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2 春来たりなば(3)
犀星は、そんな夕泉に惹かれたらしく、兄弟として信頼を寄せている。
気が緩んだ顔の犀星を、涼景は苦々しく見た。
陽に勘ぐられるぞ、と言いかけて、涼景は黙った。今はからかっている時ではない。資料に目を落とす。国の西部の地図と、連絡や指令の木簡を順に示して、
「夕泉様が冬の間、寒さを避けて紅蘭を離れていたことは知っているな?」
「ああ。|西苑《せいえん》に滞在していたのだろう?」
「そうだ。それが、こたび、戻ってくることになった」
「少し、時期が早くないか?」
犀星は首を傾げた。
「兄上の新邸宅が完成してから、お戻りになる予定だったろう?」
「そうなんだが、少し、事情があってな」
犀星が視線を動かし、思い当たったように、再び涼景を見る。
「もしかして、|胡断《こだん》の影響か?」
涼景は小さく頷いた。
「おまえは、本当に耳が早いな」
犀星の情報源は、市場だ。民の噂は、時として宮中の知らせより早い。
胡断は神出鬼没の盗賊集団である。根城は持たず、追跡と根絶は難しかった。もともとは、三年前の北方の国・|千義《ちぎ》との戦いのおり、本隊に見捨てられた騎馬民族の残党である。少数の精鋭部隊がいくつも存在し、機動力がある。停戦後も本国に戻らず国内にとどまり、火付け、強盗、人さらい、と、荒っぽく暴れ回っていた。各地の警備隊が捉えようと躍起になったが、短時間で荒らして風のように逃げ去ってしまう。旅人にとっては、大きな脅威だった。
「最近、胡断が、西苑近郊で動いていると聞いた。旅の商団も被害にあったとか。兄上は大丈夫なのか」
「今のところは」
涼景は、木簡をいくつか動かした。夕泉から送られてきた西苑近郊の状況と、帰還に向けての護衛の要請が記されている。地図の道を示して、
「街道沿いに、賊が頻出していてな。このままでは、どうしたところで衝突する。しかも、連中、ご丁寧に夕泉様を狙っての犯行声明まで出してくれた」
「兄上を人質にして、揺する気か?」
「おそらく。陛下も夕泉様を握られては、無視もできまい」
涼景の言葉には、苛立ちが混じっている。それは胡断の行いに対するものではない。宝順帝が夕泉と兄弟の繋がりを超えていることは、宮中の誰もが知るところである。それは愛情とは程遠い支配に過ぎない。そうではあっても、一度自分が手に入れたものを奪われることを、宝順が許すとは思われなかった。
「万が一、夕泉様が胡断に囚われれば、よくて隣国への売却、悪ければ殺される可能性もある」
涼景は、蛮族に関わる資料を差し出した。
「それで、夕泉様の私兵の他に、紅蘭からも援軍を送るよう、要請がきたわけだ」
「兄上の護衛ならば、左近衛の担当だろう? どうしておまえが俺にそんな話をする?」
涼景は上目遣いに犀星を見た。
面倒が起きた。
その顔は無言で告げていた。
やはりな、と犀星は腹の中で納得した。
涼景が五亨庵の扉を叩くたび、東雨が『面倒ごとを持ち込む』とぼやくのは正論だった。また、頭痛が悪化しそうだ。
「胡断は実戦慣れしている。宮中任務が主要で野戦経験のない左近衛には、荷が重い案件だ」
「正規軍を、出すのか?」
「そうなる」
涼景は、気乗りのしない顔だ。犀星は思い出しながら、
「左近衛隊長の備拓は、かつて正規軍の指揮官だったと聞く。彼が率いるのが筋だと思うが?」
「ああ。誰もが、そうなると踏んでいたのだが……」
涼景は、少々投げやりな語気で、
「夕泉様ご自身が俺を指名してきた。それに、左近衛の副長、夏史も俺を推薦した」
犀星はおし黙った。
これは、犀星なりの不服のあらわれだ。
