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 落ち着きのない犀星は珍しい。  そして、その原因は、いかなる場合も一つしかない。 「そんなに、そわそわしなくても、大丈夫ですよ」  玄関の柱にもたれかかりながら、東雨は、口慣れた慰めを言った。 「蓮章様もご一緒ですし……」 「だから、余計に心配だ」  犀星の声は細かった。 「あいつ、陽に傷一つでもつけたら……」  いつになく、剣呑なことを呟く。 「蓮章様にまかせたのは、若様じゃないですか」  屋敷の玄関前をいったりきたりしながら、犀星はちら、と東雨を見た。苦しげに、 「他に、いなかった」 「しかたなく、ですか」  不甲斐ない、と言わんばかりに、犀星はため息を漏らした。  このままでは、玄関前の石畳がすり減ってしまう。  東雨は犀星の右往左往を見守りながら、 「日頃から、友達が少ないから、こういう時に困るんです」 「普段は涼景がいるからいいんだ」  どこか諦めたように言って、犀星は門まで行くと、大通りの方を覗いた。待ち人は来ない。  視察から戻ってくる予定の時刻を過ぎても、玲陽は姿を見せなかった。  すでに夕暮れの光が差し込み、空の向こうから、間延びした烏の鳴き声が聞こえて来る。あまりに平和な時間だった。  実のところ、東雨はこっそり、玲陽の無事を知っていた。先ほど通りかかった暁隊のひとりから、偶然、情報を聞いたのだ。町で騒ぎに巻き込まれたらしく、汚れた着物を洗ってから戻るとのことだった。  汚れくらい、旅路なのだから仕方がないだろう、と東雨は思う。しかし、そこは犀星である。玲陽に泥はね一つつけただけで、蓮章がどんな目にあうか、想像するのも恐ろしい。言うに言えない東雨であった。 「もしかしたら、五亨庵に戻ったのかも……」  犀星の目が、厩舎の馬へと向く。 「若様、ダメですよ、一人で勝手に出歩いたら」  東雨はやんわり止めた。  振り返った犀星の目が、ついてきてくれ、と、懇願していた。東雨は乾いた笑顔で受け止めた。 「きっと、もう少しでお戻りになりますって」 「どうして、言い切れる?」  犀星の声が切ない。そろそろ、東雨の良心も痛んできている。だが、今更、本当のことを話しても、叱られるに決まっていた。 「俺の勘、よく当たるんです」  東雨はとぼけた。 「おまえは心配じゃないのか」  たまらずに、犀星は言葉をぶつけた。 「もしあいつの身に何かあったら……」 「その時は、若様が全てを放棄して、この国が滅びますね」  東雨はさらりと言った。 「国なんかどうでもいい。あいつが……」  それが本音か。  東雨は余計に、にやにやとした。  門と玄関を往復しながら、何度も塀の向こうを覗く。  門の外にいる暁隊の隊士が、犀星が顔を出すたびに、またか、という顔でこちらを見ている。だが、そんな視線を気にもしない。  東雨は、犀星を見かけるたびに、黄色い声を上げる女たちを思い出した。宮中での犀星の人気は相当である。姿を見よう、あわよくば目に留まろうと、みな、躍起になった。その時の犀星は、まさに蒼氷の親王で、女たちに一瞥すらくれない。  あの人たちが、今の若様を見たら、どんな顔するだろう。  東雨は楽しい想像を膨らませていた。  一方、犀星は気が気ではなかった。頭のどこかでは、落ち着かねばと思いつつも、感情が優先される。 「おまえを、一緒に行かせればよかった」 「俺じゃ、蓮章様より剣の腕が……」 「剣術より、信用の問題だ」  犀星の言葉は、東雨に嬉しい驚きだった。 「俺のこと、蓮章様より信用してくださるんですか?」  一瞬、犀星の動きがピタリと止まった。玲陽への心配から、少しだけ、意識がそれる。東雨は、にっこりして犀星の返答を待ったが、犀星はどこか気まずそうに横を向いた。  素直じゃないなぁ。  