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4 見えざる手(2)
たとえどのように見え方が違おうとも、夕泉は紛れもなく、宝順の弟である。さらに、二人は体を通いあう仲である。
危ない。
涼景の、犀星を守る意思が強固になる。
強まれば強まるほどに、自分が犀星の元を離れたことが悔やまれる。自分を手放したくないと言ってくれた犀星の言葉が耳に蘇り、じんわりと心を締め付けた。
涼景は深く頭を下げた。
「殿下、明日からは長旅となりますゆえ、今宵は早くおやすみ下さい」
夕泉はしばし、沈黙した。
部屋に灯された二つの油灯の火が、しんとして動かない。
「……陛下は……兄上様は、お変わりなく……いらっしゃいましょうや」
涼景は瞬きした。
話題が飛んだ?
だが、答えないわけにはいかない。
「はい。陛下のご威光は変わりなく、なお、盛んにございます」
傍若無人で手に負えん。
本音を立て前で包み隠し、涼景は答えた。
夕泉はそっと、扇子を開いて口元に当てた。面纱の細い飾り紐が、煽られてゆらりとする。白檀が漂う。
「そなた、最後の陛下へのお目通りはいつのことでありましょうや?」
「こちらに出立する、前日にございます」
なぜそのようなことを聞く?
涼景は訝しんだ。不意に、嫌な予感がよぎった。
おとなしそうに見えて、やはり兄と同じ血が流れている毒々しさの片鱗が見えた気がした。
夕泉は、すっと目を細めた。
「どちらで?」
涼景は息を殺した。
「……天輝殿にございます」
かろうじて、答える。
ついに、夕泉の質問の意図が、はっきりとわかった。
夕泉は、皇帝に最後に会った日を尋ねているのではない。最後に抱かれた日を問うている。
「……石の間、かの?」
涼景の気づきを裏付ける、夕泉の一言。
涼景はゾッとした。
何が言いたい? 何を言わせたい?
情けのありようについて、涼景は疎い。
だが、夕泉が何らかの情念を抱いて湖馬を下がらせ、二人になったことだけは確かだった。
涼景が犀星の近衛として付き従う現実と、夕泉が抱える犀星に対する執着。
涼景が宝順に身を求められる現実と、夕泉が抱える宝順に対する情炎。
それらが、夕泉に何らかの行動を引き起こすとしたら……
涼景は、腰の太刀を意識した。
ここで殺されるわけにはいかない。
夕泉を斬ることは容易い。だが、それは犀星や燕春をも巻き込んで、大切なものをすべて失うことになるだろう。
不意に、都を発つ自分を追ってきた、東雨の顔が蘇った。まだ冷える早朝に、憎まれ口を叩きつつ、優しい手が差し出した、餅米と干し棗の暖かさ。
守るべきものが多過ぎる。
腹を括る。
涼景は、刀に伸びかけた手を止めた。
涼景の葛藤をどうとらえたのか、夕泉は、ぱちん、と音を立てて扇を閉じた。
「暁どのが羨ましい」
夕泉の声は今までになく、冷めていた。
「そなたは、わたくしが望むものを全てお持ちだ」
「…………」
ふっと部屋の空気が揺れ、夕泉は身を乗り出した。涼景は反射的にのけ反る。まともに夕泉と目が合った。
「なっ……」
黒く澄んだ目が、まっすぐに自分に覆い被さった。
本能的に、涼景の体が跳ねのけようと動いた。だが、心が逆らうことを恐れた。涼景が自分を傷つけられないことは、夕泉も承知の上である。細身だが、身長のある夕泉の身体は、想像以上に重くのしかかった。
「殿下っ!」
そう呼ぶのが、涼景の精一杯だ。
殺せぬ以上、逃げるしかない。
夕泉の肩に手のひらを当てて、押し返そうと力を込めた。と、首に手がかけられた。振り解こうと手首を掴む。
体をまわして逃れるはずが、あてがはずれた。
首を絞められると覚悟していた涼景の、わずかな誤算。想定を超えた夕泉の動きに、間合いが崩れる。
唇に、硬さと柔らかさが同時に触れた。驚きに、動きが止まる。分け入るように夕泉の唇が面纱の紐をよけて、涼景に食いついた。口を塞がれ、息が凍った。
何だ、これは!
