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3 若芽の災(1)
玲陽は、中央に集まった五亨庵の全員を前に、姿勢を正した。
玲陽の隣には東雨、その正面に緑権、横に慈圓。犀星は慈圓の向こうで、玲陽から一番離れた位置に座らされていた。
これから、目下の大議題、亀池再生に向けての会議が始まる。
「では、順番に確認しましょう」
最近では、もっぱら玲陽が進行役だ。頭の中で説明を組み立てながら、ゆっくりと話し始めた。
「まず、結論から。太久江の支流・|伍江《ごこう》を使って、亀池を中心に、大型の養殖池を建設する事は、物理的に十分に可能です。新たに池を掘削するよりも、期間や労力を節約できる上、土壌の状態が池に適しています。問題はありません」
黙って、一同は頷いた。
「では、それで」
犀星がぽつり、と呟く。言葉は短くあっけないが、この一言が、五亨庵の決定だ。
玲陽はそれを受けて、話を進めた。
「具体的な建設に関わって、三つのことを煮詰める必要があります」
言いながら、几案の上の木簡を、順に示していく。東雨が覗き込む。
「堤防と池と水門?」
「はい」
玲陽は自分で作成した簡単な地図の上に、墨で染めた麻紐を、川に沿って置いた。
「この紐が、堤防を築く位置です」
「ここだけでいいんですか?」
東雨が、足りないのではないか、という顔をした。玲陽は微笑んだ。
「近年の伍江の氾濫流域を調べたところ、このあたりが流水域の西端となっています。外からはわかりにくいですが、川底が傾斜しているのではないかと。ですから、その地形も利用し、この流域だけ抑えれば、かなりの効果が上がります」
関心したように、東雨はため息をついた。玲陽は少し肩をすくめて、
「もちろん、本当はもっと広範囲にした方が安全性は上がりますが、なにぶん、先立つものが……」
と、犀星を伺う。
「まずは、それで」
やむに止まれない事情で、犀星は決断した。微かに頭が重く耳鳴りも再発するが、平気な顔を決め込んだ。
玲陽は進めた。
「では、次に池です。堤防がここまで伸びるとすると、最終的に、池本体はこのあたりまで拡張できます。亀池を取り込んでさらに広げて……」
染めていない紐で、ぐるりと池の輪郭を作る。
「大きいですね」
二倍以上になった池の面積を見て、緑権が言った。
「広い方が、魚がたくさん……育てられますね」
玲陽は苦笑した。
「もちろん、それもありますが、貯水量を上げておくことで、急な大雨や干ばつにも備えることができます」
「なるほど、養殖以外の役も兼ねる、か」
慈圓は腕を組んで頷いた。
「宝順が求めてきた以上の成果が上がれば、面白い見ものになるな」
「ここからさらに引水して、紅蘭周辺の農業用水にも使えるよう、計画しましょう」
玲陽はにっこりした。
「いいな、それで」
犀星が裁断する。
「では、次に、水門です。これが一番大変なんですけれど……」
玲陽は水門を模した木片を何ヶ所か配置した。
「段階的に水量を管理することにより、それぞれの水門への負担を軽減します。また、損傷が出た場合にも対応できるよう、一つの水脈につき、複数箇所の設置が必要です」
東雨は、初めて見る土木計画の図面に興奮気味だった。玲陽が言うと、大掛かりな工事も簡単な絵合わせ遊びのようで、わかりやすい。
「四カ所か……」
慈圓が口をひねった。
「やっぱり、本当はもっと欲しいところですが……」
玲陽の目は、予算を心配して犀星に向けられた。
じっと図面を見ていた犀星は、玲陽の手元に残っていた予備の木片へ手を伸ばした。偶然を装って、指先に触れることも忘れない。
「ここにも」
と、図面の上に置く。川の下流域で、ちょうど紅蘭の南東に位置する場所だ。
「なぜ、ここに?」
玲陽が意図を問う。犀星は少しだけ目を動かして、
「最近、このあたりに商人の宿場が立ち始めた。いずれ、大きくなる。その時、水門があれば何かと便利だ」
「水運に使える、と?」
慈圓が少し驚いて、
「伯華様、そのような情報をどちらで?」
「市場だ」
東雨が思わず微笑んだ。これが、彼が生涯尽くすと決めた主人の才覚だ。
「では、そうしましょう」
今度は、玲陽の一声で、五カ所の水門建設が決まった。
「現場を任せられる技術者が必要ですが、心当たりはありますか?」
「|八穣園《はちじょうえん》の池の設計者ならばわかるが……」
慈圓が豊富な人脈を辿った。
「宮中の池と、郊外の巨大な養殖池では、違いすぎるだろうか?」
「いいえ、基本は同じです」
玲陽は、ほっとした顔で、
「もちろん、自然の地形を利用しますから、配慮しなければならないことはありますけれど、造り自体は大きく変わりません」
玲陽は、できる限り簡潔に、言葉を選んだ。
「この一帯はもともと水はけが悪く、氾濫に悩まされていましたが、裏を返せば、水を溜めやすい土壌とも言えます」
東雨が小さく、感嘆の息を漏らした。
「なぁんだ」
緑権が大きな声を上げた。
「今までの役人連中、どうにかして農地にしようとしていたから、失敗続きだったんですね。最初から池にすればよかったのに、みんな、馬鹿だなぁ」
「おまえは何も言わなかっただろうが」
慈圓がじろりと睨んだ。
「自然に合わせる……」
犀星は静かに図面を眺めながら、
「人の手で歪めても、狂うだけか……」
「池って、どうやって掘るんですか? 私、力仕事は苦手なんですけど……」
緑権が素朴な疑問を口にした。
