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【3】
街灯が点り、空が群青色の帳を下ろすころ、一等地にある邸宅の車寄せには多くの車が停まっていた。豪奢な屋敷に続く階段には入場前の紳士淑女たちが立ち並び、彩を添えている。
そこへ一台の車が乗り入れると、淑女たちがざわめいた。車体に掲げられた紋章がウォーリエ士爵のものだったからだ。
車の扉が開けられ、フーゴが地に足を下ろすと、濃紺のロングジャケットが風に靡く。袖と前開き部分に銀糸のレースをあしらった上品なものだ。鈍い銀髪との組み合わせで決して目立たない色合いだが、それでもなおその長躯から滲 み出る風格を隠しきれてはいなかった。淑女たちの視線は一斉に彼へ向けられ、フーゴが階段を上りはじめると、我先にと貴婦人たちが群がっていった。
「あなたが来ると聞いて待っていたの。会えて嬉しいわ」
「光栄です。私も夫人のお顔を見たくて車を飛ばして参りましたから」
一言交わすと他の婦人が続々と割って入ってくる。
「最近めっきり顔を見せないから、心配していたのよ」
「この通り変わりありません。夫人の心に置いていただけるなど、私は本当に果報者です」
「久しぶりね。娘を連れてきているのよ、相手をお願いね。ホールであなたが来るのを今か今かと待っているわ」
「喜んでお受けいたします。その褒美に後ほど私と踊ってくださいますか?」
フーゴは一歩進むごとに応対し、そのたびに歯の浮くようなセリフを並べていた。キザな言葉も甘い声で囁 かれれば、心を解かす魔法になるのだろう。彼女らの目にはハートが浮かんでいた。
終始穏やかな笑みを浮かべ、時折彼女らに身を寄せて耳打ちする。目線、仕草、距離感。そのすべてで魅了していくのだ。フーゴのことを見下すようにしていた貴婦人たちも、彼が通り過ぎたあとは名残惜しそうな視線を彼の背中に投げかけていた。
それを傍から見ていたマリリスは呆気に取られて、その場で立ち尽くしていた。
(こ、これが噂の……)
煌びやかな舞踏会に攻め入ったフーゴは、マリリスの想像を絶するほどの女たらしだったのだ。
(処世術だとしても……確かに楽しんでいらっしゃる……)
透明化しているマリリスは、壁に貼り付きつつフーゴについて回ったが、彼の形のいい唇から紡がれるのはほとんどが口説き文句だった。
そんなフーゴも紳士に対しては一言の挨拶や軽い会釈だけで済ませており、女にしか興味がないという意思をあからさまに示していた。
(陞爵 には興味ないのかな。それともただ単に相手をしたくないとか……)
ただ、男だとしても、娘を連れている当主とは話が弾んでいるように見える。もしかすると娘婿の地位を狙っているのかもしれない。自ら陞爵を目指すより、確実に貴族の座を手に入れられる方法であり、気のせいではないはずだ。
マリリスはそんな考察をしながら、ダンスホールに入ってしまったフーゴを見送り、ホールを見下ろせる二階通路へと上がった。
音楽家たちの生演奏が流れるホールでは、ご令嬢たちが競い合うようにして入場したばかりのフーゴに誘いをかけている。身分が低い彼が断ることはない。ご令嬢たちも安心して声をかけられるのだろう。フーゴは休む間もなく彼女らの白い手を引いてエスコートし、ワルツを踊り続けていた。
「ハッ、結婚もせずにふらふらと」
マリリスは隣から聞こえてきた棘 のある声に顔を上げた。
「まぁまぁ、あいつを招待すれば男も女も寄ってくる。娘の婚約者のお披露目にはもってこいだからな。お相手は大貴族、アッケルマン公爵のご子息だ、見せびらかしたいだろうさ」
「そうは言うが、存在自体が不愉快だ。比較されてため息をつかれる身にもなってみろ」
「はは、それはご愁傷さまだな」
女性を誘わずワインを温める男たち。男の妬みもなかなかに恐ろしいものだ。ただ、フーゴが優雅にステップを踏む姿を見ていると、彼らにわずかばかり同情してしまう。まさに非の打ちどころもないというのは彼のような人のことを指すのだろう。
