14 / 19
4 見えざる手(3)
乱れた呼吸は、涼景から言葉を奪っていた。夕泉はそれすら許容し、さらに甘く問いかけた。
「わたくしは……憎んでいるのですよ」
涼景は閉じた瞼をそのままに、耳元で囁かれる言葉を噛み締めた。
夕泉の言う意味が、混乱を伴いながら、涼景の思考に波を立たせる。
「そなたは、どう思われる?」
この親王は、宝順帝を愛していたのではないのか?
それゆえに、狂ったのではないのか?
それとも、この問い、この言葉こそが、忠誠を試すものだとしたら?
正解はどこにもなく、そして、何を言っても身を滅ぼす気がした。沈黙すら、返答になりかねない。
涼景は声を絞ったが、喘ぎの他に音は出なかった。夕泉は、それすら許した。
「良い、何も言わずとも。ただ、一つだけ覚えておいていただきたい。私はそなたの敵でも味方でもない」
思考が、白と黒の渦を巻き、混じることのない相反する理屈が迷走する。
敵でも味方でもない。
だが、そう言う夕泉自身が、自分を陵辱することを躊躇わなかった。信用に値するとは思いがたい。
理解の及ばぬ状況に、涼景は低く唸った。覆いかぶさる夕泉の体温が、自分との境界を溶かし、取り込まれてしまいそうな錯覚を覚える。
あまりに突然の出来事の連続に、涼景の意識が薄らいだ時、床を伝って、急ぐ足音が近づいてきた。自分の上に重なる夕泉の身体が大きくそれて、繋がっていた箇所がぬるりと滑る。
……逃げなければ……
ぼんやりと、そう思ったが、手脚が鉛のように重く、力が入らなかった。
背中越しに、着物が擦れて蠢く気配。それがしばし続き、やがて、どさり、と何かが床に転がった。
「……隊長」
か細い声が、自分を呼んだ。
目を擦り、息を整える。
半分しか開かない目で振り返ると、軽く息を弾ませた湖馬が、真っ青になって立っていた。手には、畳んだ布を握りしめている。その足元には、ぐったりとした夕泉が目を閉じていた。微かに胸が上下し、息がある。
「湖馬……?」
「そのままで、お待ちください」
湖馬は、泣きそうな声で囁いた。
涼景は動かなかった。いや、動こうにも動けなかった。
全身に残る強烈な快感の残滓が、目にもわかるほどの震えとなって、行き場をなくしたまま取り残されていた。頭の中では、夕泉からかけられた言葉がめぐり、その意図が掴めないまま混乱が続いている。
湖馬は手桶と手拭いを持ち込むと、涼景の前に置いた。涼景は手拭いを掴んだが、指が震えて桶の水に落とした。
情けない……
悔しさに歪んだ涼景の顔を見て、湖馬は黙って手拭いを絞り、涼景の手にしっかりと握らせた。
湖馬の手を借り、体を起こす。壁にもたれかかり、どうにか姿勢を保った。抱かれた直後の、脱力は徐々に酷くなり、それは行為以上に涼景の自尊心を傷つけた。拭き清める手の震えも止まらない。
「眠らせただけです」
湖馬は、手のひらに乗せた布を見せて、
「|曼荼羅花《まんだらげ》です。夕泉様はお体が弱いから、強く効いたと思います」
涼景は呆然としつつも、状況を理解しようと頭をはたらかせた。それを助けるように、湖馬が成り行きを話した。
涼景が西苑に出発する前、湖馬は蓮章からこの薬を預かった。少量でも相手を眠らせることができる劇薬である。蓮章が昔からそのような薬を携帯していることを、涼景も知っていた。
「蓮が……おまえに?」
「いえ」
湖馬は、夕泉がまだ目を覚さないことを確かめながら、
「すべては、歌仙様のお計らいです」
涼景の目が、ぴくっと開いた。
「星が……」
「はい」
湖馬は頷いた。
「夕泉様の真意がわからない以上、油断しないように、と」
「……真意って……あいつは、夕泉様を信用していたはず」
湖馬は、少し言いにくそうに、目をそらした。
「歌仙様、おっしゃっていました。『最も信頼する人が、宮中では人を信じるな、と言っていた』と」
体を拭く涼景の手が止まった。
「あいつ……」
目頭が熱を蓄える。
「隊長、急ぎましょう」
湖馬は涼景の帯を差し出した。
「『夕泉様は、援軍がきた安心感で、思わず眠気を発してお倒れになった。』そういうことで」
涼景は、意外そうに湖馬を見たが、すぐに、表情を緩めた。
「それも、星の……歌仙様の入れ知恵か?」
かすかに微笑んで、湖馬は頷いた。
東雨が真横に振った刀が、きらめいて春風を切り裂く。
正面に構え直し、足運びに注意を払いながら、何度か打ち込む。
短い掛け声と空気の鳴る音が、五亨庵の若葉の庭に柔らかな時を刻む。
高い桂の木の枝で、数羽の雀が東雨の稽古を見物している。
あの少年は、いつになったら上達するのだ?
