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2 春来たりなば(1)
秘府までの道は、陽だまりの中を歩くような楽しさがあった。
玲陽と東雨にとって、忘れられない一冬が過ぎ、春の暖かさは例年になく二人を温めてくれた。日差しばかりではない。隣を歩く人の存在が、何よりも大きかった。
偶然と必然の結末。
まるで、辛い季節に耐えた二人への贈り物であるかのように、彼らは兄と弟になった。
東雨は時々、そのことを思い出してはこっそりと微笑む。
「東雨どの?」
玲陽は、自分を見上げてにっこりと笑う東雨を、不思議そうに見た。
「なんでもありません、光理様」
東雨は明らかに、何かあるという顔である。
玲陽はなんとなくその意図がわかって、同じように笑みを浮かべた。
東雨どのは、私の弟なんですよね……
ただ並んで歩くだけでも、気恥ずかしい気がする。
どちらからも、その話題に深く触れるのを避けて、春を迎えてしまった。
「どんな資料が必要でしょうか?」
東雨は早くなる胸を抑えて、何気ないふうを装って尋ねた。
「東雨どのは、どんなものが必要だと思いますか」
玲陽が、自分に意見を求めるのは、自分で考えることを促すためだ。
意図が透けて見えて、東雨は嬉しかった。
「そうですね……まず、正確な地図が必要だと思います。それから、玄草様がおっしゃっていた過去の亀池の記録。これは絶対に大事です」
「はい。年数が経っていますから、変化している条件もあるでしょうが、学ぶところは多いと思います」
玲陽の言葉に、東雨は少し安心して、気持ちが楽になった。思いついたことを、どんどん口にする。
「それから、他の養殖池についての記載があれば、それも参考にできると思います。もちろんよその国のものでもいいですが、俺には想像もつきません」
玲陽はうなずいた。
「私もです。一度に全て集めようとすると膨大になるでしょうから、少しずつにしましょう。まずは亀池の記録と、この近隣の前例、可能であれば、似た気候の地域のものを探しましょう」
「はい、光理様」
東雨の素直さは相変わらずだ。歳はもう十八を超えたというのに、少年のようである。本人は、大人扱いしてもらえない、と憤慨するが、玲陽には、その初々しさが嬉しかった。
「堤防の作り方とか、技術的な資料は、探さなくても大丈夫ですか?」
東雨は、首を傾げた。
「一応、探してみましょう。一通りの資料は玲家から取り寄せてありますが、広く知識を得るのはよいことですし」
「でも、光理様の頭の中に、もう、全部入ってる気がします」
玲陽は少し照れた。
「私のは、ほんの少しだけです。子供の頃、兄様と一緒に山の中に池を作ってみたり、水の流れを変えて水路を走らせたりしていて」
「ずいぶん、変わった遊び方をしてたんですね」
東雨は面白がった。
「私たちにとっては、山が遊び場でしたから」
玲陽は何気なく、
「東雨どのはどんな……」
と言いかけ、慌てて黙った。東雨は、子供らしい時間を過ごしたことがない。野山はおろか、道端で遊ぶこと、子ども同士で関わることさえなかったはずだ。
玲陽の心を読んだように、東雨は首を振った。
「気を使わなくて大丈夫です。俺だって、色々楽しみはありましたよ」
その言い方は、玲陽を安心させる優しさに溢れていた。
「俺は、きれいなものを見るのが好きでした」
「きれいなもの?」
「はい。花や鳥や、空に月に……|星《ほし》……」
一瞬、声が小さくなる。それから続けて、
「あと、きれいな布が好きです」
「布、ですか? 着物ではなくて?」
玲陽は少し、首を傾げた。それは、東雨が大好きな仕草だった。
「着物もいいですけど、布の方が」
「なぜです?」
「布はいろんな使い方ができます。毛氈にしたり、何かを包んだり、どこかに掛けたり、自分で気に入るように好きにいろいろ。着物より布のままの方がいろいろなことが想像できて……それで」