やっかみを向ける彼らの視線をよそに、ご令嬢は上目遣いにフーゴを窺 っては頬を赤らめる。フーゴはそれに応えるように笑みをたたえていた。
(うーん、つまらない)
こうして姿を拝めたのは良いが、婦人たちとの戯れを見せられるのは面白いものではない。もう帰ろうかなと思案していると、ちょうど演奏が止み、小休憩が挟まれた。ホールから離れる者もいれば、歓談を始める者もいる。折角来たのだから他に何かないものかと階段を降りつつ視線を彷徨わせていると、ホールから出てきたフーゴの姿が目に飛び込んできた。
グラス片手に優雅に歩く彼をマリリスは目で追う。あれだけご令嬢たちに揉まれていたというのに、顔にわずかな疲れも表れていなかった。
(強靭 な精神だ……さすが、副団長様)
だが一人でいるということは逃げてきたのだろう。人気のないところに向かおうとしている気配を感じ取る。
(これは行くしかないよね)
あわよくば、偶然を装ってお礼を言ってもいい。
フーゴと面識があるのはマリリスであって賢者ラインではない。エドウィンが招待状を配っていたのだから、最悪魔法局員のマリリスがこの場にいても問題ないのだ。
高鳴る胸を押さえながらもついていくと、見覚えのある青年が「ウォーリエ副団長!」とフーゴを呼び止め進路を塞いだ。
(エディ!?)
榛色の髪と瞳。その青年は大人しそうに見えるのに強心臓持ちというエドウィンで間違いなかった。エドウィンの隣には紺髪の青年がいて、フーゴにエドウィンを紹介しているようだ。騎士団の人なのかもしれない。それからはじめましてと握手を交わした。
羨ましい! とマリリスは胸中で叫んだが、フーゴとエドウィンの接触は本当にそれだけだった。フーゴは人と会う約束があるからと、あっさりとエドウィンともう一人の青年の横をすり抜けていったのだ。エドウィンは話したい意志を表すように目を爛々 とさせていたのにフーゴは見向きもしない。人の目がある場所ではさすがのエドウィンも食い下がれなかったのか、取り残されて、怒り口調の紺髪の青年に慰められていた。
マリリスもその脇を通り過ぎるが、急に不安が襲ってくる。
男女の扱いの違いに、だ。
(もしかしてこれ、話しかけてもお礼言えずに通り過ぎられる可能性もあるんじゃ……)
そんな憂いを抱えながらホールから離れた階段を上り二階へ。フーゴの迷いのない歩調に疑問を感じつつもバルコニーに出ていくのを見て、さっと窓辺に駆け寄った。そしてこっそりと外を窺う。
フーゴは腰壁に肘をついて夜景を眺めており、やはり息抜きをしに来たようだ。静寂に浸ったあと、しばらくして動きを見せる。ジャケットから折りたたまれた紙を取り出して広げると、そこにあるものを指でつまんで口に放り入れた。すぐにワインを呷ってそれを嚥 下 する。
(薬? そういえば前も何か飲んでたような……)
騎士団の中堅どころは、辺境の前哨 地──すなわち瘴気の森 で連日魔物と戦闘し、神経を擦り減らしながら過ごす。王都は随分と発展を遂げたが、辺境まで行き届いているわけではないため、いろいろな要因が重なって体を悪くする人も多いと聞く。そんな中でフーゴは名を上げたのだから、何があってもおかしくない。
(元気そうに見えるけどなぁ)
先ほどのダンスでも何人もの相手を務めたというのに、息を切らしてさえいないのだ。
(重いものじゃなかったらいいけど)
フーゴの背中を眺めていると、廊下の扉が開き華やかに着飾った夫人が姿を現した。マリリスは息を殺して壁にピタリと貼りつく。しかし、周りのことなど見えていないかのように彼女は誇らしげに豊満な胸を張り、甘い香りを漂わせてマリリスの目の前を通り過ぎた。そして迷うことなく掃き出し窓の外へ踏み出す。
もちろん、その先はフーゴのいるバルコニーだ。
(伯爵夫人だよね?)