動揺を隠しもせずに、こうして東雨の前をうろうろしている時点で、信用度は抜群だという自信があった。言葉より態度に出る。それが犀星だ。  東雨は少し試すように、甘えた声で尋ねた。 「若様。もし、俺の帰りが遅くても、心配してくれますか?」  何を言っているんだ、と、犀星は東雨を見た。しかし即答はしなかった。  犀星の脳裏に、昨年の冬の冷たい朝が蘇った。  満月の翌日、目が覚めた時、屋敷から東雨の姿が消えていた。あの悪夢の朝。氷の剣で貫かれる恐怖は、二度とごめんだと思った。  まるで、犀星の答えを承知しているように、東雨の口元には笑みが浮かんでいる。 「一番は陽様ですから、俺は二番でいいです」  犀星の片眉がぴくり、とする。なぜ、こんな時にそんな冗談が言える?  東雨、おまえ、もしかして……  犀星は、得意の無表情を決め込んだ。 「おまえを、二番になどするはずがない」  その口調は静かだった。 「え……?」  小さな期待が、東雨の胸に、ぽん、と弾けた。 「若様……」  思わず、犀星を見つめ、ごくりと息を呑む。犀星の真剣な目が、東雨の鼓動をいとも簡単に操って、どきどきと早くさせる。 「三番だ」 「︎……え」  東雨の顔が歪んだ。想定外だった。 「じゃあ、二番は誰ですか!」  涙目で問い詰める。犀星を少しもったいをつけてから、 「俺だ」 「……それは数に入れないでください!」  思わず叫ぶと、犀星はにやっと笑う。 「……若様、もしかして」 「おまえが俺をからかうからだ」 「からかう……?」 「そこまで落ち着いているのは、陽が無事だと知っているからだろう?」  言い当てられて、東雨は少し、ホッとした。同時に、ふつふつと恥ずかしさが湧いてくる。 「仕返しするなんて、子どもじみてます」 「おまえの方こそ、俺を見て楽しんでいただろう?」 「それは……それで、結局、俺は何番目ですか?」 「十五番くらいか……」 「見栄を張らないでください。そんなに友達いないじゃないですか」  塀の外で、暁隊の隊士が大袈裟にため息をつくのが聞こえてきた。  くだらん、実にくだらん。  これが、紅蘭を、ひいては函をになう親王の素顔とは、誰も思うまい。  その時、 「ただいま戻りました」  待ちに待った声が、犀星を呼んだ。東雨とのやりとりを放り出すと、犀星は玲陽に駆け寄った。親を見つけた子どものように素早かった。   ちょうど馬の背から降りた玲陽に飛びついて、そのまま抱きしめる。玲陽を送ってきた数名の暁隊が、それぞれに面白がったり、呆れて首を振ったりと、反応に忙しい。  東雨は腰に手を当て、堂々と迎えた。 「陽様、視察、お疲れ様でした」  玲陽は、よしよしと犀星の背中を叩きながら、彼の肩越しに東雨に微笑んだ。 「東雨どのも、兄様のおもり、お疲れ様でした」  犀星は、玲陽の確かさを全身で確かめ、満足そうに顔を覗き込んだ。わずかに日に焼け、疲れた玲陽を見て、また抱きしめる。その繰り返しは、終わりそうにない。  いい加減にしてくれ。  周囲を取り巻く暁隊の無言の圧力が、玲陽の戦果を押す。 「兄様。とにかく一度屋敷に戻りませんか」  玲陽は申し訳ない、とひとつ、礼をして、犀星を屋敷の中へ押し込んだ。  居間で、ようやくひと心地着く。東雨が用意していた茶を含み、濡らした手ぬぐいで火照った頬を冷やす。回廊に腰掛け、着物を膝までたくし上げる。足を桶の水に浸す。久しぶりの遠出で疲れた素足に、井戸水は心地よかった。洗おうとかがんだ玲陽の手を、犀星が取る。 「俺がやる」 「え!」  土埃で、水はすでに濁っている。 「自分でやりますから」  玲陽のそんな主張は、完全に無視される。 「疲れているだろう。楽にして」 「決めつけないでください。これくらい平気です」  そうは言ったものの、確かに玲陽の足は少し腫れぼったかった。 「兄様」  戸惑い気味に、玲陽は声をかけた。ちゃぷん、と水が揺れる。水音とともに、犀星は玲陽の足を丁寧にすすぐ。  