「そこは、適材適所で」
遠慮なく、東雨が口を挟んだ。
暗に、あなたには期待していません、という意図だが、緑権はがっかりするより安心した。玲陽はいたって丁寧だ。
「基本的には鍬を使って掘って土をどけます。そして、どけた土を周囲に積み上げて堤防を作ります」
緑権がなるほどと頷いて、
「その場で出た土をその場で利用できるってことですね」
「はい、そうなります」
「よかった。遠くまで運ばなくて済むんですね」
今度は、東雨がホッとする。ちらっと犀星を見て、
「若様が、また、荷車を引くなんて言い出したらどうしようかと思いましたよ」
そういえば、昔、そんなこともあったな。
犀星はふと懐かしく思った。玲陽はにっこりとした。
再び、緑権の質問が飛んだ。
「それで、魚は、何を育てるんですか?」
緑権の目は、何が食べられるんですか、と尋ねていた。
東雨は、宮中の池を思い出した。
「池の魚、と言えば、鯉や鮒、ですか?」
「草魚や|鰌《どじょう》も美味しいです」
緑権が加えた。
「あと、鮎もいいですね。もちろん、鼈も」
「おまえは本当に、食うことばかりだな」
慈圓は苦笑した。だが、実のところ、目的は食料資源の確保なのだから、緑権の意見は的を得ていた。
「では、それらの魚の飼育について詳しく知る者は?」
「池の管理官に、知り合いがおるが……」
すぐに、慈圓が答えた。
「食用に育てているわけではないからな。まぁ、参考程度か」
「いつもの、あの店主はどうでしょう?」
東雨が、市場でよく、干物を売っている馴染みの店を思い出した。
「生魚から、自分で買い付けている人です。よく、珍しい魚も扱ってますし、交友関係も広いみたいです。聞いてみてもいいかもしれません」
「では、そこは東雨に任せよう」
「え?」
東雨は驚いた顔で犀星を見た。
五亨庵に勤めていても、東雨の役割は犀星の身の回りの世話が中心であり、直接、政治的な仕事を与えられたことはなかった。
東雨にとっても、それは恨めしかった。忙しく働き、難しいことを話し合い、成果をあげていく犀星たちを、ただ眺める立場に、寂しさがあった。
「俺に、できるかな……」
「それを試してみるんだ」
犀星の唇が、微かに動いた。無表情のようであるが、微笑んでいるのが東雨にはわかった。心が決まる。
「俺、やります!」
晴れやかに、東雨は大きく頷いた。
会議中はいつも渋い顔をしている慈圓が、わずかに頬を緩めた。
以前から、慈圓も犀星も、東雨の才能を高く買っていた。今までは、宝順とのつながりと、侍童という立場を考慮して業務を振らなかった。だが、今は何も遠慮する必要はない。彼は近侍であり、犀星の腹心である。今後は存分に力を発揮してくれるだろう。
先が楽しみだ。
きらきらとする東雨の目を、慈圓は満足そうに眺めた。
しだいと、亀池の再建計画はしっかりと形を見せてきた。
だが、最後の難関の前に、誰もが口を閉ざした。
金銭問題である。
皇帝からは五亨庵に『一任する』と言われた。
やり方は自由にして良いと同時に、国家予算からは一文たりとも出さないということを意味している。
すべての工事にかかる材料代、人件費、流通のための投資、情報料、必要な経費のすべては、自分たちでかき集めなければならない。
玲陽は肩をすくめた。
「これ、普通のことなんでしょうか? てっきり、皇帝陛下からの勅命であれば、予算がつくものだと……」
「本来はな」
慈圓が苦笑する。
「宝順のやつ、昔から伯華様を試すようなことばかりしおる」
「ケチなんですよ」
緑権が、さらりと言ってのけた。
「伯華様なら、なんとかしてくれると思ってるんじゃないですか?」
それは、謀児様も同じでしょう?
口には出さなかったが、東雨は、にやりとした。
「花街の時は、どうしたんですか?」
玲陽が尋ねた。
「あの時は、伯華様が……」
「謀児」
説明しようとした緑権を、犀星が止めた。わずかに顔がこわばっている。
ふーん……
玲陽は目を細めた。
「とりあえず、仮の予算を出してみます。途方もない数字ですから、兄様の俸禄を切り詰めるだけでは焼け石に水ですよ」
「親王の俸禄って、そんなに少ないんですか?」
思わず、全員が緑権を見た。その視線は凍るように冷たい。
犀星は黙って、すっと、下を向いた。仕方なく、東雨が口を開いた。
「若様は直轄地をお持ちでないので、現物支給なんです。ですから、自由になるお金はほとんどありません」
どこか、開き直った口調だ。
「それでも、ちゃんと生きてます」
「東雨……」
犀星の顔が情けなく沈む。
黙していた玲陽の目が、さらに、細められた。
五亨庵の池掘りに、関わることになるとは……
蓮章は、心深くため息をついた。
相変わらず、犀星の災難は涼景を経由して、自分たちに降りかかるようにできている。
これも全て宝順のせいだ。
皇帝への逆恨みが募る。
自分が一人で、暁隊を担わなければならなくなったのは、涼景を遠方に派遣した宝順のせいだ。
五亨庵が、亀池の再工事を請け負うことになったのも、もちろん、宝順のせいだ。
それに伴って、自分が忙しい時間を割き、隊士を連れて、都の外の視察につき合わなければいけないのも、最近眠れない日が続いているのも、春にもかかわらず汗ばむほどに気温が上がっているのも、脇を流れる伍江の川底が赤黒いのも、全て、芳順が悪い。
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