マリリスも見たことがある人物だった。婚姻前は傾国の美女とも呼ばれ、誰が彼女を落とすか、などという話題を提供していた人だと聞いている。式典のたびに彼女を見つけると室員が当時のことをこと細かに説明してきたためよく覚えている。そしてバルト伯爵が争いに勝ち、その座をかっさらっていった、と興奮したように語っていたことを思い出した。
そんな美男美女の逢 瀬 を見逃せるはずもなく、マリリスは聞き耳を立てる。
「フーゴ、待っていたわ」
「伯爵夫人、このような祝いの席にお招きいただき光栄です」
フーゴは胸に手を当て柔らかに腰を折る。当たり前のように差し出された手を掬 い上げると、甲へと口付けた。
「ご息女の婚約、誠におめでとうございます。久方ぶりにお会いしましたが、本当にお綺麗になられました。アッケルマン公爵のご子息とは実にお似合いで、私も眼福にあずからせていただきました」
「あの娘 はまだ子供だけど主人に似てなかなか世渡り上手なのよ。容姿だけで求婚された私とは大違い。あなたもあまり側をふらふらしないことね」
「肝に銘じます」
「それから、私の前で他の女を褒めるのはやめてちょうだい。面白くないわ」
夫人が拗 ねたように唇を尖 らすと、フーゴが吐息とともに笑った。
「失礼しました。少し夫人を嫉妬させてみたかったのです」
「ふふ。そういうことにしておいてあげる。慰めてくれるのでしょう?」
二人の世界に浸るように見つめ合い、彼女が華奢な指でフーゴの厚い肩をするりと撫でた。フーゴは滑らかな頬に指を滑らせ、髪を耳にかける。そのまま耳元に唇を寄せて何かを囁くと、夫人は濡 れたように赤い唇を弧にした。
ごくりとマリリスの喉が鳴る。
二人は美しくお似合いだ。しかし胸がざわめき、喉が痞 えるような苦しさが湧いてくる。
(ほ、本当に不倫するの? ご息女もいるご夫人だよ……?)
倫理感が多少ずれているところがあるマリリスだが、さすがに不倫はただの噂であってほしいと心のどこかで願っていた。だが、現実は甘くなかった。
マリリスを置いてきぼりに、フーゴは夫人のくびれた腰を引き寄せた。あの時、マリリスを救った逞 しい腕で。そして月の光を浴びる二人の顔がゆっくりと近づいていき──
「っ」
マリリスは身を翻した。ガシャンと背後で何かが割れた音を立てたが、お構いなしに足を動かす。一秒でも早くそこから立ち去りたかった。
屋敷の中を駆け抜け、広い庭を横切る。フードが向かい風にあおられて脱げてしまったが、気に掛ける余裕もなく表通りに飛び出した。勢いのまま数歩進んで立ち止まり、──空を見上げた。
「……ちゃんとわかってたのになぁ……」
深いため息がこぼれる。
急激に萎んでしまった気持ちの扱い方がわからず、自分の心ではなくなってしまったかのようだった。
とぼとぼと大通りを歩き、通りすがった辻 馬車を呼び止めて乗り込む。抜け殻のように車窓を眺め、幾度もため息を繰り返した。そんな客の様子に御者も何か思うことがあったのか、「元気出しなよ」と声をかけてくるほどだった。
屋敷に着くと、マリリスの異変に気づいたのか、どこか優しくミゲルが迎え入れた。
「マリリス様、何かあったのですか? それとも副団長殿には──」
「会ったよ……こっそり見ていただけだけど」
「そうなのですね。ではどうして……」
「…………不倫現場に遭遇しちゃって」
「それは……」
美男美女の絡みを思い出して、マリリスはハァと魂が抜けていきそうなほど深く嘆息する。ミゲルもどう励ましていいのかわからないといった表情を浮かべた。
「わかってるつもりだったけど、直接見ちゃうと……」
「お気持ちお察しします。少し休まれますか? 食事は……」
「……湯浴みしてすぐ寝たい……」
「かしこまりました」
マリリスは唸りながら居間のソファにごろんと横になり、クッションをぎゅうと抱え込む。胸の辺りが締めつけられるような、むかむかとするような、自分ではどうにもできない感情が胸の中で渦巻いていた。
そして脳裏にちらつくのは、エドウィンのように置き去りにされる未来。
(女だったら近づけたのかな。一緒に踊れたのかな)
もしかしたらその他大勢でも側にいれたかもしれない。
考えれば考えるほどあの光景が浮かんできてしまい、マリリスはクッションにぐりぐりと顔を埋めた。
(僕が女だったらなぁ……)
そう、女だったら──。女……女……?
