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2 春来たりなば(2)

 玲陽は自分の経験から、そう感じていた。  誰かが問わねばならないなら、自分がするべきだ。  東雨にも、玲陽の深い思いが伝わっていた。 「もしかして、傷が痛むのではありませんか」  玲陽の声は優しく、東雨の心を包み込んだ。  東雨は、明るくも暗くもない表情で、じっと水面を見つめていた。 「どうしてですか?」  まるで、答えを当ててみてください、と言わんばかりの、甘えた声で聞き返す。  玲陽が自分のことをしっかりと見て、寄り添おうとすることが、東雨には嬉しかった。  玲陽は静かに、 「お薬が苦手なのに、安珠様から出されたものをちゃんと欠かさずに飲んでらっしゃいます。飲みたいのではなくて、飲まずにはいられないのではないかと」 「……俺、光理様のそういうところ、好きです」  東雨は素直に、 「あまり自分のことを言うの、得意じゃないので……わかってもらえてるって思ったら、すごく安心します」  その言葉は、あまりにもいじらしく、玲陽には聞こえた。  自分を知られること。それは、間者であった東雨にとって、あってはならないことだった。だが、それを受け入れ、自分を知って欲しいと堂々と言える今の東雨は、明らかに変わりつつある。 「正直、傷は痛みます」  東雨は、水面の輝きを見ながら、 「安珠様に言われました。痛みや違和感は、ずっと残るだろうって。慣れるまで、薬は飲んでいいけれど、続けるのは体によくないから、少しずつ減らすように、って」 「そう、でしたか」  玲陽は、自分の背中の火傷を意識した。引き攣る痛みが、朝と夕に強く出る。左手の指も、天候や疲労でよく痛む。  いつしか、痛みのない体を、忘れてしまった。それは、慣れではなく、諦めに近い。 「私が仰向けに眠らないの、ご存知でしょう?」  唐突に、玲陽は言った。 「そういえば、いつも横かうつ伏せですね」  一緒に暮らす中で、東雨はごく自然に玲陽の寝姿を目にしている。 「私の背中には火傷があって、触れると痛むんです。もう、十年になります」 「…………」 「他にも、身体中に傷が残っている。私は、これが嫌で……」  東雨は、玲陽の肌の深いところを見たことはない。だが、いつも肌の透けない濃い色の着物を選び、水仕事の時も袖をまくらないのは、傷を隠すためだと察していた。 「でも、兄様が言ってくれたんです」  玲陽は、まっすぐに対岸の木々を見つめた。 「この傷は、私がその痛みを乗り越えて、打ち勝って、生きることを手に入れた証なんだ、って。だから、誇っていい、と」  東雨の目元が、泣きそうに歪んだ。しかし、唇はゆるやかに笑っていた。 「本当、若様って、そういうこと、さらっと言うの、ずるい」 「ええ、私もそう思います」  二人は顔を見合わせた。どちらにも、同じ微笑が浮かんでいた。 「東雨どの」  玲陽の声は、暖かい。 「私にできることなら、なんでも言ってください。私が苦しいとき、あなたにどれだけ助けられたかわからない。私も、あなたの力になりたいんです」  東雨は、優しく目を細めた。誰かの好意を、こんなにも素直に受け止めることができる自分が、不思議ですらあった。 「俺は、光理様を助けたなんて思っていませんけれど、遠慮なく甘えたいです」  その言葉に、玲陽は少し驚いた。それから、意味ありげな笑みを浮かべる。 「東雨どの、兄様に似てきました。そういうところ、ずるいです」  可愛らしく笑う東雨は、まだ、少年の面影だ。 「光理様は……」  東雨は、距離を測るように言葉を続けた。その頬は、羞恥と緊張でかすかに紅潮していた。 「俺の……なんですよね」  口にできない、本当は何よりも伝えたい一語が、可愛らしかった。玲陽はほころぶように笑った。 「そうですよ。だから、いくらでも甘えてください」  あっさりと認める。それがあまりにも自然で、東雨は照れた。 