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5 最愛(2)

「なるほど。水門建設のついでに、若様の直轄地にしてしまえば、今後、色々とお金……も含めて、亀池にとってもいいことがあるかも」  東雨は頷いた。 「陽様、そういう意味もあって、直接見に行きたいっておっしゃってたんですね」 「え、ええ……」  玲陽の息が上がる。犀星は構わず、水に浸しながら、柔らかく足を撫でている。玲陽は知らず知らずのうちに、背を丸め、腹を抱えるように体を倒した。  東雨はどうしたものか、と迷いながら、 「その調査で、遅くなったんですか?」  その質問は至って素直なものだが、玲陽にとって、難問のようであった。すでに、声が出ない。視線が庭をふらふら泳ぐ。それでも、目の前に跪く犀星だけは見ないようにしていた。視界にはいれば、それだけで限界を越えそうだった。 「陽様?」 「……大丈夫、です」  かろうじて、玲陽はそう言った。  ダメだな、これは。  東雨は、玲陽の気を引くことを諦めた。 「……あっ!」  玲陽の息が上がる。どうにか声を出そうとするが、危うい響きが混じる。 「陽様、もう、いいです。話は後にしましょう」 「い、いえ、大丈夫です……っ」  何がどう大丈夫なのかは、玲陽にすらわからなかった。  すでに、額には汗き、それがこめかみを垂れる。優しく小刀を動かしながら、犀星も聞き耳を立てている。  玲陽は眉間にしわを寄せ、明らかに返答に窮している。 「し、視察は問題なく……んっ!」  ぎゅっと玲陽は目を閉じた。握った手が、床板の上でぷるぷると震えている。 「視察より、この状況が問題ですね」  東雨はため息をついた。 「陽が無事なら、それで良い」  無事じゃなくしている張本人が、何を言うんです?  玲陽も東雨も、同じことを思っていた。 「そ、そうだ、陽様。何か召し上がりますか?」  東雨は、目の前の光景から、さすがに顔を背けた。これ以上は、東雨の方がもちそうになかった。失っているとはいえ、内側の興奮は自然と湧き上がる。 「お腹、すいてますよね? 粥なら温められますが」 「そ、それなら……二人分……お願いできませんか?」  息も絶え絶えに、玲陽は言った。どうにか笑顔を作ろうとしているが、吐息に色気が混じり、目も熱っぽく潤んでいる。  東雨はあさっての方を見ながら、 「そんなに、お腹、空いてたんですか?」 「いえ……そうではなくて。何なら三人分のほうがいいかも」 「わかりました。では、三人分を……」 「あっ……ん!」  こらえきれなかった玲陽の声に、東雨は軽く飛び上がった。 「若様! 陽様が死んじゃいます! いい加減に……」 「水を変えてくる」  桶を持って、逃げるように犀星は立ち上がった。いつもより早足で、井戸の方へ歩いていく後ろ姿を、二人は黙って見送った。同時に息をつく。うめいて、玲陽が腰を丸め、回廊に倒れ込んだ。 「大丈夫ですか?」  察して、東雨が顔を覗き込む。玲陽は完全に陥落していた。 「兄様、こういうの、にぶ過ぎます」  それは泣き事のようでもあり、惚気のようでもある。 「あれ、絶対、わざとですってば」  思わず東雨の目が玲陽の股間に向く。緩い着物の形が、心なしか変わっている気がした。自分にはもうないものが着物の下に想像されて、東雨はドキリと息を呑んだ。 「あんなふうに触られたら、どうしたって無理です。恥ずかしいところ、お見せしてしまって……」  涙目になる玲陽の上から、東雨が笑う声がした。泣きそうな顔で振り返る。東雨の目は優しかった。 「そういう陽様、俺、大好きです」  東雨は少し真面目になって、 「若様が悪いです。陽様が大切なら、少しは配慮ってものがなくちゃ」  大人びた言い方をする。 「とにかく俺、食事の支度してきますから。陽様がそんなにたくさん召し上がるなんて珍しいです。よっぽどお腹すいたんですね」  明るく笑う東雨を、玲陽は一瞬呼び止めようとして、声を止めた。  言えない。それを食べるのは私ではなくて……あなたの妹。  東雨の宿敵がこの屋敷に迫っている残酷な現実を告げるだけの胆力は、玲陽には残されていなかった。  絶望的な心持ちで、帯の下を見つめる。  どうしよう。  押さえ込もうとしたが、今はその刺激すら危うかった。 「星の馬鹿」  つぶやき、玲陽はより一層体を丸めた。  井戸から水を汲み上げ、桶に満たす。  それは、優しい微笑さえ滲む瞬間だった。  ただひたすらに、誰かを思う嬉しさが、犀星の体も心も満たしていく。  ずっと、このままでいられたら……  夢見るようだったその表情に、突如、鋭い緊張が走った。手が逸れて、井戸桶が音を立てて足元に転がる。溢れた水が、細かな土の上に黒い染みを広げた。  