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3 若芽の災(2)
蓮章は、胸の中の苛立ちを全て皇帝に押し付け、表面では涼しい顔を装った。
五亨庵は、紅蘭の南東の宿場近くに、水門の建設を予定した。当然、現地を見ることは必須となるが、涼景が不在の中、親王である犀星が、都の外まで出ることは容易ではない。
代わりに、玲陽が赴くことになったのだが、過保護な犀星が簡単に了承するわけがなかった。
護衛として、犀星の数少ない友人の中から、蓮章に白羽の矢が立った。
犀星は、蓮章と護衛の暁隊士が同行することを条件に、玲陽を送り出した。
今朝、早くに都を出て、馬の足でかれこれ二刻。目的地である宿場まで、あと一息である。
南方から紅蘭へと伸びる街道は、雪解けの名残でいたるところにぬかるみがある。そこから立ち上る泥の匂いが、気だるい空気を醸していた。
この道は古くから、南と都をつなぐ道として、商人や旅人が多く利用していた。時折、都に向かう荷車や馬の一団とすれ違う。その度に、玲陽は羨ましそうに、振り返って見送った。
蓮章はその様子を横目に、胸の中に風が吹き抜けるのを感じた。
離れなければならない寂しさは、立場も事情も超えて、同じなのかもしれない。
涼……
がらにもなく、蓮章はうら寂しさを覚えた。
親友に同行したくとも、責任を持つべきことが都には残されていた。ふたり揃って離れるわけにはいかない。
春だってのに、俺の燕はどこ行ったんだよ。
蓮章は再び、皇帝を恨んだ。
ふと、玲陽と目があう。今日の彼は、珍しく髪を結い、薄い色合いの着物をまとっている。その理由が、なんとなく蓮章には想像できた。
「おまえ、辛くないか」
「これくらいなら、大丈夫です」
玲陽がやんわりと答えたのは、遠出の疲れについてだ。
「いや、そうじゃなくてなぁ……」
蓮章は首を振って、
「その髪、自分で結ったのか?」
「え?」
玲陽はきょとんとして、それから柔らかく微笑んだ。
「いいえ、これは兄様が」
「やはり……」
蓮章の直感は当たっていた。
「それに、その簪……」
玲陽の髪紐に添えられた銀色の細工を目で指す。玲陽は頷いた。
「はい。兄様のです。お守りに、と」
「その着物も」
「はい。兄様のです。自分の代わりに、と」
これは過保護を通り過ぎて、束縛だ。
自由を旨とする蓮章には、想像するだけで重すぎる執着だった。放って置かれるのも物足りないが、ここまで絡まれても嫌になる。
玲陽は、蓮章の呆れた顔を見て、苦笑を返した。
「兄様は昔から心配性なので」
「心配しすぎだ」
蓮章はきっぱりと言った。
「俺なら耐えられないぞ。おまえは、息が詰まったりしないか?」
玲陽は、静かに首を振った。軽い髪がさらさらと揺れて、春の陽気に美しかった。
「私は、これくらいが安心できるので」
無理をしている様子はない。
「むしろ私の方が、兄様より厄介かもしれません」
静かに行手に目を向けて、玲陽は秘密のように言った。蓮章は、じっと、その金色の瞳と白い肌を見た。
昨年の冬に初めて会った時から、玲陽の印象は大きく変わった。
当時は、儚さばかりが前面に出ていた。しかし今は、柔和な中にも時折、犀星以上の強さを感じさせる。
これが本来の玲陽の姿だと蓮章は思っている。そして、玲陽を得てすっかり角が取れた犀星もまた、素顔に戻れたのだろう。
ふたりで一つに完成する、か。
羨ましさと呆れとが混ざった顔で、玲陽を眺める。
「本当にすみません」
蓮章の視線を気にして、玲陽は、今日、何度目かわからない謝罪を口にした。