「あああっ!」
マリリスはがばりと起き上がる。見守っていたミゲルも突然の大声にびくっと体を跳ねさせた。
「そっかぁ!」
わざわざマリリスとしてお礼を言う必要はないのだ。何かの形で恩を返せればいい。そして、あわよくば知り合いぐらいになれたら最高だ。
「悩む時間がもったいないし、やるしかないよね!」
と結論を出した。
うんうん、と一人頷くマリリスに、ミゲルが憂色をたたえる。思い込めばぶち当たるまで突き進むマリリスが何を思いついたのか、心配にならないはずがなかった。
結果としてその性格がいい方向に転んだことで今があるため、一概に悪いと言えないのだが、ミゲルの表情は渋い。
「やるって何をですか?」
「それはねぇ」
んふふ、とマリリスは肩を竦 めて悪戯っぽく微笑んだ。
§ ◆ §
盗賊には騎士団を。迷宮には傭兵 を。
攻略するには、それに対応するものを考えればいい。
そう、女たらしには女を、である。
大通りから一本奥に入った細い路地にはこぢんまりとした個人経営の店が並ぶ。街灯はなく、店先につり下げられたランプや燭 台 が淡く夜道を照らしていた。道幅のわりに行き交う人は多く、怪しげな店へ呼び込もうとする者や道端に座り込む者などもいて、けして治安がいいとはいえない場所だ。
だが、そんな路地のど真ん中を突き進む少女が一人。肩までのさらさらとした金髪が風に靡き、その幼さの残る顔が露わになる。眼鏡をかけているが、素朴な愛らしさを引き立たせるだけで何の邪魔にもなっておらず、その奥にある薄い水色の瞳は裏通りに似つかわしくないほど輝いていた。
服装はワンピースにカルソンを合わせ、ベルトから腰鞄を下げる、という平民女性の定番の服装だが、隠しきれない品が漂い、お忍びであることは明らかだった。
まさに狼 の群れに迷い込んだ羊──なのだが、その少女に誰も声をかけないのは、彼女が足を止めたログハウス風の小さな酒場が、元騎士団員の店であることが一番の理由だろう。明かりもなく人目のない郊外よりは断然、こちらの方が安全だった。
もちろん少女の中身は成人男性のマリリスであり、向けられる視線などお構いなしに扉の前に立つ。そして、小 洒落 たプレートに彫られた店名をしっかりと見据えた。
老騎士から葉巻三本と引き換えに教えてもらった、フーゴが頻繁に通っているという酒場『ミストルティン』。
「ここだ……合ってる」
緊張で上ずった声が出る。マリリスは胸に手を当てて深く呼吸した。そして金属製のノブをぐっと握る。
(どうか会えますように!)