てっきり、殺されるものと思っていた涼景は、あまりの状況に頭が混乱した。
戦場で敵の攻撃を避けるのとは訳が違う。むしろ、体に触れられると逆らえない性を、宝順に刻み付けられている。動けぬまま、目だけが動揺に激しく揺らぐ。
震えるだけで抵抗しないことを確かめ、夕泉は顔を離した。何か言わねばと思ったが、涼景は言葉が出なかった。
夕泉は、長い指で涼景の右頬の十字傷を辿った。
「兄上様の所有の証。妬ましいことよの」
涼景の混乱が激しくなる。夕泉の言う意味が理解できなかった。
確かに、涼景の頬の傷は、宝順の陵辱に伴ってつけられたものだった。だが、それを妬むとはいかなることか。
「この肌に、兄上様は触れたもうたか?」
答えを求めず、ただ、問うだけの夕泉のつぶやきに、涼景は背筋が冷えた。吸い付くように涼景の肌を見つめ、着物の下に手を滑らせる。
命を狙われ、その場から逃げるための抵抗ならば、弁明のしようもある。
だが、親王の立場にあるものに身を求められ、拒むことは許されなかった。
夕泉の手が、ゆっくりと涼景の帯にかかる。
直裾の腰が解かれ、下の中衣に手が伸びる。
「触れたもうたのであろう?」
夕泉は、情に溺れるでもなく、静かに言った。
褌の結び目が緩められ、隙間を指が押し広げる。
涼景は顔を背け、その感触から心を遠ざけようと目を閉じた。慰めに慣らされている体が一瞬で火照り、全身に汗が滲んだ。すでに自身のたぎりの予兆があった。それが涼景の心をさらに絶望に追い詰める。
戦場でさえ自由になる自分の身体が、ことごとく心を裏切っていく。
夕泉が求めているのは、涼景ではない。この親王の眼は、涼景を抱いた宝順の影を見ているのだ。その幻を慈しむように、肌を撫であげ、広げた舌が這う。そのさまは、まるで犬のようで、涼景はゾッと鳥肌が立った。
「ここに……」
腰が捻られ、床との間で音を立てた刀が鞘ごと外された。思わず取り戻そうと手を伸ばした。抜くことのできない刀の鞘を握りしめ、その確かな手応えを頼りに、心を保つ。
夕泉には、自分を殺すつもりはない。
ただ、恋しくてたまらない宝順を感じたいだけなのだ。
……このように……など……
涼景はただひたすらに、おのれの惨めを思い知る。
尻のあわいを、硬いものがゆるゆると伝った。それが、夕泉の扇の要と察して、涼景はさらに心をこわばらせた。
「ここに、兄上様を受け入れたもうた……」
それはもはや、問いですらない。
「お待ちを、殿下……!」
拒もうにも、所詮は時を稼ぐことしかできないことは、よくわかっていた。
耐えがたい感触で、熱が伝わる。涼景を涼景と思わず、愛しい宝順であると思えばこその、その狂気。
何が、優美でおとなしい親王だ? 心が捻じれた怪物じゃないか。
涼景は冷めた心で悪態をついた。
夕泉の舌先が後ろを探り、吸い付いてくる。あまりに気味の悪い肌感覚に、胸がむかついてうめきが漏れた。
その肌は粘りついて、触れられた場所にねっとりと熱がうつる。さらに汗が浮く。
「兄上様……私も……ともに……」
冗談ではない!
涼景は心で叫び、顔を歪めた。
宝順と、夕泉と。
その両者にことごとく……!
