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1 はばたき(1)
歌仙の大地は、光がしたたる春に包まれていた。
冬の間に勢いを無くしていた草木が徐々に目覚め、新しい緑が枯れ草を席巻し始める季節。
風も湿り気を帯びて、肌に優しく触れてくる。
山の奥に身を潜めていた動物たちも、少しずつ里へ姿を見せる。
玲凛にとっては、狩りの季節の到来である。
畑に種を撒き、今年の仕事を始める領民たちの間を、馬の轡をとって、彼女は今、意気揚々、家に向かっていた。
玲凛のたくましい愛馬の鞍には、太い縄がかけられ、縄の先は、車輪のついた大きな箱に結ばれていた。玲凛が自ら作ったその箱の中には、若い雄の猪が一頭、手足をきちんと畳んで収められていた。
首のあたりに、一つ、小さな傷がある。運び出す前に、血を抜いた痕だ。すっかり手慣れたものである。
獲物の箱を馬に引かせ、領内の道をゆく。
すれ違う誰もが、玲凛を知っている。
玲家息女。兄と妹の間に生まれた忌まわしき娘。
侮蔑も含まれる視線を、玲凛は鉄壁の微笑で跳ね返した。
齢十六。化粧気のない健康的な素肌、豊かな漆黒の長髪。意志の強い眼差しは、昨年他界した父によく似ていた。
女の身ながら、犀家の前当主・犀遠に武芸を仕込まれ、いまや歌仙随一の剣豪として、近隣にまで名が届く。
噂を聞きつけ、手合わせを願う者も多いが、大抵は玲凛の姿を見ると、顔を引き攣らせ、戦わずして退散した。
その理由は様々だ。
女など相手にできるか。倒したところで名がすたる。
万が一、敗れたときの言い訳がない。
それでも挑もうという者には、彼女も全力で相手をした。体格差では、玲凛に勝ち目はない。遠慮をする必要はなかった。
そうして、豪傑としての地位を駆け上っていく玲凛を、玲家の家人たちはひやひやしながら見守っていた。
やむをえぬ理由があったとはいえ、彼女は自分の家人に刃を向け、斬って捨てた前歴がある。
それも、暮らし慣れた屋敷の敷地での惨劇だった。
実力を認めつつ、しかし、一方で軽蔑する者も少なからずいる。
玲凛は一才の言い訳をせず、自分の罪は罪として背負いながら、悔いることもまた、なかった。
その強靭な精神力は、強者としての彼女の真骨頂である。
「ただ今戻りました」
まさに凛とする声で、玲仲咲は呼びかけた。
門にいた玲家の私兵が、またかと言う顔をして、玲凛に近づいてくる。
玲凛は馬の紐を解いてやりながら、箱の中を示した。
「肝は母上にあげて。あと、皮は私。それ以外はみんなで食べてちょうだい」
私兵たちは、顔を見合わせて、苦笑した。
玲凛の獲物は、毎日変わる。狐や兎ならば五匹は下らない。雄鹿を丸ごと引きずってきた日には、道中の領民たちが腰を抜かした。中には、玲凛ならば、熊も素手で仕留めるだろう、と面白がる者もいる。
玲凛が持ち込む獲物は、兵たちの馳走となる。嬉しい反面、気性の荒いこの玲家の娘に、皆、少し手を焼いている。
狩りに出るのは、いつも一人だ。供をする、と言っても足手まといだ、と断られる。実際その通りで、山の中を身軽に駆け回る玲凛についていくことは誰にもできなかった。
せめて、危ないから大きな獣は狙わないように、と注意しても、偶然狩れた、という顔をして連れてくる。
狩人としての玲凛の腕前は、一流だった。
犀家の老獪が仲咲様を変えてしまった、と嘆く優しい家人もいる。確かに犀遠と出会う前の玲凛は、周囲に気後れして覇気のない、おとなしい娘であった。それがすっかり、誰もが手こずる一騎当千の強者になったのは、犀遠の指導の賜物だ。
余計なことをしてくれた。
玲家の古参の者たちは、常々恨めしく思っている。玲凛本人はけろっとして、いつも涼しい顔で出かけて行く。
同じ年頃の友を持つこともない。唯一、燕家の娘、燕花景との交友はあるものの、特別趣向が合うというわけでもない。外見を気にして着飾ることもしない。興味の対象は、兵法書と武術の稽古、そして狩猟だ。