首をかしげる雀は、そんなことを言いたげだった。
東雨は真剣だった。
まだ芽吹ききらない茂みのあたりに、想像の敵を思い描き、右足を踏み込む。斜めに刀を払い、すぐに引こうとして、かかとが滑った。そのままの勢いで尻餅をつく。
一人で型の稽古をしているだけで、なぜ転ぶ必要があるのか。
少し前に、口の悪い近衛隊長に笑われたことを思い出した。
ふっと、東雨の集中が切れた。
彼は今頃、西の町で、一個中隊を率いているはずである。
無事で、帰れよ……
『俺は、戦場では死なない』
別れ際の余裕のある笑顔が、余計に東雨の不安を煽った。
任務の詳細はどうあれ、軍を率いて出立する以上、何があるかはわからない。
待つことしかできない身は、口惜しかった。
俺は、あいつのこと、どう思っているんだろう。
不意に、今まで考えたことのない疑問が降ってきた。
そのことに驚きながら、東雨は地面に仰向けにひっくり返り、空を見上げた。
彼の好きな、色の薄い透明な空。太陽が向かうその先に、涼景はいる。
暁将軍のように、強くなりたい。
それは、あまりに望み薄だと感じていたが、正直な気持ちだった。
自分が何もできないときでも、涼景は犀星を守ってきた。圧倒的な冷静さと武術と、溢れるほどの気概をもって。
これからは、俺が、若様を守るんだ。
東雨はそっと手を握りしめた。
……でも。
隙間風が胸の辺りを撫でる。
少しくらい、手を貸せ……
青空に雲がひとつ、流れていく。
東雨は起き上がると、ゆっくり土を払いって立ち上がった。と、裏口からじっとこちらを見ている犀星と目が合う。一瞬固まり、照れ笑いを返す。
犀星は穏やかな表情で、静かに目を細めている。
「若様」
そう呼べることが嬉しくて、東雨の笑みが深くなる。
「体を痛めていないか?」
静かに自分を気遣う声が、こんなにも嬉しい。
この声を聞くたびに、切なく苦しくなっていた頃があった。今では、遠い夢の向こう側のように思える。
目の前にいる犀星は、自分が生涯、そばで尽くそうと思ったただ一人の人だ。そう、胸を張って堂々と言うことができる。それは、東雨の未来を照らす、光そのものだ。
……いろいろあったけれど、俺はやっぱり幸運だった。
犀星がどれほど変わり者であるか。
宮中において、厳しい立場に置かれているか。
金や名誉や出世と、無縁の存在であるか。
贅沢な暮らしなど一生望めないことも、すべて承知の上で、東雨はこの人を選んだ。自分の意思で、選んだ。
にやにやしながらこちらを見つめている東雨を見て、犀星は困ったように首を傾げた。
「打ち所、悪かったか?」
「なんでもありません」
よく光を反射する東雨の黒い瞳が、犀星を映す。
犀星はかすかに頷いた。東雨の眼差しは、心に深く触れてくる。
信じて良い。
その目の光は、涼景によく似ていた。
涼景が西方に出て、玲陽が都の外の視察に行った。今日の五亨庵は、いつもより静かだ。
寂しさはあるが、心は落ち着いていた。自分には、この駆け出したばかりの頼りない近侍がいる。
「祥雲」
犀星はそっと呼びかけた。だが、乱れた裾を直しているだけで、返事もしない。
「祥雲?」
もう一度、声をかける。それでも顔を上げない。たまりかねて、
「東雨」
「はい」
明るい声が返ってくる。呆れた吐息が、自然と犀星の唇からこぼれた。それを見て、東雨はようやく、自分が自分の字を聞き逃していたことに気づいた。
「すみません」
東雨は刀をおさめると、犀星のそばに寄りながら、そっと前髪をよけた。本当はしっかりと髪を結わねばならない年齢だが、どうしても慣れた形を好んでしまう。
「字は、気に入らなかったか?」
少しすねたようにも見える犀星の横顔に、東雨は触れたくなる気持ちを抑えて、首を振った。
