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4 見えざる手(1)

 西苑は、紅蘭から南西に、馬でおよそ二十日の行程の先にある。  周囲をゆるやかな山々と丘陵に囲まれ、風も弱い窪地の底だ。冬場でも氷点下になる日は少なかった。湖に面しており、空気は潤って肌に優しい。  体の弱い夕泉が、毎年、避寒に訪れる地だった。  もともとは、母方・夕家の領地である。一族の流れを汲む住人も多く、親王が訪れる時期には、場所を騒がせてはならないという静かな配慮に満ちている。  現在は夕泉個人の領地として、外部からの監視や命令が少なく、閉じすぎず開きすぎない曖昧な空気がある。それはどこか、夕泉個人の性格にも似ていた。  西苑の南、湖をのぞむ高台に、冬季間にだけ夕泉が過ごす離宮があった。  寝所から凪いだ水面が見え、庭には竹と白梅が揺れる、風情あるたたずまいだ。  中庭に野菜畑を構える犀星の住まいとは、雲泥の差である。  湖は山麓の湧水を端に、細い川となって盆地の端をめぐり、やがては太久江へとつながっている。静かな水辺はこの土地の民にとって、心休まる憩いの地であった。  夕泉もそれを大切にし、人々が休めるよう、川岸の景観に配慮していた。  普段は都に暮らし、故郷から離れていようとも、夕家出身の穏やかな親王は、この地の人々の自慢であり、誇りだった。温厚な性格は人々にも知れ渡り、姿を見かければ、誰もが笑顔で頭を下げた。夕泉もまた、静かな笑みでそれに応じた。  かくして、西苑は静かな西の都として、独立した気風をまとっていた。  大袈裟なことを好まない夕泉は、わずか十余名の私兵を身辺に置くだけであった。  涼景は正規軍およそ五百と共に、西苑の町の外に天幕を張り、胡断の襲撃に備えた。さらに、百名を伴って町に入ると、直接、離宮の警備についた。  すぐに面会を申し出たが、やんわりと断られた。何事かと、正規軍の副長は腹を立てたが、夕泉の意図はまったく別にあった。  都からの長旅、その疲れもあるだろうからと、湯を勧められ、さらには全員に夕餉までが振る舞われたのだ。  副長以下正規軍の兵たちは喜んだが、涼景は感謝するより、警戒した。  これが宝順であれば、湯には酸が混ぜられ、食事には毒が盛られ、酒には睡眠薬が仕込まれているに違いない。  長年、それが常識と教え込まれていた涼景は慎重だった。  だが、夕泉には宝順のような悪趣味はなく、涼景も、礼を失しない程度には口をつけた。勿論、こっそりと毒味することは忘れない。  夕泉の気性は、あらかじめ備拓から聞いていたが、実際に体験すると、宝順とのあまりの差に気後れすらする。  屋敷の者たちも、突然の多くの来訪者に嫌な顔一つせず、夕泉の私兵も警備の計画に協力的だった。  どうにも、涼景には居心地が悪い。  本来、このような対応が正式であり、礼儀を重んじたものと知りつつも落ち着かない。  夕刻、涼景は湖馬だけをつれて、夕泉が用意した謁見の間に面会に向かった。  色づいた光が優しく差し込む、南西向きの一室に通される。広すぎず、数歩で触れ合うほどのつつましい部屋は、夕泉の気質にあっているように思われた。香の香りも控えめで、主張することがない。隅の行灯にはすでに火が灯されていた。黒塗りの几案の上に、銅製の水差し、簡素な白磁の花器には、ほころびはじめた白梅のひと枝。  親王本来の優美さとは、こういうものを言うのだろう。同じ蕭白帝の血を継ぎながら、どうしたら、ここまで違う人間になれるというのか。  涼景は、よく知る兄や弟と比較し、夕泉の穏やかさにため息がでた。 「隊長」  呆然と部屋を見回していた湖馬が、 「親王って、こんなに優雅なものなんですか?」  涼景は返答に窮した。  夕泉が特別なのか、五亨庵が特別なのか、どちらを答えることが正解だろうか。  はぐらかすように視線を転じると、細く開けられた戸の向こうから、夕日に色づく湖面が覗かれた。 「この湖、太久江につながっているんですよね?」  湖馬が、懐かしむように言う。 「ああ」  涼景も体をそちらに向けた。 