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1 はばたき(2)

 玲凛はまるで、恋文でも受け取ったようにうっとりとしている。ついさっき、猪を引きずって帰還した猛者とは思えなかった。  玲芳は、木簡を広げ、玲凛の前に押してやった。玲凛は手をついて、それを覗き込んだ。乾ききらない髪から、雫がぽたり、と床板に落ちる。 「陽兄様の字だ」  嬉しそうな声が弾む。  玲陽からは、最近、よく文が届く。  玲芳だけではなく、犀家の家人に宛てて、多くやりとりをしているようだった。遠く離れていても、『犀陽』として、その責務を忠実に全うしていた。領地を統べる手腕など学んだことはないはずだが、そこは、勤勉な玲陽のことである。都ですでに師を得たに違いなかった。  長い間、犀家と玲家との間には確執があったが、玲陽の存在がそれを薄めつつある。  やがては、皆が忘れていくだろう。小さな出来事が積み重なり、時代は景色を変えてゆく。  玲凛は木簡に指を添えた。  ここに玲陽も触れたのだろうか、などと考えながら、丁寧に綴られた文字を読んでいく。  そこには、都での生活が落ち着いたこと、いつでも玲凛を迎える準備ができていることが示されていた。 「母上!」  玲凛が、目を輝かせた。 「わかっています」  安心させるように玲芳はうなずいた。 「あなたは、自分が生きたいように生きなさい。玲家に縛られる事はありません。あなた自身の、大切にしたいもののために、自由に……ただ、体にだけは気をつけて」  玲芳は優しく語る。  玲凛は、母の顔に、寂しさを見つけていた。  かつて、自分がいない方が、母は幸せなのではないかとさえ思っていた。今、自分がいなくなることを、母が悲しむ。それが少し、嬉しくもあった。 「都に行く前に一つ、あなたに話しておきたいことがあります」  玲芳は立ち上がると、部屋の奥へと向かう。  壁ぎわに、台座に乗せられた一振りの刀が飾られていた。  玲凛は膝をそろえた。  その一振りは、玲家に代々伝わる、宝刀である。  玲芳は、刀を手に戻ってくると、自分と玲凛との間に置いた。  玲凛は手を出さずにじっと見た。触れて良いのは当主だけである。 「これを、持っていきなさい」 「……え!」  玲凛は目を見開いた。ただでさえ大きな瞳が、くるん、とまるくなる。 「でも、これは……持ち出してはいけないはずじゃ……」 「いいのよ」  玲芳は、首を振った。 「ここにあっても何の役にも立たない。あなたが持っていたほうがいいの」  玲凛は改めて刀を見た。  戦いの中で失ってしまったが、彼女が以前に愛用していたのは、犀遠から譲り受けた大太刀だった。重量があり、一撃の威力がある。湾曲し、美しい波紋が特徴的な刀だった。  それに対し、今目の前にあるのは、彼女には少し物足りない長さで、しかも相当に古いものだ。  これ、錆びついてるんじゃないの?  怪しむ顔をした玲凛を見て、思わず、玲芳が笑った。 「あなた、まさかこれで戦うつもり?」  その言い方は、まるで少女のようだった。  玲凛が、難しい顔のまま、 「だって、刀でしょう?」 「刀だけど、人を斬るものじゃないのよ」  玲芳は柄に手をかけ、そっと引き抜いた。わずかに曇った刀身が現れた。  玲凛は顔をよせて、刀身を見た。眉間にしわが寄る。 「あれ? これ、刃がない?」 「ええ」  刀であれば、本来、鋭く磨がれている。だが、宝刀の端はわずかに丸く、実戦で使えるものではなかった。 「これじゃあ、殴ることくらいしかできないけど」 「お願いだから、そんな使い方、しないでちょうだいね……」  武器、としての価値しか考えていない娘に、玲芳は少し呆れた。 「これはね、|寿魔刀《じゅまとう》。傀儡を斬るための刀」 「傀儡……」  玲凛の顔に、さっと緊張が走った。 「残念だけれど、あなたにはきっと、必要になるものだわ」 「撲殺……」 「……その時になれば、使い方は自然にわかるでしょう」  頭痛を抑えるように、玲芳は額に指を当てた。 