「涼景様がいらっしゃらなくて忙しい時なのに、お仕事をお願いしてしまって……」
「構わない。気晴らしになる」
悪いのは全部宝順だ、と、蓮章は胸の中で繰り返した。
「それより……」
玲陽は、後ろをついてくる暁隊の隊士たちに聞こえないよう、ぎりぎりまで馬を寄せ、声を低めて、
「親王とは、どうなってるんだ?」
その声色は艶めいていて、何を聞きたいのか、玲陽にもすぐにわかった。
「どう、と言われましても……」
玲陽は少し唇を噛む。
蓮章のことは、信用している。
今更隠すこともないが、話すことも本当になかった。
「残念ながら、ご報告できるような事は何も」
「何もないということは、ないだろうに」
蓮章は、簡単には引き下がらない。
「相変わらず、一緒に眠っているんだろう? おまえの体調も良くなったことだし、季節は春だし」
春と自分たちと、どんな関係があるのか。
玲陽はこっそり首を傾げた。
蓮章は、更に体を近づけた。
「ちゃんと、やること、やってんだろうな」
「や、やることって……!」
あけすけな言い方に、玲陽の頬が震えた。
かつて、歌仙で散々な目に遭っていた玲陽にとっては、今更動揺することではない。
しかし、それと犀星とのことは、また別だ。改めて言われると、意識してしまう。
「誤解がないように、はっきり申し上げますが」
玲陽は丁重に、
「牀は共にしておりますが、言葉通りの意味です」
「言葉通りとは?」
「ですから、一つの場所で眠っているだけ……」
「体には触れるだろう」
「それは……少しは……」
玲陽の返事は、歯切れが悪い。
「少し、ねぇ」
深く知りたいと、蓮章が首を伸ばす。
「子どもじゃないんだ。添い寝だけで終わるって事はないだろ」
「それは……」
「口付けより先の話が聞きたいんだが?」
むしろ、それができないのですけど……
玲陽は、心の底で思ったが、さすがに言葉には出さなかった。
一日に何度、犀星を抱きしめて唇を重ねたいと願うか。
焦がれる想いは、犀星よりもむしろ、玲陽の方が激しかった。だが、玲陽の口付けは相手を殺す。それは、犀星に対しても同じである。叶えることのできないそのたったひとつのことが、犀星への執着を強くする。
最近では、気持ちを抑えきれず、思わず力を加減ができないことが増えていた。玲陽が震える手で粗野に触れても、犀星は黙って受け止めてくれた。それが余計に玲陽には辛い。
周りの景色は、荒地から、春蒔きの油菜の畑へと変わっていた。歌仙を思い出す懐かしい匂いが、時々強まる風に乗って届く。
日差しは白く煙るようで、肌に優しかった。
玲陽は川面に目を向けた。
太久江の支流である伍江は、北の山脈に水源を持つ大河である。養殖池に関連して、これから深く関わることになる。
きらきらと陽の光を煌めかせ、悠々と流れる伍江に、懐かしい日々の記憶が重なって見えた。
幼い頃、土地の子どもたちと一緒になって、川遊びをした。あの頃から、すでに自分の心には、犀星しかいなかったと気づく。
急に、残してきた人が恋しくなって、玲陽は手綱を強く握りしめた。襟の匂いを嗅ぐように、肩に顔を寄せる。
犀星との間には、本当に情事らしいことは何もない。
以前、一度、傀儡喰らいの消耗を補うために精を求めたが、それきりだった。触れ合うのも胸元までで、そこから先へは進まない。
「……本当に、何もないんです」
玲陽の表情から、蓮章は察してくれたらしい。
「おまえ、辛くないか?」
同じ言葉をさっきも聞いたな、と思いながら、玲陽は蓮章に目を向けた。その目元はわずかに赤い。
「……正直、辛いです」
「だったら、迫れよ。親王だって拒みはしないだろうに」
「でも……」