「……なんてお呼びしたらいいのかって」  東雨は真剣だった。  大人なのだから、兄上、と呼ぶべきか。  少し甘えて、兄様と呼んでも許されるか。  それとも、格式をもって、兄君が良いのか。  玲陽本人に相談もできず、東雨はずっと決めあぐねていた。結局、以前の通り、光理様、で通している。  実のところ、玲陽は東雨のその葛藤を察していた。そして、あえて自分からは触れなかった。  東雨が手探りしながら、自身の気持ちと向き合う時間。しかも、決して辛い選択を迫るのではなく、どこか甘くて愛おしい難問。  それは、かつて、玲陽もまた、犀星に対して抱いた迷いに似ていた。  口を結んで考えている東雨に、玲陽の透き通る声がささやく。 「東雨どののお好きなように」  玲陽の微笑みに、東雨の目が戸惑う。 「なんと呼ばれようと、私は私です」  東雨は、はっとした。  今の言葉は、そのまま自分に返ってきたものだ。  なんと呼ばれようと、自分は自分。  東雨と呼ばれようと、祥雲と呼ばれようと。  体を向けて、東雨は玲陽を見つめた。少しだけ首を伸ばして顔を近づける。玲陽は逃げもせず、逆に問いかけけるように首を傾けた。 「それじゃ……」  東雨は、ずっと考えていた呼び名に決めた。 「陽様」  一瞬、玲陽は、当てが外れた顔をした。  てっきり、兄弟の関係で呼ばれるものと思っていた。  東雨も、玲陽の不思議そうな表情の意味を理解して、ぎこちなく、 「なんだか、ずっと、悔しかったんです。若様も、涼景も、凛も、みんな、お名前を呼ぶのに、俺だけ……距離があるみたいで、さみしく……」  玲陽の顔が、やわらかくほどけた。 「ぜひ、それで」  ふわり、と東雨の前髪が春風に揺れた。 「はい! ……陽様!」  目が大きく開き、黒々とした瞳に光が宿る。  ああ、私、この笑顔にやっぱり弱い。  玲陽は、心の中で負けを認めた。  木簡の上から順に目を通し、犀星はそれぞれに応じて政策の案や返答を作成した。  政策案は一度、慈圓に預けられる。経験豊富な慈圓の意見を受け、確認を経てから五亨庵での合議に備えて、専用の箱に蓄える。同時に、補足の資料を作成し、順序立てて一束に綴ることもある。  決着がつくものは、すぐに緑権が手続きを行う。  三人の間を木簡や竹簡が行き来し、時に行方不明となったものは大抵、緑権の几案のどこかから見つかる。  それは、五亨庵で繰り返されてきた日常の風景だった。  玲陽が加わり、犀星と慈圓の仕事は格段に楽になった。玲陽は、ゆっくりだが結果が正確で、最終確認に向いていた。特に算術に強く、算木を用いなくても大抵の計算は暗算で揃えることができた。  五亨庵が担う仕事量は、決して多くはない。  だが、扱う案件の特殊性は際立っていた。  とにかく、目立たない。  他の官僚たちがやりたがらない、労力ばかりを必要とされて、名声や金に直結しないものである。  それらは大抵、犀星が自分で見つけて請け負ってくる。御前会議などで、皆が沈黙し、仕事の押し付け合いの雰囲気が生まれたとき、よろしけれこちらで、と犀星が手を挙げるのがならいになっていた。最近では、五亨庵が引き受けてくれるのではないか、と期待して黙り込む気配すらある。  犀星の選択の基準は明確で、理屈が通っているか否か、である。実現不可能な事柄を引き受けることはない。しかし、他の者がしりごみする難題であっても、勝算があると判断すれば、即決した。  最初は躊躇した慈圓も、今ではその決断力に全幅の信頼を寄せている。  こうして、他者から見れば不可能と思われるような政策を、実績としていくつも積み上げてきた。残念ながら、地味であるがゆえに話題にのぼることは少ないが、その功績は実力となって、確実に犀星の政治能力を伸ばしている。  官僚たちは、犀星を若輩者とあざ笑ってきた。しかし、その不寛容な官僚たちの行動が、結果として犀星を実力者へと育ててしまった。  慈圓には、その構図が面白くてたまらない。  