祈りを捧 げながらノブを回して扉を引くと、壁に備え付けられた棚に所狭しと並べられた酒瓶と樽 が一番に目に飛び込んでくる。戸が開いた音を聞きつけたのか、赤茶の髪を耳の高さで一纏 めにした女将が奥の部屋から顔を出した。
「いらっしゃい。好きなところ座んな」
褐色肌かつマリリスよりも一回り大きい体。騎士団の団長と同じ肉体特化のバーガス種で、滲み出る貫禄 に圧倒される。マリリスはお邪魔しますと小声で呟きつつ店内におそるおそる足を踏み入れた。
外観の印象と変わらず、暖色系の木材で統一された店内は、家庭的ながらお洒落で、お酒を楽しむには申し分のない雰囲気を醸し出している。五つあるテーブル席はすでに埋まっていて、人気店であることが窺えた。ただ残念ながらその中にフーゴの姿はない。
(うぅ……やっぱりいないかぁ……)
今までも会えなかったのだ。飛び入りで来店して出逢えるなんてことはまずない。
落胆するもののうじうじとはせず、すぐさま目的を老騎士から勧められた料理に切り替えて、カウンターチェアによじ登るようにして腰かけた。
「こんばんは」
「ああ、こんばんは。嬢ちゃん、初めて見る顔だね」
マリリスに向けられた女将の新緑の瞳がギラリと光ったように見えた。接客する上で客を吟味するのは大切なことなのだろうが、その視線にマリリスはドキリとする。
メイドに頼んで化粧を施してもらい、髪も魔法で女性らしく整えた。そのあと髭と同じように定着させており、滅多なことでは剥がれないよう念には念を入れているのだ。男だと知られる可能性はほとんどない。
「何にするか決まってるなら聞くよ」
女将の鮮やかな瞳が優しく細められ、うまく騙せていることに安堵する。多少の後ろめたさを感じるが、フーゴの気を引くためにはやるしかないのだ。
「えっと……エールのジュース割りがあるって聞いて……」
「ああ、ならチェリージュースが入ってるのはどうだい?」
「じゃあ、それと、合うおつまみがあれば」
「了解」
大衆酒場ではきめ細やかな注文は受けてくれない。女将一人で営業しているこの店は融通が利き、お酒が苦手でも飲めると聞いて楽しみにしていたのだ。
目の前にはエールのジュース割りとチーズペーストが塗られたクラッカーが並べられ、マリリスは目を輝かせる。老騎士から聞いていたおつまみそのままだった。特製のスパイスが混ぜ込まれたペーストが後を引き、いくらでも食べられてしまうらしい。
早速酒を片手につまみにかぶりついた。
「ん~おいしっ」
口に入れた途端に広がる複雑な塩味とサクサクという食感に、マリリスは舌鼓を打つ。
「気に入ってもらえたみたいだね」
もぐもぐと口を動かしながらひたすら頷くと、女将も嬉しそうに頬を緩めた。
「かわいいじゃないか。ただし帰るときには後ろの狼どもに気をつけなよ」
(狼……あ、そっか)
食べ物に夢中になり、すっかり女装中であることを忘れていた。
だが問題ない。
「大丈夫。アソコだけ溶かす魔法とかいろいろ使えるから」
女装して酒場に行くとミゲルに伝えると、そのぐらいの魔法は考えてから行ってくださいと言われ、急遽 作ったものだった。
自慢げに応えると女将がきょとんと動きを止めた。そしてすぐさま相好を崩して、あっはっはと大笑いする。背後では凍えて震えているような呻きが上がっていた。
「なかなか肝が据わってるじゃないか、嬢ちゃん。そうか、所属は魔法局だね?」
「へへ、そんな感じ」
「最近は騎士団とも仲良くしてくれてるそうだね」
「んー、仲良くというか、いろいろと買ってくれるお客様だからなぁ」
「お客様、そうかい、お客様かい」
女将があっはっはとまた豪快に笑う。
騎士団にも魔法兵や設備部隊という魔法や魔道具を扱う兵科はあるが、研究施設を持っておらず、あくまで使用者。魔法局にとっては大口の客なのである。マリリスが金に糸目をつけずに研究できているのは騎士団あってこそであり、ありがたい存在なのだ。
「それで、アソコだけ溶かせるってのはどういう原理なんだい?」
「え、女将さん何に使うの? 人に使ったら、本当に溶けちゃうからね?」
「ハハハ、使わないよ。今はどんな魔法が流行ってるのか気になっちまったのさ。随分高度な魔法を使うようになったもんだと思ってねぇ」