表情はさほど変わらなくても、涼景には少しの変化でそれがわかる。長年の勘は鋭かった。
「いくら兄上のためとはいえ……」
犀星は言い淀んだが、心は決まっていた。
「おまえは俺の近衛だ。手放す気はない」
涼景の口元に、満足そうな笑みが浮かんだ。
「それが聞けただけで十分だ」
胸がすく。
涼景は目を細め、緑権が置いて行った茶を飲んだ。
「すでに宝順から、俺に幕環将軍としての直任が下りている。おまえには済まないが、しばらくは備拓様の警護下に入ってくれ」
「…………」
「なんだ? 寂しいのか?」
涼景はにやにやしながら、身を乗り出した。
「いや……」
犀星は、まったく別のことを考えていた。
「納得できないことが多すぎる」
「気になるなら言え。抱えるのは良くない」
涼景は腕を組んで、腰を据えた。犀星は西方の地図を見ながら、
「胡断はなぜ、わざわざ宣戦布告を?」
「それがあいつらのやり方だから」
涼景の返答は早い。
「そうやって警備隊を引っ張り出し、失敗させて名を落とす。単なる自己顕示欲とも取れるが、いつもの手だな」
「それにしても、親王誘拐とは、ずいぶん吹いたものだ」
「本国にも落伍者として帰るあてもない連中だ。追い詰められているのかもな」
「万が一、兄上が胡断の手に落ちれば、千義との関係もまた、悪化するな」
「そういうことだ。何がなんでも、止めねばならない」
犀星は頷いた。
「国家規模で、失敗が許されないことはわかった。だが、次に疑問なのは、兄上がなぜ、おまえを指名したか。左近衛の経験不足は否めないとして、やはり、備拓か禁軍対象の|然韋《ねんい》を抜擢するのが自然だと」
涼景は少し声を低めた。
「俺が、おまえのものだと知っているから、か」
ぴくっと犀星の眉が動いた。
「涼景、その言い方は……」
「冗談だ。単純に、備拓や然韋が嫌いか、実戦慣れしている俺を選んだだけだろう。まぁ、夕泉殿下にはそのあたりのこと、直接伺ってみるさ。俺たちの知らない何かがあるのかもしれない」
犀星は頷き、さらに考えながら、
「夏史もそれに賛同したと言ったな?」
「ああ。心にもない世辞を並べて、俺しかいない、と」
「確か以前、夏史と備拓がうまくいっていない、と言っていなかったか? もし今も改善されていないなら、わざと、備拓に恥をかかせるための言動とも取れるな」
涼景は、ばつが悪そうに横を向いた。
「それもあるかもな。夏史の場合、俺に対する嫌がらせの可能性も捨てきれないし。まぁ、純粋に、夕泉様にとって最も良い選択をした、とも考えられる。知っての通り、あの親王は『他の兄弟』に似ず、敵をつくる性格ではないから、夏史とて親身になる」
「……悪かったな」
「敵もいないが、同時に、真の味方もいない」
一瞬、犀星は言葉に詰まった。
涼景の目が、まっすぐに犀星を見る。
惚れているのか、とさえ思わせる涼景の忠誠は、犀星を複雑な気持ちにさせる。真意を問うたことはないが、触れてはならない気もした。
「真実がどうであれ、するべきことは一つ」
涼景は声を高めて、遮った。
「宝順の命令だ。従うしかない」
犀星は黙った。
「まったく……」
涼景はやれやれと首を振った。
「おかげで、然韋には、また、嫌味を言われた」
犀星も、細く長く息をはいた。
現在の禁軍大将・然韋は、涼景を毛嫌いしている。
然韋は武人としての威厳も、経験も備え、彼以外に務まる者はないであろうと言われる軍部の逸材だった。家柄も良く、学識もある。皇帝からの信用も得ている。
しかし、その一方で、ことあるごとに涼景を敵視する。
夕泉親王の護衛に伴う幕環将軍への着任。皇帝から下されたこの命令は、確実に然韋の不満を招く。その矛先は、宝順ではなく、涼景に向く。
然韋が涼景を疎む原因は、はっきりしていた。
公然の秘密、とされる、涼景と宝順との関係性である。