玲陽は、嬉しそうに目を細めた。
東雨は気づいていなかったが、玲陽には彼の変化がよくわかった。
東雨が、自分が好きなものを堂々と語るのは、初めてだ。それは、東雨が一人の人間として、自分自身と向き合ったことの証だった。
自分の気持ちよりも優先すべきことが、幼い頃から東雨を縛り付けてきた。そこから解放され、彼はやっと自分らしくあることを許されたのだ。
玲陽には、それが心から嬉しい。
できるならば、このままのびのびと、今までの分まで幸せになって欲しいと願う。
五亨庵から秘府までの道は、明るく朗らかだ。
南を過ぎて中央との境の緑地、八穣園に入ると、芽吹き始めた草花がそこかしこに見える。殺風景だった冬の庭は、少しずつ春の装いに変わっていた。枯れ草の間から覗く黄緑の芝生が、目に鮮やかだ。
花の季節はまだ先だが、すでにあたりの空気は柔らかく、ほのかに甘い。
八穣園の西側に、池の水面が光って見えた。
「そうだ、少し見ていきませんか」
東雨が、明るい声で玲陽を誘った。
「でも、秘府へのお遣いが……」
「少しくらい、大丈夫ですよ。それに、実物を見るのも、大事です」
東雨は、楽しそうに笑いかけた。玲陽は、あっさりとその笑顔に負けた。姿はまるで違うのに、東雨の雰囲気はどこか、犀星に似ている気がした。
冬の間は閉鎖されていた池も、周囲の縄が解かれている。水はまだ冷たい。
玲陽は、丸石が並べられた池の淵にしゃがみ込んだ。
五亨庵の敷地より広い水面は、うっすらと緑に輝いていた。
ここを訪れる者たちは、水面に浮かぶ蓮の花や、その隙間を鱗を光らせて泳ぐ鯉、木陰が水に美しく揺れる様子などを楽しみにする。だが、玲陽が見ているのは、まるで違う。池そのものである。
東雨は、玲陽の隣にぴったりと寄り添って膝をついた。
こうして並んでいると、本当に兄弟みたいですね。
体温が伝わってくるようで、玲陽は目を細めた。
玲陽の視線に気づかずに、東雨は難しい顔をして、水の中を覗き込んでいた。
「この池も、造り方は亀池と同じなんですよね」
今まで見ようともしなかった池の構造に、東雨は興味を持った。五亨庵で玲陽が説明してくれたことを思い出す。
手を水に差し入れて、へりを触りながら確かめる。ただの石のように思っていたが、それは竹や木の板を合わせ、隙間を粘土で埋めたものだという。
底を覗いたが、水草が揺れるばかりである。玲陽によると、水が染み込まないよう、石や粘土で覆われているとのことだった。
東雨はふっと目線を上げて、池の向こう岸までを見渡した。
八穣園の池は十分に大きい。だが、話に出ている亀池は、この五倍以上ある。しかも今回彼らが作ろうとしているのは、さらにその倍だ。
「大きければ大きいほど、良いのでしょうか」
東雨は眉を寄せて言った。
「そうとも言い切れません」
玲陽は言葉を選んで答えた。
「大きければ効率は良いでしょうが、管理するのが大変です。池を広げるのは、管理方法を確立してからの方が良さそうですね」
「確かに。お金だって……」
東雨は、途中で口をつぐんだ。玲陽は消えた語尾の行方を想像して苦笑した。
池の周囲では、多くの女性たちが色とりどりの大きな傘の下で笑い声を立て、くつろいでいる。彼らのうちのひとりが、玲陽に気づいた。瞬く間に、話が広がったようで、揃ってこちらを見ながら、しきりに何か言い合っている。
玲陽は、気まずそうにうつむいた。
玲陽の存在は、宮中の者たちにも知れ渡っている。噂を立てらるのはやむないとしても、彼らのうちの何人かは、なぜか、自分に対して仇でも見るような目を向ける。
その理由に、一つ、心当たりがあった。
犀星だ。
犀星の元には、頻繁に恋文が届く。身分も年齢も男女も問わない。そのたびに犀星は断りの文言に苦労していた。特に、権力を持つ官僚の親族への返答には、気を遣った。最近では、返事はすべて玲陽が書いている。
「あの、東雨どの?」
玲陽は、恐る恐る訊ねた。