「太久江は大陸の西から多くの支流を集めて、東海に注ぐ。まさに、この国の大動脈と言えるな」  湖馬は聞きながら、少し、不安そうな表情を見せた。 「でも、隊長」  将軍、と呼ぶべきところを、湖馬はいつもの調子でそう呼んだ。 「五年前、北の千義が攻めてきた時、あの川は激戦地帯になったんですよね?」  涼景は少し顔を伏せた。 「ちょうど、国境を越えて、川の対岸まで攻め込まれたからな。惨状は俺も見ている」 「隊長は最初から?」 「いや、俺が参戦したのは三年前だ。泥沼化していた戦いを終わらせるために」  それは、軍人としては誉れのはずだ。しかし、涼景の表情は暗い。 「あの景色を、忘れたことはない」 「……あれ以来、太久江はあまり良い噂を聞かなくなりました」  控えめに、しかし、湖馬らしく言いたいことははっきりと、言葉にした。 「夜な夜な、川岸を死体が歩くとか、得体の知れない青い火が揺れているとか…」 「唸り声に、恨み声。支流にまで骨や臓物が流れてくるとう話もあるな」  あっさりと、涼景は話をつなげた。湖馬は面食らいながら、 「隊長、平気なんですか?」 「俺は、そういうのは信用しないたちでな。むしろ、生きている人間の方が恐ろしい」 「はぁ」 「しかし……」  涼景は思案した。  そんな不吉な噂が尽きない太久江の支流に、亀池があるのだ。宝順がそれを五亨庵に任せたのは、たんなる政治的な嫌がらせだけではないとも思われた。  どこまで性格が悪いのだ、あの皇帝は。  涼景は不機嫌に息を吐いた。  湖馬はその様子を横目に見ながら、行儀良く、涼景の隣に座り直した。  時が緩やかに移り、部屋の色が変わってくる。  やがて、奥の帳が揺れて、夕泉が姿を現した。  ふたりは、視線が合わぬよう、目を伏せた。  するすると衣擦れがする。その音から、薄い着物を重ね着している様子が察せられた。  夕泉が腰を下ろしたことを確認して、涼景はわずかに目を上げた。  銀糸のぼかし刺繍が入った、白い長衣が視界に見えた。裾は緩やかに黒い床板の上に広がり、しわがよって波打つさまも美しい。淡い金に近い灰桜色の帯に、翡翠の玉飾りが小さく揺れている。控えめだが、夕日と炎のゆらめきのなかで、幻想的な情緒を放っている。  肩掛けの灰青が、懐かしい色合いで涼景の目にそっと触れた。長い黒髪が背中から肩に広がり、毛先は柔らかく透けるような印象があった。  膝の上に重ねた手は、浅く開かれた扇にそえられている。扇には薄墨の雲紋が描かれ、香木を使っているとみえて、ほのかに香る。  湖馬は、初めて見る『親王らしい親王』の姿に、落ち着きなく体をゆすった。夕泉の警護は左近衛の管轄のため、今まで湖馬が直接接する機会はなかった。  涼景は深く礼をし、正しく挨拶を済ませると、すぐに警備の話を始めた。  都への帰還路、経由する宿場、所持品の確認、有事の際の連携、留守中の離宮の管理。一通りの伝え終えて、ようやく、涼景は一息をついた。説明をしたと言っても、実際には秘密にしている部分も多い。安全上、予定を知るものは少ないほど良いのだ。 「取り急ぎ、明日、早朝には出立を」  最後に、涼景は刻限を告げた。  終始、夕泉は黙って話を聞いていた。相槌をうつでもなく、問うでもない。ただ、時が過ぎるのを待っているだけのようだ。  それが、涼景には逆に落ち着かなかった。まるで、人形を相手にしているようである。  こんなことなら、感情を揺さぶってくる宝順の方がましかもしれない。  涼景には、夕泉の透明感が不気味ですらあった。静かに言葉がかけられる時を待つ。下がって良い、と言われれば、それで終わる。  夕方の光は遠のき、部屋の中には炎の影が揺れるばかり。 「あい、わかった」  細い声が、ようやく、響いた。  やっと、か。  涼景は一礼して退席しようと動いた。 「すまぬが、時をくれませぬか?」  突然、夕泉が涼景を呼び止めた。すっと気配が動いて、湖馬に向いたのがわかった。 「そなたは下がっておくれ。暁どのと二人で、話がしたいのです」  何か言いたそうに湖馬は涼景を見た。涼景は小さく頷いた。 