「まさか」
そっと、刀の鍔のあたりを撫でる。
「俺、ずっと憧れてました。若様が陽様と字を贈りあったって聞いてから」
東雨はうつむき、心を隠すように、片方のつま先で足元の土をいじりながら、
「驚きもしたけれど、羨ましかったんです」
「初めて聞いたな」
犀星は、子供らしさの残る東雨を、静かに見つめた。春の柔らかな陽の光と、かすかに甘い風は、優しい東雨によく似合う。
「祥雲、って俺には勿体無いくらいです」
東雨はその名を口にするのが、まだ恥ずかしいようだ。犀星は赤らんだ東雨の頬を見守りながら、
「おまえは、俺たちを幸せにしてくれる希望であるから」
不思議そうに、東雨は顔を上げた。犀星の顔は穏やかだ。自分を大切にする真摯な思いが溢れている。そのままに受け入れ、そばにいることを望んでくれる犀星に、東雨は全身が震えた。
「この名は……」
うまく言葉にできないもどかしさを抱えながら、それでも、東雨は精一杯に紡いだ。
「この名は、俺にとっても、吉兆です」
気の利いた言葉が見つからず、東雨は首を振った。
「若様から名前をつけていただいて、新しく、生まれることができたような……生まれてきてよかったって、初めて思いました」
その言葉がどれほど重いか。
犀星は唇を噛んだ。幼かった東雨が、自分を支えるために生きる道を選んでくれた。答えねばならない。それは責務のようでもあり、願いのようでもある。
東雨の顔は、あまりに優しかった。
「怖いこともたくさんあったけれど、生きていたいって……ここにいて、いいんだって……」
喉がつまり、東雨は黙った。
手を伸ばしかけて、犀星はそれを止めた。東雨は、保護を必要とする少年ではない。一人の大人だ。未来を切り開いてゆく力を備えた、強い人間だ。
犀星は、かすかな寂しささえ感じた。自分の体の一部が、離れて遠くへ行ってしまうような心地がする。
「いつかおまえは、俺なんてもういらない、と、言い出すのだろうな」
珍しく、犀星が弱気を見せた。東雨は驚いて、潤むような青い瞳をじっと見た。
風がそっと二人を包む。若葉がさやさやと鳴って、心のざわめきがその音と重なった。
犀星は思わず、自分の襟を握った。その奥に隠していた弱さが、恥ずかしかった。
東雨は、唇を震わせた。
「俺、どこにも行きません」
犀星の前に、そっと片膝をつく。刀を鞘ごと、両手でしっかりと掲げる。犀星は黙って、東雨を見つめた。
少し緊張した東雨の声が、柔らかく、春風を揺らした。
「犀祥雲……若様に、生涯、お供いたします」
そう言って、掲げた剣を犀星へと差し出す。
稽古用の、実戦では使えぬ、もろい刀。
ぎこちない、見よう見まねの忠誠の儀式。
そうせずにはいられなかった、感情ばかりが先走る東雨のすべてに、犀星の胸が熱く震えた。
犀星は一歩踏み出すと、東雨が捧げていた刀に触れた。受け取らず、指を滑らせ、東雨の手をしっかりと取る。
東雨は弾かれたように顔を上げた。黒い瞳から涙が湧いて、堪えようと目元に力を込めたが、無駄に終わった。
葉に宿る朝露のような涙が、春の光にキラリとこぼれた。それは、犀星の涙でもあった。
祥雲。
青空にたなびく吉兆の雲のように、自由に、その一生に幸多かれと、犀星が万感の思いを込めて送った、字。
既にその名は、東雨の存在を表していた。今、こうして犀星の胸に暖かな思いが満ちるのは、何よりの証だ。
犀星の指が、そっと、東雨の涙を拭った。真っ直ぐに犀星を見つめ、東雨は微笑んだ。もう、逃げる必要はない。
春の庭で、主従の契りを越えて、二人の人が並び立つ。青天井に春風の伸びゆく、静かな午後であった。
ともだちにシェアしよう!