くすぐったく、ぞくぞくと背中がざわついた。そんなことは意に介さず、当たり前だ、という顔で、犀星は甲斐甲斐しく世話をした。  東雨は、おとなしく玲陽の隣に座り、二人の様子を観察し始めた。  ごく自然に始まったこの場面は、実のところ、とんでもなく貴重だ。  宮中を虜にする魅惑の親王が、想い人の前にひざまづき、その素足を撫でるように洗う。  こんなのが見られるなんて、役得だ。  東雨はじわっと笑った。 「……っ!」  足指の間を撫でられて、思わず玲陽は声を殺した。ぴくっとちぢこまる膝を、犀星は大切なものを扱うように両手で引き戻した。  玲陽の頬が赤いのは、一日浴びた日差しのせいでも、夕焼けの色でもなかった。  これは、たまらなく、恥ずかしい!  玲陽は目を歪め、唇を噛んだ。  砦で暮らす間、体に合った履物がなく、裸足で過ごすことが多かった。自然と足は傷ついた。栄養不足のため、爪にも凹凸があり、形も歪んでいる。踵も皮膚が硬くなり、見られるだけでも恥ずかしい。触れられ、洗われるなど、耐えるだけで気を失いそうだ。  ただでさえ、羞恥心でどうにかなりそうだというのに、目の前にいるのは犀星なのだ。焦がれてやまない人に触れられる感触は、単なる羞恥を飛び越えて、安心感さえ乗り越え、興奮にまで到達する。  いつしか、玲陽は耳まで朱に染め、目を潤ませ、袖を握り締めてかすかに震えていた。  東雨は興味津々で玲陽の横顔を見つめている。玲陽はいつも穏やかに笑っているのが普通で、今のような表情を見せることはない。  陽様、色っぽいなぁ。  素直に、東雨は見惚れていた。犀星は、上目遣いに玲陽を盗み見た。その目の中に、明らかに思惑がゆれているのを、東雨は見逃さない。  絶対、わざとだ。  真顔でさらりとやってのけるものだから、周りは本当に動揺するのだ。 「ついでだから……整えておこうか」  いきなりの提案に玲陽が驚く。構わずに、犀星は帯に吊るしていた小刀を抜く。足先を手で温め、爪を撫でる。 「やめてください!」  ついに、玲陽は叫んだ。すでに懇願である。 「兄様、いくらなんでもそんなこと……」 「させて欲しい」 「でも……」 「俺を心配させた罰だ」 「これは罰じゃなくて……拷問です」 「そんなに嫌か?」 「嫌です」 「なぜ?」 「恥ずかしいです」 「どうして?」 「どうしてもです!」  このやりとりは、ただのじゃれあいだ。東雨は目を細めた。 「動くな」  手を止め、犀星が短く言った。その声は命令ではなかったが、玲陽には逆らえない響きがあった。  犀星は黙って、玲陽の足を自分の膝に乗せ、爪先に刃を当てた。これ以上ないほど丁寧に、一本ずつ、先を削って指で撫でる。玲陽は肩を震わせながら、目を背けた。  見ているだけで体が火照る。そうではなくても、すでに本能的に肉体は刺激を受け入れてしまっていた。玲陽の手が、血の気が失せるほど白く握りしめられている。  あ……  東雨にも、玲陽の苦悶がわかった。  これ以上は、かわいそうだ。  少しは気が紛れれば、と思い、東雨は話しかけた。 「陽様、宿場町の様子はいかかがでしたか?」  東雨を見る玲陽の顔に浮かんだ表情は、何だったのだろう。答えたいのに答えられない、甘苦が入り混じった顔だ。 「ご……領地……」  玲陽は声を絞り出した。 「ご領地?」  東雨は膝を寄せ、玲陽の意識を自分に向けさせる。 「あそこを、兄様の直轄にできないかと……」  必死に政治的な話をしようと歯を食いしばるが、玲陽の声は上擦っている。 「伍江も近く、水運にも良い。水門の建設と同時に水路の整備をすれば……近くに、農耕地帯もあります……し……あっ!」  玲陽はびくりと肩を震わせた。犀星が怪我をしないよう、一瞬、刃を引いた。

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