女は家の中にいるのが正しいとされる時代に、玲凛の存在はあまりにも異質だった。
特に玲家は、厳格な格式に縛られている。血を守るため、女は子供を産むことが第一の考えである。そこにあって玲凛は一向に馴染まない。
しかも、さらに良くないことに、母親の玲芳も、玲凛の意思を止めはしない。玲芳自身が玲家の戒めのために自由にならない生涯を送ってきたこともあってか、娘には家に縛られない生き方を許している。
そのため、玲凛はいつも、馬と一緒に方々を飛び回っていた。
馬具を外し、丁寧に体を拭いて、玲凛は手のひらから蜜と塩を与えた。
今年五歳になる玲凛の馬は、犀遠が彼女のために選んで与えた一頭だった。この牝馬は、主人の気性を恐れなかった。誰よりもよく心得ています、という顔をして、多少の荒事には動じない。
体は大きく、丈夫だった。特に関節が強く、険しい道でも、玲凛を乗せて軽快に跳ねた。
「今日もありがとう」
玲凛は馬に顔をすり寄せて、礼を言った。
玲家の家人たちは玲凛のことを大切にしてくれるが、心はどこか一人だ。玲凛にとって、本音を打ち明けられる相手はいない。唯一慕った兄の玲陽も、今は遠く都の人である。
馬の世話を済ませて、玲凛は井戸にまわった。勢いよく縄を引き、桶いっぱいの水を頭からかぶる。簪も髪もびしょ濡れになっても気にしない。川に入った犬のように首を振って、玲凛は雫を払った。その様子を眺めていた侍女たちが、呆れて立て続けにため息をついた。
「すぐに湯に行くのだから」
玲凛は笑って手を降った。凛々しい目元が、生き生きと輝いていた。玲凛が男であったら逃さない、と、懸想する侍女もいるほど、その力強い美しさは花開いていた。
この人は歌仙で収まる人ではない。ましてや、屋敷の中で一生を終わるなんてありえない。
誰もが玲凛の姿を見て、そう確信した。
若くしなやかな駿馬を思わせる玲凛の体躯は、日々力を持て余しているようだった。
湯殿で身を清め、洗いざらした淡い黄色の襦袢に、薄い桜色の袍をまとい、足袋は両手に一枚ずつぶら下げて、玲凛は裸足で回廊を歩いた。玲家の屋敷は、増築に増築を重ね、迷路のようである。幼い頃から育った玲凛が、道に迷うという事はない。それでも複雑な造りは、短気な彼女には少々まどろっこしい。
庭を突っ切ったほうが早いのに。
余計なことをして咎められても、時間がもったいない、と、早足で回廊をいく。厨房のあたりから、猪を解体する騒がしい声が聞こえてきた。
玲凛は横目でそちらを見た。
建物の陰で人の姿は見えないが、なんとなく、やりとりする様子が想像できた。
昔、犀家の屋敷に住み込んでいた時、獣をさばくのは玲凛の仕事だった。それは、生き物の体の作りを知ること、それによって、次の狩に備えることが目的だった。だが、今になって思えば、自分が仕留めた命を最後まで見届ける責任を、犀遠は教えたかったのかもしれない。
昨年の秋、逆らい難い運命に翻弄されて、自分たちは大きな転機を迎えた。
父である玲格が死に、犀遠も凄惨な最期を遂げた。
あの時期の自分は、夢の中を歩いていたような気がする。思い出すと、現実とは信じられない心地がした。
玲凛は足袋の紐をつまんで軽く振り回しながら、屋敷の奥の玲芳の部屋へ向かった。
母との心の距離は、一冬の間に、すっかり縮まっていた。
それは玲凛の努力というよりも、玲芳の歩み寄りによるところが大きかった。
玲芳の部屋の前で、彼女は足裏を払って、足袋を履いた。
「母上、失礼します」
御簾をあげ、中に入る。
今年の冬から、玲芳はこの奥の間を使うようにしている。
人の出入りが少なく、静かに過ごせるこの場所は、玲芳が心を休めるには丁度良い。
玲凛は、濡れた髪のまま。玲芳の前に足を軽く崩して座った。
玲家当主・玲芳は、娘の天真爛漫な笑顔を眺め、苦笑いする。