「兄様は、宮中の方に、特別人気があるのでしょうか?」
「え? ないですよ」
東雨はあっさりと否定した。
「みんな、若様のこと軽く見てますから。だいたい、人気があったら、こんなに予算で苦しんだりしません。援助してくれる人が現れるはずで……」
「ああ、いえ、そういう意味じゃなくて」
玲陽は言いにくそうに、
「その、ですね……恋文が……」
「ああ!」
東雨は、途端に明るい顔になった。
「そういう意味ですか」
「そういう意味で……」
玲陽の語尾が消沈する。
東雨は、しっかりと膝を抱えて座りなおした。
「人気、あります。もう、容赦ないくらい。何かの策略か攻撃なんじゃないかってくらい」
「やっぱり……」
玲陽は、息ができない、というように胸を押さえた。
「理由はいろいろだと思います」
東雨は、指折り、心当たりを並べ始めた。
「まず、外見が綺麗ですし、血筋が親王ですから申し分ない。しかも、最近は政治的な実績も上げてきていて、将来性もあります。誰もが不可能だって投げ出す仕事を、奇抜な方法で次々に解決していくところなんて、文句無しに格好いいです。まぁ、得になることはないので、誰も味方にはなってくれませんけど……立ち居振る舞いも美しくて、媚びたり下手に出ることもなく毅然としていらっしゃる。剣術の腕前も一流ですし、学問にも秀でています。芸事が不得手なのも可愛さの内ですし、若くて健康で、浮気性でもない上に、まだ妾すらいない」
これでもか、というくらいに、東雨の口から犀星への賛辞があふれてくる。玲陽の目が丸くなる。それでも東雨は止まらない。
「感情が薄いとか言われますけど、本当は誰よりも気持ちが動く人で、その優しさがあまりに深くて暖かくて、それなのに押し付けがましくなくて、包み込むみたいで安心させてくれて。不器用なくせに、ずるいくらいに甘えさせてくれて。飾らず、気取らず、素直でまっすぐで、涙もろくて傷つきやすくて。辛くても、誰かに頼るより、自分で自分を抱きしめて涙ぐんで、体を丸めて眠るような人で……もう、守って差し上げたくなっちゃって……」
途中から、玲陽の顔に呆れが浮かんでいた。
「あの、それは……宮中の皆さんの評価ではなく、東雨どのの個人的なものなのでは……」
「でも!」
東雨は頬を上気させ、玲陽を見つめた。
「光理様なら、わかってくださいますよね! 若様の魅力!」
「それは……」
ふっと、顔が赤くなるのを感じて、玲陽も膝を抱え、少し背中を丸めた。
犀星の魅力。
語り始めたら、きっと日が暮れてしまうだろう。
玲陽は胸に浮かぶ様々な面影に揺れながら、水面を見つめた。
二人並んで、奇妙な沈黙の時間が流れた。
五亨庵の二人を遠巻きに眺め、あれこれと話の種にする貴人たちを、玲陽はぼんやりと見た。
芝生に伸びる影が、少し、角度を変えて短くなった。
「東雨どの」
玲陽は、そろそろ秘府に行かねば、と思いながら、まだゆっくりしたい心持ちで、話しかけた。
「最近、体の具合はいかがですか?」
それは、一歩、心に踏み込んだ問いかけだった。
東雨は無意識に身を縮めた。
東雨の体には決して消えることのない深い傷が残されている。傷は痛みを伴うばかりか、東雨の人生そのものを変えてしまった。一命は取りとめたが、心の傷は生涯残る。それは、玲陽にも身に沁みてわかっている。
「東雨どのは我慢強いので、心配です」
その声は優しく、東雨の柔らかいところを、じんわりと温める。
玲陽はじっと東雨を見つめ、思いをはせた。
命と引き換えに身体に刻まれた、消えない傷。
触れたら痛むのに、目を背けることもできない。誰もが気遣い、言葉にしない。見なかったことにして、そのまま顔を背けて済ませてしまいたい。
しかし、傷に触れられることよりも、それを恐れて腫れ物に触るように、顔を背けられる方が辛い。
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