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1 はばたき(3)
玲陽はじっと地図を見つめていた。いつしか、犀星がその隣に立っている。片手はさりげなく玲陽の脇腹を引き寄せ、当然のような顔をして地図を覗く。いや、地図を見ているようで、玲陽を見ている。
慈圓の咳払いが聞こえた。
「もし、養殖池を作るとしたら、どのあたりが良いか」
わざとらしく、犀星はつぶやいた。自分の体勢は地図をよく見るために必要であり、決して玲陽に寄り添うことが目的ではない、と、全身で見え透いた嘘をつく。
慈圓の咳払いが、再び響いた。
「うまく地形を変えることができるなら、亀池を再利用するのが良いと思います」
言いながら、玲陽は犀星の手をはずし、下へよけた。犀星と違い、玲陽は触れられていると、どうしてもそちらにばかり気持ちが向いてしまう。仕事にならない。
「母上に送ってもらった資料の中に、養殖池の建設についても記載があったはずです。屋敷に戻ったら、調べてみます」
「うん」
うなずくふりをして、犀星が玲陽の髪に鼻を寄せる。
「兄様」
「うん」
「近いです」
「うん」
ばん、と大きな音がして、慈圓の机の上から、竹簡が床に落ちた。
「失礼」
慈圓は、いかにも偶然、という顔だが、叩きつけでもしないかぎり、そのような音は立たない。
犀星は背を伸ばし、少し横を向いた。
「玄草様」
玲陽は何事もなかったかのように、慈圓を見た。
「亀池が失敗した時の情報は、残っていますか? 原因は|鼈《すっぽん》だけではないと思うので……」
「そうだな。当時の工事日誌が秘府にあるはずだ」
「直接、作業に関わった方と、お話はできますか?」
「残念ながら、失策の責任とやらで左遷されてな」
緑権が苦い顔をした。
「やっぱり、亀池の時も、嫌がらせだったんですかね」
「それはなかろう」
慈圓は口元を撫でながら、
「当時、命じたのは蕭白であったから……ちょうど、宝順の即位との境目だった。宝順はとにかく、蕭白のすることが気に入らなかった。それで、亀池に関わったものも追放したのだろう」
とんだとばっちりだ、と慈圓は言った。玲陽は、横目で犀星を見上げた。わずかだか、苦しそうに眉が歪んでいる。
犀星にとっては、実の父と兄の話である。
玲陽は慈圓の目を盗んで、犀星の袖を引き、指先でそっと手を撫でた。ひんやりとした犀星の指が、待っていたように玲陽に絡む。ぎゅっと握られ、玲陽の胸の奥が締め付けられる。
子供のような犀星の仕草が、玲陽にはたまらなく愛おしい。
自分だけに見せるその危うげな表情に、どうしようもなく惹かれてしまう。
結局、私はこの人に弱い……
いつもこうして、最後には甘えを受け入れる自分がいた。
「ただいま戻りました!」
元気の良い声がして内扉を開かれる。
慈圓の言いつけで、秘府に木簡の返却に行っていた祥雲が、笑顔で戻ってきた。
利発そうな大きな目が、ぐるりと広間を見回す。自分が留守にしていた間に何があったか、まるでその出来事を読み取るように、勘の良い表情が動いた。
犀星は申し訳なさそうに、近侍の青年を見た。
その表情から、祥雲こと東雨は察した。
「あぁ、もしかして、すぐにまたお使いですか?」
にっこりと笑う。嫌な顔はしない。
「どんな御用で?」
「養殖池を作るために、必要な資料が欲しい」
犀星の短い要求に、東雨は合点して頷いた。
「また、面白そうなこと、始めるんですね」
「面白いって……」
慈圓は少々呆れ顔だ。
「おまえ、最近、伯華様に似てきたな」
「嬉しい! もっと褒めてください!」
東雨は以前と変わらぬ笑顔を見せた。
侍童であった東雨は、死んだ。
今の彼は、犀家の養子・犀祥雲であり、犀星の近侍である。もっとも、周囲の彼に対する態度が変わったようには見えなかった。
「秘府で、必要な資料を集めてみます。俺の判断でいいですか?」
犀星は頷いた。その顔には、安心と信頼が浮かんでいる。
「陽と行け。承親悌ならば貸し出し数も増える」
「わかりました」
東雨は、大量の資料を持ち運べるよう、大きめの籠を用意した。
玲陽は嬉しそうに筆を洗い、出かける支度をしながら、
「私、あそこ、大好きですよ」
「気持ちはわかるが、今日は資料の収集に……」
と、言いかけて、犀星は思わず口をつぐむ。玲陽のねだる眼差しに負ける。
「まぁ、ついでだから、何か見てくるといい」
慈圓は少し肩をすくめた。
やはり、伯華様は侶香の息子か……
かつて、盟友だった犀遠が、妻の話になると惚気がとまらなかったことを思い出す。
情が深いのも、考えものよ。
「玄草」
慈圓の心を知るはずもなく、犀星は仕事の話を切り出した。
「亀池周辺の土地の所有と管理者を洗い出してもらえるか。直接話を聞いてみたい」
「お任せください」
慈圓は微笑してうなずいた。
玲陽に対する感情がどうであれ、犀星の政治手腕に曇りはない。それはむしろ、慈圓の犀星に対する信頼を高めた。
緑権が、そわそわして、犀星を見た。
「私はどうしたら?」
全員が振り返り、気まずい沈黙が流れる。
誰からともなく、目を逸らした。
全員が、どんな仕事を与えるべきか、必死に考えていた。
「……とりあえず、机の周りを片付けたらどうです?」
うわずった声で東雨が言った。
緑権は自分の周囲を見回した。
「特に、散らかってはいません。いつも通りです」
「だからです」
「市場で売られている魚の調査、なんていかがでしょうか?」