「それから、もう一つ。あなたは決して、宮中に入ってはいけません。いいですね?」 「…………」 「凛?」 「……その時になったら考えます」  玲芳の嘆きは、深かった。だがその深淵はこれからの期待に胸躍る玲凛には、到底、覗きえないものであった。 「魚は好きか」  誰に問うともなく、犀星がつぶやいた。  その手には、先ほど皇帝から届けられた木簡が握られている。 「魚、ですか?」  生真面目に、玲陽が首をかしげる。 「水の中で鱗が光るのを見るのは好きです」 「焼きます? 茹でます? 生って……食べたことないんですけど」  いつもより熱心に、緑権が意見を出した。 「鯉などは、薬用として重宝するな」  慈圓が、別のことを言う。  犀星は三人を順繰りに見た。  今や、|函《かん》の政治の一翼を担う五亨庵の、本気の議案はいつも唐突に始まる。  それぞれの席に座ったまま、まるで茶飲み話でもするかのように、国の大事が決まっていく。  幸いにして、頭の硬い中央の官僚たちがこの事実を知ることはない。 「兄様、どうして急にそんなことを……?」  玲陽は手にした小筆を揺らしながら、優しい目で犀星を見た。  春を迎えるあたりから、玲陽の体調は急速に回復していた。最近は剣術の稽古を再開するまでになっている。  犀星は手の中の木簡を、ひらひらと動かした。 「兄上からの命令」 「陛下が? 魚料理を作れ、って?」  小心者の緑権が、すっかりと堂々とした態度で言った。 「もう何が来ても驚きませんよ。この前は、宮中の気象記録所の計測係、その前は皇帝陛下を讃える百遍の詩、その前は……」 「思い出させるな、頭が痛くなる」  慈圓が遮った。 「私もめまいが……」  玲陽は額を抑えた。  冬の初め、五亨庵総出で宝順をやり込めたことを根に持ったのだろう。実用性のない命令が下されることが増えていた。宝順からの無理難題に、彼らはもう、動じない。  犀星はいつもの、感情の宿らない整った表情で、もう一度、丁寧に木簡の表面の文字を確認した。 「今回は、存外、面白い」  三人は、青ざめて一斉に親王へ顔を向けた。  犀星が、面白い、と判断したことが、まともだった試しがないのだ。 「都の食糧事情の改善に寄与することだ」 「それは……まっとうかもしれません」  玲陽は、意見を求めるように慈圓を見た。 「確かに、此度の冬は厳しかったゆえ、次に備えて対策は必要と思うが……」 「それで、何をしろと?」  緑権は並べた茶碗から、|碧螺春《へきらしゅん》と|白毫銀針《はくごうぎんしん》を飲み比べながら、穏やかに尋ねた。  犀星は端的に、 「紅蘭の近辺に養殖用の池を作って欲しいと。一言で言えば、魚を育てろ」 「まともですね」  緑権は碧螺春の方が好みと見えて、にんまりした。 「魚が釣り放題、食べ放題ってことでしょう?」 「完成すれば、の話だ」  慈圓が、やれやれと首を振る。 「前にも、そんな計画があったな。結局断念したが。ほら、北にある亀池、あれがその時の失敗作だ」 「私が子供の頃の話です。確か、高く売れる|鼈《すっぽん》を大量に育てようとして、他の魚が食い尽くされたんでしたっけ?」  緑権が、惜しいことをした、と苦い顔をする。 「亀池自体、正しく設計されたものではなかった。養殖の管理も流通経路も中途半端でな」  慈圓の記憶の中では、昨日の出来事のようである。 「食糧確保の目的としてはまともだが、とんでもない知識と労力……金がかかる」  しかめっ面の慈圓に、犀星は真顔で、絶望的な一言を付け足した。 「それを、五亨庵に『一任』してくれるそうだ」  突然降ってわいた魚の養殖池の話に、五亨庵はしばし水底のような沈黙に包まれた。 「一任、って……」  玲陽の頭の中で、途方もない予算がくるくる回る。  また、生活費、切り詰めなきゃ……  すでに、今夜の夕食は一品減らすことが決まっていた。