「あー、確かに。じゃあ、女将さんには特別に教えるね」
あんたのこと気に入ったよ、と構い倒してくる女将と話していると、あっという間に時間が過ぎていく。酒を三杯飲み干したところで、時計台の鐘の音が遠くで聞こえ、マリリスはその音を追うように顔を上げた。
宵の終わり。酒場などはこれからが本番だが、マリリスにとっては就寝時間が迫ってきているという報せだ。いい感じに酔ってふわふわと楽しくなりつつあるが、時間が来てしまったのなら仕方がない。
「女将さーん、そろそろ帰るね」
「遅くまで引き留めちまったね。またいつでもおいで」
「うん」
硬貨の数え方を習ったばかりで、一枚ずつ取り出すのを女将に見守られつつ代金を払う。そしてカウンターチェアからぴょんと飛び降りようとしたとき、ちょうど店の扉が開いた。マリリスは反射的に顔を向ける。しかしそれが徒となり、持ち前の鈍臭さが発揮されてしまった。片足のつま先が椅子の軸についている足置きに引っかかったのだ。
(え)
足払いを受けたかのように体が傾き、口から猫がしっぽを踏まれたような声が出る。
腕を伸ばして衝撃に備えるが、自分の体重を支えられる気がしない。転倒して顔面を強打する未来が即座に浮かび、マリリスはぎゅっと目を瞑 った。
しかし衝撃が来ると予測していた到達点よりも早くに顔面が何かにぶつかり、「へぶっ」と奇声が漏れる。
衝撃は予想より随分と弱かったが、鼻を打ち付けたことに変わりない。しかも眼鏡をかけているのだ。鼻あてが刺さり、内部に響く痛みに涙が押し寄せてくる。
(いだい……。一体何に……)
鼻を押さえながら体を起こそうと手をつくと、そこには床板ではない布の感触があった。いや、布だけではなく、その下に柔らかさと硬さが入り混じったものがある。はた、と目を開けると、マリリスは下敷きにした人物の太 腿 を跨 ぐように座っていた。
「え」
慌てて上げた視線の先にはなんとも端正な顔があり、金色の瞳とバチリと目が合う。直後、男の形の良い唇がニィと歪んだ。
「よぉ、無事そうだな?」
「あば」
思考回路と口を動かす神経が交錯しているようで、咄嗟に出そうとしてしまった彼の名前は言葉にならなかった。
「っ、それ何語だ……、くく」
「助かったよ。嬢ちゃんの顔に傷なんてつけようものなら大変だ」
「あぁ。意外に間に合うもんだな」
ふくく、と腹筋を震わせながら女将に答えた男の表情には、作り笑いではなく自然な笑みが浮かんでおり、そのくしゃりとした目元に目が釘 付けになる。マリリスは自分の胸がきゅんと鳴いたのを聞いた気がした。
「おまえな、いつまで俺に乗ってるつもりだ」
「え、あ」
動きたい。マリリスも早く退かなければともちろん思っていた。しかし全くといっていいほど足に力が入らなかった。なにせ目の前にいる人物は会いたくて焦がれていた騎士団副団長のフーゴなのだ。しかもがっつり接触しているのである。マリリスはその状況に完全に腰を抜かしていた。
だからといって、この状態を続けていれば変態として認識されてしまう。それはいけない、とフーゴの体を避けるように床に手をついて、なんとか体重移動させようとする。すると鼻の中にツーと生温かいものが垂れてくる感覚を拾った。ただ気づいたときには遅く、それは雫となってぽたりと落ち、フーゴの生成りのシャツに赤い丸を描いた。
「あ」
マリリスとフーゴ、そして女将の声が見事に重なった。
§ ◆ §
「あの状態でこけられるって、鈍臭い通り越して器用だろ」
顔の片隅に笑みを燻 ぶらせながら、隣に座るフーゴがジョッキに口を付けた。
女将の機転で店の控室に放り込まれたあと、フーゴが手早く鼻血の処置を施し、血が止まったのがつい先ほど。やっと店内に戻り一息ついたところだった。
「本当にすみませんでした」
マリリスは申し訳なさから、二度目となる恩人にひたすら旋毛を晒 す。
(せっかくの再会がこんなことに……)
頭の上にしょぼんという文字が浮かぶほど、マリリスは落ち込んでいた。
さすがに凹んでばかりではいられない。ごそごそと腰鞄を漁り、紙の束を握ると木目調のテーブルの上にそっと置く。そして、「これお詫 びです」とフーゴの表情を窺いながらおずおずと滑らせた。