いかに臣下の身といえども、受け入れ難い。
それだけではない。腹違いとはいえ、彼らは親友の実の兄だ。
悪夢以外の何ものでもなかった。
夕泉の想いは自分を飛び越えて、幻想の宝順を抱いている。
どうして自分が、狂った二人の間で弄ばれなければならないのか。
「……殿下」
涼景は、必死に声を絞り出した。
「お戯れは、およしください。かようなこと、陛下とてお望みには……」
……いや。
絶望的なほど、涼景は皇帝の趣向を理解していた。
宝順ならば、むしろ楽しむに違いない。
涼景に自分を重ねて抱く夕泉を、宝順は愉悦の表情で眺めて笑うだろう。
最悪だ……
自嘲が浮いた涼景の顔が、今一度、緊張にこわばった。
夕泉の扇が、深くをまさぐっていた。扇の要の感触。そして、熱。両側に押し開かれ、探り当てた菊花にあてがい、ゆっくりと穿つ。
「……っ! あっ!」
何の準備もないまま、苛烈な痛みが走る。引き剥がし、深く。涼景の内側に、瞬く間に血が滲んだ。じわり、と潤んだ中が、夕泉を包み込む。
「良い、|塩梅《あんばい》……」
まるで、花の開花を愛でるように、夕泉は口にした。
狂っている。
欲望に任せた辱めの方が、まだ理解もできる。だが、夕泉の行為には、その情すらない。体は張り詰め、容赦無く涼景を翻弄するが、その心は自分に向いてはいない。
一刻も早く、宝順に触れたい。
その想いが、宝順とつながる涼景と結びついた。
こんなことのために、大切な犀星を残し、蓮章に責任を負わせ、東雨にあのような顔をさせてまで、ここまで来たというのか。
滑稽だ。あまりに……
体だけが疾り、思考はどこか他人事のように冷ややかだった。
「兄上様……」
繰り返されるその譫言は、涼景が押さえた喘ぎの間を縫って、いやがおうにも耳に届いた。
「兄上様……」
勘弁してくれ。
されるに任せ、涼景は顔を伏せ、耳をふさいで、ひたすら耐え忍んだ。
腹の奥に自分ではない存在を感じ、壊されないよう、力を抜く。少しでも楽になろうと自ら体を傾けた。
こうまでして受け入れねばならない情けなさと、屈辱。
宝順に飼い慣らされた身体は、喜悦に震えた。反して、単なる道具として使われる感覚は、思考をより冷たく冴えさせる。
ひやりとした夕泉の肌が背中に触れて、まるで死体に抱かれる不気味さがあった。それでも、享楽を教え込まれた身体の奥から、徐々に抑えがたい脈動と快感が這い出してくる。
体が、心を裏切る瞬間。
それはどこまでも、孤独ないただきにいざなう。
血が泡立つ音が、体内から聞こえた。強いしびれが走るたび、下肢がびくりと震えて腰が浮く。制御できない身体は、まるで別の生き物のようで、抗う意思さえ無意味だった。
夕泉の動きはあまりにゆっくりと、ひたすらに重かった。腰に絡みついたままの中衣に擦れて、涼景のものがじんわりと先を濡らす。
現実感を失うほどに高まる肉体と、真逆に凍りつく心。冷静さは、涼景の絶望を煽るだけだ。体と精神の分離は、長年かけて宝順が涼景に施した呪いだった。
深部から湧き出る呻き声。その他に、涼景には発するべきものはなかった。喉が乾いて引き攣っても、惨めな声が間断なく溢れる。
今はただ、過ぎ去るのを待つだけだ。
「そなた……」
痺れた聴覚のはるか向こうから、夕泉の呼びかけが聞こえた。
「伯華とも、まじわっているのであろう?」
伯華……
やけに、美しい名だ。涼景は場違いな気がした。
夕泉が涼景を押し上げ、深みに触れる。その痛みに、涼景の顔が更に歪んでゆく。
後ろから、変わらずに穏やかな夕泉の声が降る。
「さすがは、暁どの。皇家の兄弟に尽くすとは、臣の鑑というべきかな」
……違う。
涼景は目を見開いた。
星は……星だけは……
魂が震える。手放していた肉体にまで届く、激しい怒りだった。
……おまえたちと同じと思うな!
涼景は振り返った。自分を見下ろす夕泉の目を、眼差しで射抜く。
だが、次の瞬間、意識は弾け飛んだ。
肉体の限界だったのか、精神の果てか。
そこでぷつりと何かが切れた。
下腹部が、前も後ろも弾けて燃え上がり、体の震えが、心を飲み込んだ。
目の前が闇に沈み、ただ、視覚以外がやたらと鋭敏で、油灯の火に揺れる空気の流れまでが感じ取れるようだ。全身を駆け抜ける激震は、快感と同義だった。
大切な何かを守りきれなかった敗北感が、考える気力さえ奪う。
高みから叩き落とされ、脱力したままに伏しているさまは、稀代の将軍とは思われず、弱々しかった。
甘い吐息が涼景の呼吸を包み、望まぬ呼吸がそれを深く胸に吸い込む。まるで体の奥底まで、夕泉に染められているかのようだ。
「暁どの……」
情事の名残すらない平坦な声が、遠くから呼んだ。
「そなたは、兄上を……宝順帝を愛しておるか?」
それは自分にかけられた言葉とは、到底思われなかった。思考が停止し、やがて重たい牛車がゆっくりと車輪を回すように動きだす。
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