玲陽は言い淀んだ。蓮章は、玲陽の過去の詳細を知らない。
玲陽の体は、犀星を受け入れることはできない。交わりを求めるなら、それは犀星が受け入れる以外にない。受ける身の辛さを思い知っている玲陽には、強いることがはばかられた。
今より先の触れ合いは、そのまま抑えのきかない情動につながってしまいそうで、玲陽は踏み出せずにいた。
「何か、訳がありそうだな?」
肯定するように、玲陽は蓮章を見つめた。
蓮章が色ごとに通じていることは、何かと耳に入っている。何かと相談してみるのもいいかもしれない。
玲陽の目は、蓮章が戸惑うほどに真剣だった。
「あの、蓮章様」
「うん?」
「いえ……昼間の街道で、仕事に向かう途中にする話ではないので」
玲陽が、また改めて、と思った時、護衛の隊士がひとり、ふたりを追い抜いて先へ出た。
「梨花、妙だ」
大柄なその男は少し先で、蓮章を振り返った。古参の隊士のひとり、|旦次(だんじ)である。涼景も一目置く、古株の豪傑だった。
「どうした?」
蓮章は、旦次を数歩、追いかけた。
「これ、見てみろ」
旦次は足元の土を指差した。
ぬかるんだ土が、酷く乱れ、宿場町へと続いていた。
「馬の蹄の跡ですね」
玲陽は旦次を見た。
「ああ。随分急いでいる。まだ新しい」
蓮章と三人で、顔を見合わせる。
商人が馬を使うことはあるが、荷運びをするのにこれほど走らせるとは考えにくい。
「数も多い。少なく見積もっても、十はくだらないだろう」
旦次の見立ては的確だ。蓮章と玲陽が、緊張して目配せをする。先ほどまで、口付けだの添い寝だのと話していたのが嘘のよう鋭かった。
「最悪、盗賊の類が通ったと考えるべきだな」
旦次は行く手の宿場を睨みつけた。
「盗賊……馬……」
玲陽は事前に聞いていた情報を思い出した。
三年前の北の国・千義との戦い。その際、本国の軍に裏切られ、函に取り残された部隊があった。停戦後、隊は散り散りになり、一部は野盗と化した。それが、神出希没の盗賊として恐れられる、現在の胡断である。
もともと訓練を受けた騎馬隊が核である彼らは、統率の取れた動きで、素早く村や町を襲い、短時間で全てをさらってゆく脅威だった。
「まずいな」
蓮章が形の良い眉目を、厳しく歪めた。
「宿場には金目のものは少ないが、人だけはいる」
「奴らは、人さらいもやるんだろ」
旦次は、やれやれと首を振って、
「光理、あんたはここで待ってろ。俺が様子を見てくる」
「いえ、私も行きます」
玲陽は腰の太刀を意識した。最近では、犀星に引けを取らないところまで回復していた。
「よしてくれ」
旦次は遠慮なく遮った。
「あんたに何かあったら、俺たちは皆殺しだ」
犀星の顔がちらつき、玲陽は言い返せなかった。いかに暁隊といえども、犀星を敵に回して、生き残れる保証は無い。いや、むしろ誰にもない。
「陽、他の者たちと一緒に待っていろ」
蓮章は旦次と共に町へと駆けて行く。
背後に控えていた三騎の隊士が、不満もあらわに玲陽のそばに寄ってきた。
「光理、どうする?」
玲陽は考え込んだ。彼らはみな、おとなしく待つ性格ではない。
「そりゃ、あんたも守らなきゃならないが、梨花の身に何か起きたら、隊長に合わせる顔がない」
「子どもの散歩じゃないんだ。ただの留守番なんてつまらねぇ」
「旦次のやつ、いつも手柄を独り占めにしやがる」
もともと暁隊に、統率や協調という精神はない。個人が自由な意思の元に動くだけである。
「でも、動くなと言われてしまいましたし……」
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