「これしか持ち合わせがなくて、新しい──」
「おまえ、人買いでもする気か」
「へ?」
マリリスがきょとんとすると、フーゴはその端正な顔をニタニタと歪ませながら、ずいと近づけてくる。それはけして初対面の距離ではない。だというのに全く嫌悪感はなく、それどころか鼻を擽 るエキゾチックな香りをもっと近くで嗅ぎたいと思ってしまう。
「悪いな、金で買えるほど俺は安くねぇんだわ」
細められた瞼の奥で怪しい光を宿す黄金が、マリリスの欲を見透かすように見据えてくる。
(買うつもりなんて)
これは貶 されているような気がする。ただ本気ではないようで、揶揄 いが混じる笑みがそれを証明していた。
「フーゴ、うちの客に手出すんじゃないよ」
「出さねぇよ」
咎めるような女将の声に反応して、フーゴが何事もなかったかのように上体を戻した。同時に札束を掴んで「遠慮なく」と紙幣を一枚抜き取ったあと、その残りをテーブルで影になっているマリリスの腹部へと押し付ける。
「今すぐしまえ」
「でも、お詫び」
「服一枚買うのにこんなに必要ない。それにこんなところで堂々と出すな。世間知らずのお子様はこれだから」
「ス、スミマセン……」
マリリスは慌てて鞄に仕舞ってから背後を振り返った。どうやら金のやり取りを見ていた者はいないようで、肩から力を抜く。
(そっか……)
フーゴが金を隠すために体を寄せてきたのだと今更ながらに気づき、マリリスはその横顔を見つめた。それに目敏く気づいたフーゴが視線だけを寄越す。その目尻にはまた悪い笑みが浮かんでいた。
「どうした? もう寝る時間じゃねぇのか、お子様は」
「ちゃ、ちゃんと成人してるからお子様じゃないです」
「じゃあ、来るならもう少し胸が成長してからにしろ。その時はそれなりに相手してやるよ」
「胸……」
マリリスは自分の胸に手を当てる。通常女性にあるべき膨らみはなく、そこは全くのまっ平らだ。触られた覚えもないのになぜ、と考えたところで、先ほど転倒した際に受け止められたことを思い出した。だが、大事なところはそこではない。
先ほどからずっとニヤニヤとした笑いばかり向けられて、マリリスが期待していた愛想の良さなどかけらも存在しなかった。邪険にされていないことから女装した甲斐はあったようだが、子供扱いされていることは明らかだ。
何が違うのか。
思い返すと、舞踏会で甘い言葉を囁いていたフーゴの周りには、胸の谷間を強調したドレスを着た淑女たちが集まっていた。その差は歴然。
(胸だ! 胸が足りないんだぁー!)
メイドにお願いして化粧をしてもらう際、胸はどうしますかと聞かれたような気がする。長時間の化粧に疲れ果てていたせいで、適当に要らないと返事をしてしまったのだ。
納得と呆れと羞恥が入り混じり、マリリスは顔を赤くしながらぶすくれる。するとフーゴが顔を覗き込んできて、くくと喉を震わせた。
「なんだ、拗ねてんのか。しかたねぇなぁ」
困ったやつだと言わんばかりにため息をついたフーゴは手を伸ばす。その大きな手はマリリスの頭の天辺に着地し、「ハイハイ可愛い可愛い」というセリフとともにぽんぽんとマリリスを撫でた。
もしフーゴの目があの事故のときのように優しく細められているのであれば、それが慰めだと思っただろう。だがニヤニヤを通り越してニッタニタになっている今、どう考えても揶揄われているのだ。
しかし想い人から自発的に触られることがどれだけ心を揺さぶるか。
(こんなの怒るに怒れないよぉ)
きゅんきゅんと胸が締め付けられ、マリリスの顔は一層赤さを増した。
初対面なのにこの馴染みよう。距離感がおかしいのか、それともそう装っているのか。だがすでに彼のペースに呑 まれており、抗いようがないほどに惹 かれてしまっていた。
ただ、鈍感なマリリスも一つ思うことがあった。
(この人、性格よろしくない……!)
わかりきっていたことだが、初恋として攻略するには難易度が高すぎる相手であることをまざまざと思い知らされたのだった。
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