そんな慈圓の胸中を知ることもなく、犀星は黙々と書面と向き合っていた。だが、今日は文字を追う速さが遅い。ときどき、目元が歪むように震えた。  まただ……  犀星は、つとめて表には出さず、息を整えた。  頭痛と耳鳴りが続いていた。  しかも、最近は頻度が増し、さらに、耳鳴りと思っていたものが様子を変えた。  それは、あきらかに、声になった。  壁板の隙間を風が吹き抜けるような微かな音で、確かに言葉となって犀星に届いた。  それはひたすらに、恨み言を呟いた。  誰かがいるわけではない。  ただ、声だけが聞こえる不気味さに、最近はよく眠れなかった。  安珠に相談してみるか。  そうも思ったが、ことを大きくして、玲陽に心配をかけたくはない。  犀星が次の木簡を手に取ったとき、内扉の軋む音がした。玲陽たちが戻るには早すぎる。 「星、いるか?」  力強い声が五亨庵の高い天井に響く。慈圓がぐっと眉間にしわを寄せる。緑権が、ついでに自分の分も、と茶の用意を始める。  言わずもがな、涼景の登場である。慈圓に向かって軽く一礼すると、そのまま中央の几案の前に座る。彼が犀星の席まで行くことはない。そっちが降りて来い、という態度だ。  犀星は黙って中央に降り、涼景の正面に腰掛けた。  涼景は、五亨庵の中を見回した。 「あいつは?」  落ち着かない様子に、犀星は微笑した。 「今、出かけている」 「そうか……」 「そんなに気になるか?」 「……少し、な」  安心したのかがっかりしたのか、わからない微妙な顔だ。涼景が気にしているのは、東雨である。 「あいつ、体調はどうなんだ?」  犀星は静かに首を横に振った。 「あの性格だから、辛くても言わないだろう。薬嫌いのくせに、安珠様からの処方薬は欠かさず飲んでいる」 「そうか……」  涼景は眉を寄せた。  東雨への私情がこぼれる涼景を見て、犀星は自然と口元が緩んだ。  何かと緊張することが多かった涼景と東雨の関係は、『東雨の死』によって確実に変化した。  五亨庵に勤めているのは、十八歳になった、祥雲という|字《あざな》の近侍である。  死亡届が受理された以上、すでに東雨はこの世にいない。それは、長い冬の果てに、運命に立ち向かった少年が勝ち得た未来だった。  その新たな人生を、誰よりも願っていたのは、涼景だった。  それがわかるからこそ、犀星は、心が和んだ。 「……なんだよ?」  涼景は、何か言いたげにこちらを見ている犀星に気づいて、ばつが悪そうにする。  犀星は微笑し、そっと視線をはずした。  涼景は小さく息をつくと、気を取り直し、抱えていた資料を机の上に広げた。文字を記した木簡や、薄布に書かれた図面もある。  犀星も表情を引き締めて、資料に向かった。  昔から、涼景は公私の切り替えが早く、仕事の話は唐突に始まる。 「まもなく夕泉親王が都に戻る」  ふっと、犀星が顔を上げた。頬がわずかに緩み、懐かしむ表情になる。  それを見て、涼景は面白くないと唇を歪めた。  もともと犀星は人嫌いだ。都に来てすぐの頃も、自分や東雨には比較的なついたが、他の者たちとは距離を置いた。  そんな中で、珍しく犀星が気に入ったのが、夕泉親王である。 「おまえは、相変わらず夕泉様に甘いな」  涼景の口調には、どこかすねたような色があった。  犀星はそれを見逃さない。にやりと笑う。 「焼きもちか、将軍」 「誰が焼くか。ただ、警戒しろと言っているだけだ」  十年間、涼景は、宮中で人を信じる危うさを説き続けてきた。それは、夕泉親王に対しても同じだった。  夕泉は、犀星の腹違いの兄であり、宝順の弟である。  温厚な性格で、政治にも権力にも固執せず、ひっそりと息を潜めるようにして宮中のすみで生きてきた。その密やかさは周囲に敵を作らず、同時に興味を持たれることもなかった。

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