琥珀の目を彷徨わせながら、 「事情はわかりました。政治的、経済的にも効果がありそうですし、人道的にも賛同できます。でも……どうして兄様の仕事になるんですか?」 「単に、陛下の嫌がらせなんじゃないですか?」  緑権は、茶請けに菜の花の胡麻和えをつまみ、|食《は》みながら、 「面倒なことは、とりあえず、五亨庵に押しつけておこうって。いかにも陛下が考えそうなことですよ」  思わず、慈圓も玲陽も苦笑した。  最近の緑権は、随分とたくましくなった。宝順の名を口にすることさえ、怯えていたのが嘘のように、不満を平気で口にする。こう見えて、したたかさもある男だから、五亨庵の外ではへりくだっているのだろうが、仲間内では遠慮がない。 「確かに、面倒ごとには違いない」  慈圓は腕を組んで、 「成功すれば、伯華様の名は高まるが、そんな好機を、あやつがわざわざ与えるとは思えんな」 「だとすると、失敗すると踏んで?」  玲陽がスッと目を細めた。口角が少し下がる。 「おそらく、な」  慈圓も不満そうに腕を組んだ。 「伯華様を、笑うつもりか、貶めるつもりか……」 「うまくいく」  犀星が、さらりと言った。皆が振り返る。  それは、強がりでも負け惜しみでもなかった。  犀星が真顔でこう言うとき、すでに、彼の中には確固とした勝算がある。  五亨庵の誰もが、それをよく知っている。  そして、その勝算を現実にするために、どれだけの無理と無茶が押し通され、自分たちの睡眠時間と体力と精神力が削られるのか、ということも、身に沁みていた。 「まぁ、兄様がそうおっしゃるなら」  玲陽はあまり気乗りがしない様子で、さらに目を細めた。犀星は穏やかに玲陽を微笑んだ。 「陽、頼りにしている」  無表情から微笑へ。それだけで、玲陽の心は溶かされてしまう。 「わかりました」  一瞬で、玲陽は陥落した。 「光理様が一緒なら、どうにかなりますね」  頼ることに抵抗のない緑権は、安心しきった顔だ。  反して、慈圓は犀星を盗み見ながら、唸って黙り込んだ。誰もが犀星の魅力に目が曇る。しかし、彼もまた、先帝の血を受けた魔性であることに違いない。毒にも薬にもなる。それを導くのが、自分の役目であると、慈圓は心得ていた。  玲陽は早速、都周辺の地図を広げた。花街の治水工事にも関わるため、地図は常に手元に置いている。  玲陽に寄ろうと立ち上がって、犀星は一瞬、動きを止めた。鋭い頭痛が額から後ろへ突き抜ける。  またか。  眉ひとつ動かさず、犀星は呼吸を整えた。  都に来た頃から、原因のわからぬ頭痛と耳鳴りに悩まされるようになっていた。てっきり、孤独感がもたらす気の病かと思ったが、玲陽と再会を果たしてもなお、それは続いていた。  玲陽の横顔を見つめ、心を鎮める。幸い、玲陽は地図を追うことに夢中で、犀星の異変には気づいていない。  余計な心配をかけたくない。  犀星はゆっくりと時間をかけて、玲陽のそばに歩んだ。  玲陽は真剣な顔で考え込みながら、 「歌仙は川も湖も多くありましたから、新鮮な淡水魚が出回っていました。でも、都は、そうはいかない……市場で見かける魚は、みんな干物ばかりです」  玲陽は地図を辿った。  紅蘭の北側に、山脈を水源とする大河・|太久江《たいくこう》がある。途中で二本に分かれ、紅蘭の西側と東側を通る。東南で、南側の別の川へとともに再び合流し東の海へと繋がっている。  あまりにも広範囲にわたるため意識されることはないが、紅蘭は川に囲まれた中州の地形だった。  犀星が花街の治水に利用していたのは、太久江から別れた西へと下る支流だった。  水量が安定しており、勾配も緩やかで手を入れやすい条件が揃っていた。  過去に失敗した亀池は、東の支流に水源を頼っていた。  このあたりは流れが早く、水量はあるものの、扱いが難しい。岩盤も硬く、一度建設すれば強固だが、掘削は難しい。

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