歌仙で暮らす妹・燕春の身に危険が及ばないよう、涼景は自らを贄とすることを選んだ。その姿勢は、然韋にとっては見苦しく、浅ましいものと見えるのだろう。
色に漬け込んで、皇帝にすがる恥知らず。
涼景にまつわる陰口は単なる噂ではなく、不幸な事実だった。
「事情はわかった」
犀星は声を抑えた。
「兄上の警護、すまないがよろしく頼む……」
「おまえが詫びることじゃない」
涼景はあえて明るく声を張った。
「久しぶりに夕泉様に会いたいだろ? すぐに会わせてやるから、大人しく待っていろ」
それでも、犀星の顔色は冴えない。まだ何かを思い詰めているようだ。
「涼景」
いつもより、丁寧に名を呼ばれて、涼景は一瞬、息を止めた。
「西苑には、慣れた者を伴え。湖馬がいい」
「俺は、一人でも……」
「連れて行ってくれ」
あまりにまっすぐな犀星の目に、涼景は口を閉ざした。
「軍事上の理由じゃない。それくらい、わかるだろう?」
おまえが心配だ。
犀星の目は、友の目だ。
「必要なら、王旨を出すぞ」
「おいおい、そこまでしなくても」
涼景は何度か頷き、表情を緩めた。
「わかった。おまえの安心のために、連れて行く」
犀星は頷いた。
五亨庵の中に秘密は無い。
涼景と犀星の会話は、全て、慈圓の耳にも筒抜けであった。
慈圓はいつも通り、良い姿勢を保っていたが、手にした筆の先は乾いていた。
涼景を、親代わりとして育ててきた慈圓である。彼が今置かれている状況は、決して看過できるものではなかった。
あまりにも敵を作りすぎた。
それは、ひとえに自身の導き方が良くなかったのではないかと、口には出さないが、思うところであった。
涼景は、早くに親を亡くし、家名と妹の命を負った。人一倍、物事に熱心で、陰で労苦を重ねてきた。周囲からは天才だともてはやされたが、その裏に血のにじむ努力があったことを、慈圓は知っている。
それゆえに、今もなお、必死に走り続けようとする愛弟子の姿が、慈圓には危うくてならない。すでに国家の重積を担う涼景にしてやれることは、その背後を守ることだけだった。
慈圓は席を立つと、中央へと階段を降りた。振り返って慈圓と顔が合うと、涼景は少し気が休まった。いつまでも慈圓は自分の師であり、父に変わる存在だ。
「留守のことは心配するな」
慈圓は笑みを浮かべた。涼景はただの警護だという言い方をしたが、事実上は戦と同じで、犀星が不安を抱くのも、慈圓が苦痛を感じるのも、至極自然なことであった。
「ご安心ください」
涼景は、まるで自分に言い聞かせるように、
「胡断討伐の命が出たわけではありません。あくまでも、夕泉様を無事に都まで護衛するのが役目ですから」
慈圓はそこに言及せず、ただじっと涼景の顔を見た。すっかりたくましくなったが、慈圓の目には幼い頃の面影が焼き付いている。
黙って見つめ合う慈圓と涼景を、犀星は静かに眺めていた。その目には、戦いへの不安とはまた違う、彼にしかわかりえない何かが潜んでいた。
夜の天輝殿には魔物が蠢く。
いつの頃からかそんな話がまことしやかに宮中に広がっていた。警備にあたる禁軍と近衛のほかに近づくものはいない。
新月の夜。
月光届かぬその日だけは、宝順の心は安らいだ。
側近を遠ざけ、石の間に座る。
灯りを求めず、闇の中にただ一人。
どれほど洗い清めても拭い去れない血と嘆きの声が染み付いた床や壁から、闇より濃い黒がにじみ出て、自分を取り殺す感覚に埋もれていく。
死ぬに死ねず、終わらせることもできない時間はひたすら、幼い心を締め上げた。
「伯華……」
時折、つぶやく、名。
その響きは、幼子が母を呼ぶのに似ていた。
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