少し、自由にさせすぎているかしら。
玲凛の足袋の紐が雑に結ばれているのを見て、玲芳は首を振った。
「凛、きつくいうつもりはありませんけどね。もう少ししっかりしないと……」
と、少し、考えて、
「陽に嫌われますよ」
玲凛は、しゃんとした。彼女には、これが一番効く。
今更ながら、玲凛は気取った顔で、髪に手をやった。濡れた髪はどうにもならないが、繊細な手つきを装って耳の後ろに撫でつける。
玲凛は玲陽が好きだった。一緒に暮らした時期もなく、格段に親しかったわけでもない。だが、玲凛にとっては、たった一人の身内のような気がしていた。無条件で自分を受け入れてくれるのが、玲陽だった。もちろん、今は玲芳もいるが、やはり兄は特別なのだ。
玲芳も、玲凛の気持ちをよく察していた。
それが決して、兄と妹の道を踏み外さないものであるという、確信もあった。それゆえに、玲凛を手懐けるときには、決まって玲陽を引き合いに出した。
都にいる玲陽は、母が自分を利用しているなど、思いもしない。
「今日の成果はいかがでしたか?」
玲芳は明かり取りから、春霞に煙る空を見上げた。
「昨日は狸、その前は雉に兎……」
「今日は、猪です」
子供らしいあどけなさの残る笑顔で、玲凛は嬉しそうに、
「たぶん、二歳くらいだと思います。まだ肉も柔らかいし、油も少ないから、母上のお体にもいいですよ。肝は母上に、って頼んであります。酒と生姜で煮て……棗に山椒……」
嬉しそうに話す玲凛を遮ることはできず、玲芳は口元をわずかに引きつらせて聞いていた。
百歩譲って狩りは良いとしても、狙う獲物は考えて欲しかった。玲凛は母の心配に気づいた。
「大丈夫ですよ。ちゃんと、罠を使ってます。もう、崖に追い込んだりしませんから」
「そ、そう……偉いわね」
玲芳は、曖昧に褒めた。
「母上、ちゃんと召し上がってくださいね。滋養をつけないと」
滋養がつく前に、心配で倒れそうよ。
玲芳は笑って誤魔化した。
こうして、何気ない話をするとき、玲凛は無垢な笑顔を向けてくる。
かつて、玲芳はこの笑顔を見るのが辛かった。実の兄との間に生まれた玲凛に、本能的な拒絶を感じていた。愛しくないわけではなかったが、どこか恐ろしいものであるような気がしていた。そのせいで、玲凛を無意識に遠ざけ、玲陽ばかりに構った。
それでも、玲凛は母を嫌わなかった。逆に自分の血を呪い、自分の存在を蔑んだ。母親に愛されないのは、自分のせいだと幼心を傷つけた。そうしてしまったのは、玲芳の責任なのだと、彼女は自らの過去を悔やんだ。
兄・玲格の支配は、彼女には逃れ難い暴力であった。体を蝕む薬は、少しずつ心も侵していった。玲凛を産んだのも、その一端である。
それでも、娘に罪はない。
去年の秋、玲格の死という形で、ひとつのけじめがついた。
たとえ、それが人の道に反していようとも、玲凛が笑っていてくれるのだから、それでいいと、玲芳は腹をくくっている。
玲凛の笑顔を、いつまでも見ていたかった。
だが、家人たちが思っているように、玲芳もまた、娘がこの屋敷で一生を終わらない事は、よくわかっていた。
玲凛を歌仙にとじこめること。それはあまりにも惜しかった。玲凛の幸せのためだけではない。彼女の力を必要とする、多くの人々のためにも、送り出さねばならないのだ。
玲芳は、傍の朱塗りの箱から、束になった木簡を取り出した。色の薄い、美しい木目である。
「それは?」
玲凛が身を乗り出す。
ふわり、と甘い香りがした。
「この匂いは?」
「沈香ね」
玲芳は、木簡を束ねている絹糸を撫でた。糸は、淡梅に染められていた。
「わかった! 陽兄様からの文でしょう?」
玲凛が目を輝かせた。
「わざわざ、糸を染めて香りを添えるなんてこと、陽兄様しか思いつかないわよ」
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