子供でもできそうな使いを、玲陽が提案した。
「予算書の作成以外なら、どうにかなるかもしれん」
算術が苦手な緑権の弱みをついて、慈圓が言う。
悲しげな目で、緑権は犀星を見つめた。
犀星は表情こそ変えなかったが、指先が迷うように揺れていた。
「……魚を使った料理の献立を、できるだけ多く揃えてもらえるか」
どうにか、ひとつ、案をひねり出す。
犀星の命令の必要性は低い。だが、緑権には得意分野だ。
「わかりました。早速集めます」
パッと笑顔になる緑権に、みなが小さくため息をついた。
適材適所という言葉があるが、場合によってはどこにも当てはまらない者もいる。
東雨と玲陽が出かけていくと、五亨庵はしんと静かになった。
皆、黙々と自分の仕事をしている。
時折、料理の味を思い出して、緑権がくすくすと笑う声がする。そのほかは至って静かだ。
春のあたたかさが、日毎に強くなる。
欄間にかけてあった防寒の布は、数日前に取りはずし、風通しを良くした。
日差しはまだ弱いが、羽織る肩掛けは薄手のものにかわった。
過ごしやすい季節が訪れようとしていた。
犀星は、養殖池に関わる予算や期間、治水技術との連携、魚についての見識など、考えうるかぎりのことを書き出した。詳細は、玲陽たちが持ち帰る資料を確認してからだ。
犀星の手元には、他にも目を通さねばならない文が集まっている。
犀星は一番上の竹簡を手に取った。
端に透かし細工のある、手の込んだそれは、花街からのものだった
まもなく、年に一度の|紅花祭《こうかさい》が開かれる。犀星は近年、賓客として招待されるようになっていた。
長年の治水工事の成果で、花街の信頼を得ている犀星は、とかく歓迎された。
雪解けを祝う祭。前夜祭から本祭、後夜祭に至るまで、二日間の日程で行われる花街随一の賑わいを誇る催しだ。
犀星に届けられた招待状には、前夜祭からの出席が求められていた。
自警団が周囲の安全を確保してくれるため、街の中では近衛の同伴は必要なかった。
祭りの中心となる、花街中央の大十字路、そこに面した遊郭の二階に、犀星の席が用意されていた。部屋の中から、中央の舞台を一望することができる。
十字路に設けられる舞台では、遊郭の流派ごとに音楽と舞が披露される。
より優れた芸は、店の評判を高める宣伝効果がある。
普段、金を払わなければ眼にすることができない優雅な技が、誰しもに公開される。花街だけではなく、都中から見物客が押し寄せた。
通りは華やかに飾り付けられ、いつもは女郎が顔を覗かせる香窓には、甘味や惣菜が並び、布を張った長榻も道に用意されて、酒と料理を楽しみながら、いっときの花街の風情を楽しむ趣向となっている。
犀星が整えた水路脇の柳並木は、この祭りの装いに更なる華やかさを加えた。
初春の新緑が涼風になびき、水路の水に映えるさまは、いかにも情緒に長けた花街らしく人々を魅了する。
犀星は特に芸事に造詣が深いわけではないが、そこに参加することには意義がある。花街に生きる人々が年に一度だけ、日常をはなれ、自分たちの意思で思う存分にその技術を競い合う。それは、人が人としてあるための、大切ないとなみだ。
それに……陽に見せたい。見てほしい。
犀星は木簡を見つめながら、ひとつ、瞬きをした。
「玄草」
犀星は静かに呼びかけた。
「今年の紅花祭だが……」
「光理どのと一緒に、おでかけですな」
犀星が言うより早く、慈圓が先を読んだ。
「無論、予定は組んでありますゆえ、ご安心を」
犀星はほっと、息をついた。
「てっきり、止められるかと思っていた」
一国の親王たるもの、仲を噂される側近と花街で一夜とは恥を知れ、と。
慈圓は事務的に続けた。
「ちょうど良い時期です。光理どのにも水路の状況を視察していただきたい」
「そういうことか」
視察を兼ねることが、祭りに参加する慈圓の条件だった。犀星は目線を揺らした。
春の終わり、紅蘭には長雨の季節が来る。その時期、水の事故はどうしてもついて回る。
街を水路で区切り、治水の環境を良くしてきたとはいえ、それは主に上水道が中心であった。
生活用水であれば下水道の現状も問題ないが、雨や台風が続くと、やはり排水機能の限界を迎える。
水量の調整ばかりではなく、土砂の堆積も課題だった。
玲陽の治水に関する知識は、犀星を超える。今年は具体的な対応策が取れそうだ。
「確認していただきたい項目は、事前にお渡しいたします。お忘れなきよう。招待に応じる返事は、伯華様がお書きになりますか?」
犀星は素直に頷いた。
仕事もほかも、玲陽と共にならば望むところ。
犀星は黙々と、花街への返答を書き始めた。
静けさが、再び五亨庵を包み込む。
風が、天井近くの欄間から吹き込み、庵の中をぐるりと巡る。そして、壁と床の隙間から抜けていく。
目には見えない風の道が、かすかにきらめいているようだった。
不意に、犀星の筆が止まった。毛先が、細かく震える。
かすかに、犀星いは眉を寄せた。
ちょうど、茶を運んできた緑権が、犀星の思いつめたような表情に、目を留めた。
「伯華さま、もしかして、また頭痛と耳鳴りが?」
犀星は上目遣いに緑権を見上げた。
「謀児、このこと、陽には黙っていてくれ」
「え?」
緑権は目を見開いた。
「他意はない。ただ、心配させたくないだけだ」
「は、はい!」
緑権はどこか嬉しそうに、碧螺春の器を差し出した。
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