーゴ様に近づけるように頑張るね!」  マリリスは目を輝かせ、花が綻ぶように微笑んだ。そんなマリリスに対しミゲルはどこか複雑そうな眼差しを向けていたが、何かを思いついたように瞬きする。 「さきほど招待状の返事が来ないとおっしゃいましたが、名義はどうされたのですか? もしかして、ライン士爵として出したとか……」 「うん、マリリス・ラインで出したけど、いけなかった?」  何が問題なのか全くわからず、マリリスはきょとんとミゲルを見上げた。 「試験日当日、先生として変装していなかったはずです。副団長殿は今のお姿のマリリス様から招待されていると、気づいておられないのでは……?」 「気づいてない?」  まさかそんなわけないよ、と否定するものの、自分が招待状を準備したときのことを思い返してみる。お気に入りの便箋に感謝の言葉を(つづ)り、美しい封筒に詰めた。それからマリリス・ラインと署名して、八芒星の(ろう)封印をぐっと押したのだ。  ただ、その工程に既視感しかなかった。いつも魔法局から他機関に手紙を出す際と同じ手順だったのだ。  一拍置いてマリリスは「ああぁあ」と叫んだ。 「すっかり忘れてたぁああ!」  フーゴに送った手紙の差出人は『賢者ライン』になっていたのだ。局外では青年の姿をしたマリリスが賢者だと知るものは数少なく、全くの別の人物だと認識されている。送られてきた意図が理解できず放置されている可能性さえあるわけで── 「もう、僕のばかぁ!」 「それにウォーリエ士爵は、治癒院の理事をしているバルト伯爵の派閥です。魔法局とは対立関係にありますから、ライン士爵からの招待に応じるのは難しいでしょう」 「派閥……派閥なんてもの、なんであるの!?」  なんて不条理なんだぁ、とマリリスは目を潤ませながら机に突っ伏した。  魔法局は国王直轄の機関であり派閥を持たないが、最近事情が変わったのだ。魔道具により衛生環境が整ったことで国民の健康寿命が延び、治癒院が販売する薬の売り上げが減少。そのことで(ひん)(しゅく)を買ってしまったのだ。  自らの低調を棚に上げる愚鈍、とミゲルは一蹴しているが、彼らの矛先は賢者ラインに向いており、どこからともなく湧いた悪行の(うわさ)()き散らされる事態になっていた。 「もし副団長殿が悪評を耳にされているなら、避けられていることも十分考えられます。第一、平民の彼が副団長という地位を得たのはバルト伯爵の後ろ盾があってこそですから、忠義立てしているというのもあるでしょう」 「平民……そっか、そうだよね……」  だが、フーゴは自分も被弾しそうな状況で一介の魔法局員を助けた。彼にとって無駄骨を折る行為であるにもかかわらず──だ。その事実は揺るがない。 「招待状はいつお出しになったのですか?」 「試験日の翌日だよ」 「翌日……ってすでに半月も経っているではないですか!」 「うん、待ってたらいつの間にか経っちゃってた」 「では今まで何を……?」 「フーゴ様の追っかけ? 会うまでに少しでもお姿を見るのに慣れておこうと思って。でも時間が合わなくて全然見れなかったけど……」 「ということはまだお礼はされていないのですね」 「うん、僕から声をかけるなんて、恐れ多くてできないもん!」 「……そうですか……」  ミゲルはなんとも形容しがたい表情を浮かべた。 「でもこれで返事が来ないってはっきりしたからいいんだ! 会うには僕から行動を起こさなきゃいけないってわかったしね!」  試験日以降、姿を拝めたのは家を覗いたあの一度だけだ。今まで騎士団の正門前でフーゴを待ち伏せしたり、ウォーリエ家の紋章の入った車を追いかけたりと、不毛なことばかりしていたのだ。  中途半端なもので半月も無駄にしてしまったが、腹が決まった今、迷う必要はない。 (一番確実なのは騎士団本部に行くことだよね!)  手を叩いて席を立ち、マリリスは例の外套を手に取った。そして鼻歌を歌いながらノブを回し、研究室の扉を引いた。だがその直後、視界に影がかかり引いた扉が即座に押し戻される。 「え」 「マリリス様」  真後ろから放たれたその声は氷のような冷たさを含んでおり、マリリスの背筋がサァッと凍っていく。 「先ほど仕事に影響のない範囲で、と申し上げたはずですが? お出かけは陛下の依頼を終わらせてからにしましょうね?」  ぎぎぎぎと錆びたブリキ人形のように振り返ったマリリスの目に映ったのは、天使のような微笑みを浮かべた悪魔の姿。そしてその手には(かせ)のついた鎖が握られており、マリリスへの最終宣告のようにじゃらりと音を立てた。  それから五日間、マリリスは軟禁状態を強いられ、屋敷と研究室を往復する日々を送ることになったのだった。     § ◆ § 「ミゲル、開発のほうは順調かな」  その問いかけに、マリリスの散らかった机を片付けていたミゲルが振り返った。戸口にはふっさりとした白い顎髭を撫でる老人の姿があり、肩から力を抜く。 「ローマン局長、今日は夜遅くまでおいでなのですね」 「進捗が気になってのう。マリリスは仕事に身が入っていないようじゃから」 「気づかれていたのですか」 「ふむ、珍しいこともあるものだと思ってな」  ローマンは部屋の奥まで進むと隣室を覗き、ソファで仮眠を取るマリリスを見て、フと笑いをこぼす。  ミゲルは作業を中断して湯を沸かし、ローマンを応接スぺースに促した。 「マリリスは今何に興味を抱いておるのかな」  腰を落ち着けたローマンが優しい口調で問う。(とが)めるつもりはないようで、彼の顔には喜びすら浮かんでいた。その様子にミゲルも口許を緩ませる。 「ある方に好意を寄せられているようですよ」 「ほう、なるほどな、そういうことじゃったか」 「はい、まだ幼い感情で憧れのほうが強いようにも思いますが」 「だが魔法よりも大切なもの、か。成長を感じられるのは(うれ)しいものじゃな」  ミゲルは頷いた。 「十年前を思えば、よくここまで回復されたと」 「ミゲル、おまえのおかげじゃよ。マリリスの拠り所でいてくれたことに感謝する」 「いえ、私が返せるのはそのぐらいですから。ただ時期が時期で、素直に応援できないのは悩ましいところですが」 「そうじゃな、やっとここまで()ぎつけたのだ、マリリスにはもう暫く踏ん張ってもらわなければならんな」 「そうですね、あの方のことですから、問題なく終えてくださるでしょう」  ミゲルが思いを()せるように隣室へ視線を向けると、ローマンは目を細めた。 「深淵(アビス)調査か。生きているうちに、このような進展があるとは思わなんだ。だからこそ最後まで見届けたいものじゃな」 「ええ」  見合わせた二人の目には強い意志が宿っていた。  およそ八百年前、グランデ王国の豊かな農地に、突如巨大な穴が開いた。  それは比喩ではなく、その状況を正確に表したものだ。その穴は、小さい街であればすっぽりと飲み込んでしまうほどに大きく、内部は奈落に(つな)がっているかのように漆黒の世界が続いていた。当時の民はその穴を深淵(アビス)と名づけ、いくつかの手記を残している。だが発生原因はいまだ解明されておらず、内部も未踏の地なのだ。  ただ、深淵(アビス)がどれだけ不気味なものだとしても、単なる陥没穴であれば脅威でもなんでもなかった。問題なのは魔物を発生させる瘴気(しょうき)という物質を垂れ流しているということだ。  溢れ出た瘴気は地上にある魔素という魔力の源と融合して魔物を生み出し、時に魔物の氾濫を起こす。当時、深淵(アビス)周辺にあった美しい農地は魔物によって踏み荒らされ、住人たちも命からがら居を移した。王都が現在の場所に置かれたのも深淵(アビス)から距離を置くためであり、その脅威は依然として継続されているのだ。  そんな国を脅かす深淵(アビス)へ乗り出し、瘴気発生の原因を突き止める。何百年もの間、技術が追いつかずに踏み込むことができなかった調査。その第一歩がマリリスの腕にかかっていた。 「今度こそ自由だぁ!」  たまっていた依頼をすべて終わらせ、机に置かれていた書類がきれいになくなったのを見て、マリリスはぐっと伸びをする。  解放され脱力した体を襲うのは、痛みを伴う全身の凝り。だがマリリスにとってはこれからのことの方が重要で、すぐさま新しい保存用紙を作業台に広げた。 「マリリス様、お疲れさまでした」  ミゲルが晴れ晴れとした顔をして、特製のカフェオレを運んでくる。マリリスは湯気の立つカップを「ありがとう」と受け取って、息を吹きかけながら口を付けた。 「副団長殿に会いに向かわれたいのは重々承知していますが、今日はしっかりとお休みになられた方がいいですよ」 「それもそうなんだけど……うずうずしちゃって」 「……そうですね……このまま退勤する予定でしたが、終業時間までは作業されますか? 明日から一週間は休みを取っていますので、持ち帰られても構いませんよ」 「本当!? やったぁ! じゃあ今できるところまでやっちゃお!」  マリリスはぱっと表情を明るくして顔を綻ばせた。子供のように無邪気なマリリスに対してミゲルは穏やかに目を細める。そして「いい傾向ですね」とぼそりとこぼした。 「何か言った?」  ペンを握り保存用紙に向かおうとしていたマリリスは首を傾げたが、ミゲルは「いえ」と首を振り、くすりと笑ってから(きびす)を返す。いつも通り書類の整理をはじめたミゲルを見て、マリリスは気のせいかとすぐさま手元に視線を落とした。

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