「先に戻ってくれ」 「……はい」  何度か振り返りながら、湖馬はしぶしぶと隣室に下がった。 「暁どの」  湖馬の気配が消えると、夕泉は待ちかねたように膝を寄せて、身を乗り出した。 「伯華は、いかに過ごしておりましょうや?」  その声は、柔らかく、絹糸をより合わせた薄い帯のように、耳に触れた。 「昨年、気鬱に沈み、私とも会ってはくれませなんだ。気がかりでたまりませぬ。そなたは誰より、伯華のそばにいたはず。あの方は息災にしておりましょうや?」  先ほどまでの沈黙が嘘のように、夕泉は不安を滲ませて問いただした。  これが聞きたくて、自分を残したのか。  涼景はわずかに緊張が解ける。夕泉の声色にあわせて、自然と静かな口調になる。 「ご安心ください、殿下。歌仙様は、今は寛解のご様子にございます」  涼景は自らも懐かしみながら、 「あいも変わらず、難題をものともせぬ見事な活躍ぶり。ぜひ、都にて、お声をおかけください」  ほっと、夕泉の気配が緩んだ。 「ぜひ、そのようにいたしましょう」  涼景はぎりぎりまで、視線を上げた。広い袖から、青白い肌が覗く。気持ちを落ち着けたのか、夕泉の姿勢がわずかに改まる。 「そなたには、手間を取らせました。本来ならば、左近衛に委ねるべきところなるものを」 「全ては陛下の御心にございますれば、殿下がお気を患うことはございません」 「そなたの忠義の深さ、心より感謝いたしましょう」  夕泉はいたって穏やかだった。  似ても似つかないな。  涼景は、宝順とも犀星とも違う夕泉の気性に驚いてばかりだ。  声はつねにしとやかで、言葉も丁寧に、こちらを気遣っている。  宝順に逆らうこともなく、犀星には慈愛の心で接し、敵を作らず、同時に迎合もせず。  まるで、世捨て人のように忍んで過ごす夕泉は、第一皇位継承者でありながら、あまりに影が薄かった。  備拓から事前に聞いた話では、黙って指示に従う扱いやすい警護対象、とのことだった。  あのふたりに比べたら、相当に楽だろうよ。  涼景は改めて、自分が背負う苦労を思い知った。  夕泉はじっと涼景を見ていた。  顔の下半分を、細い紐を垂らしたすだれの|面纱《めんしゃ》で隠し、目元がわずかに覗かれるだけだ。 「暁殿は、千義との戦いに参戦されたと伺っております」  涼景の心が小さな波を立てる。先ほど、湖馬とその話をしたばかりでる。  そういえば……  事前に備拓から聞いた話を思い出す。  夕泉は信心深く、また、命なき者を恐れる性質であるという。そのせいもあってか、屋敷に閉じこもることが多いのだそうだ。 「私が参戦しましたのは、ちょうど終戦の折にございます」  涼景は事務的に答えた。いたずらに不安を煽る必要はない。 「戦も三年の間に混迷を極めており、どちらも引くに引けず、厳しい情勢にありました」 「犠牲者も……」 「はい。公式で報告があるだけで、千義が一万二千、我が軍が八千と」 「悲しいものぞ……」  夕日を移して夕泉の着物は血がにじむようだった。涼景は静かに、 「北の大地は冬は厳しく、作物も不足する環境。さらに北方からの侵略もあり、間に挟まれ、やむなく、生きるための南下であったのでしょう」 「それを止めてくれたのが、暁殿であったな」  涼景は首を横に振った。 「戦の顛末は一人の人間では決まりません。両陣営に賢人があればこそにございます。北にかしこき将がおり、我が国に歌仙様がいらっしゃったからかと」 「伯華……」  つぶやいた夕泉の声は、どこか遠くへと向けられていた。 「あの時、伯華自らが国境を訪れ、直接和平交渉を進めたと。その功がどれだけの命を救いたもうたか……」  今はもう、黒く墨のように見える湖を、夕泉は見つめた。 「この水の流れる先に都があり、この水の行き着く先で、伯華もその流れに手を浸すのでありましょうな」  それは詩的であり、同時に祈りでもあるように聞こえた。  夕泉の犀星に対する想いは深い。そこには、離れて育った弟に対するものとは割り切れない、別の何かが秘められていた。それが、涼景の胸を騒がせる。

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