犀星は反射的に、耳を塞いでいた。  一寸前とは打って変わって、表情に恐怖の気配が濃く浮かんでいた。  声が、聞こえた……  いつも、それは唐突にやってくる。  枯葉が擦れ合う乾いた響き。聞き逃しそうなほどの小さな声量。しかし、確実に意識を貫く戦慄。  誰かを呪い、自らを嘆き、恨みつらみのこもったその短い言葉は、誰のものとも知れない。  今も、犀星の周りには誰もいない。なのに、声だけが囁く。耳元で、ひそやかに、冷たい唇を寄せて。  声は何度も繰り返される。そして、徐々に間隔が開き、消えていく。その遷移は、洞窟の奥に響くこだまに似ていた。  自分の身に何が起きているのか、想像もつかない。だが、確実に何かが近づいている予感がある。  それは、自分の理解を超えたものだ。誰とも分かち合えない不可思議だった。  じっと、心の奥に閉じ込め、気づかないふりをする。沈めた記憶は澱となってたまり、次第に重くなる。それでも、打ち明ける勇気がない。  目に見えざるもの、傀儡に関わることである気がしていた。  ならば余計に、玲陽を巻き込むわけにはいかない。  それでも、心は軋み、平常心が揺らぐ。  それは日増しに酷くなり、頻度が増えている。  もし、今より酷くなったら……  気が狂うかもしれない。  そろそろ、限界か。  犀星はそっと、耳から離した手を、胸に当てた。  こうしていると、少しだけ心が落ち着く。  本当は、玲陽に触れて欲しかった。  玲陽の肌に触れる。それは、特別な意味があった。  歌仙で介抱をしていた頃は、とにかく必死だった。体に触れることは、必要な処置を行うためであり、それ以上の意味など考えている余裕はなかった。  都に来てからは、体よりも心に触れてきた。  傷ついた玲陽を癒す。  再会以来、ずっとそのことが犀星の目の前の全てだった。  今も変わらず、彼のために尽くしたいと思う。だが、同時に、自分の中に別の欲求が生まれていることにも気づきつつあった。  春だから、かな。  犀星は夕闇の空を見た。  すでに地平線の下に隠れた太陽を追って、明星が低い位置に見えた。  吹き抜ける風が心地よい。すっかり季節は巡った。いつまでも、冬のままではない。  そっと、手を握る。指を擦り合わせ、忌まわしい聴覚の翻弄から逃れるように、玲陽の肌を思い出す。口元が緩む。  もっと、触れても、許されるだろうか。  犀星はじっと、地面に視線を落としたまま、たたずんだ。  玲陽の体は傷だらけで、触れるだけで古傷が痛む。こちらから手を伸ばしても、苦しめてしまう気がした。それが犀星を踏みとどまらせる。着物の上から抱きしめる時も、力を加減する。  玲陽も、自分を気遣っていると思えた。傷を見られることを嫌うのは、自尊心のせいだけではない。見れば犀星の心が乱れる。それを案じてのことだ。 「陽……」  思い切り抱きしめてみたい。  思い切り、抱きしめられてみたい。  そうすれば、何かが変わる気がした。  自分の身に起きている奇妙な『声』の不安も、やわらぐに違いない。  けれど……  切なく目元が震える。  背中が少し小さくなる。  自分で自分の体を、犀星は力を込めて抱きしめた。  ああ、こんなふうに、玲陽に抱いてもらえたなら…… 「なにやってるんですか?」  突如、容赦のない声が背中にぶつかってきた。一瞬ためらい、犀星は顔を上げた。ゆっくりと顔が動いて、よそ行きの表情になる。  そうしてから、何事もなかったように振り返った。  そこに小柄な人影が立っていた。夕闇の中ではあったが、見覚えがある。 「ご無沙汰してます。星兄様」  薄暗がりに、よく響く声がした。 「凛?」  目を凝らせば、確かに懐かしい少女である。玲陽が、玲凛を呼び寄せたいと文を出したことは知っていた。その返事より先に本人が届いた。 「体を抱いて……寒いんですか? ひとっ走りしてくると温まりますよ」  相変わらず元気がいいな。  沈みかけた太陽がまた昇ったように、あたりが明るく思われた。  玲凛の後ろで、暁隊の隊士と蓮章が、揃って憔悴した表情をうかべていた。普段は飄々としている蓮章の、その疲れ切った顔からは、なんとなく、状況が察せられた。犀星は愛想程度の笑みを見せた。 「蓮章、世話になったようだな」 「それが……」  蓮章は、言いにくそうに顔を歪め、横を向く。 「世話したのはこっちのほうよ」  玲凛は、ふっと表情を引き締め、腰に手をやった。 「本当、危ないところだったんだから!」  凛々しい眉をつりあげて、犀星を睨みつける。再会早々、知らぬ間に、犀星は玲凛の怒りを買っていたらしい。 「星兄様、これは、いったい、どういうことですか?」  玲凛の怒気が、夕闇の底からふつふつと湧き上がる。その迫力に、玲凛を中心として皆が一歩、後じさった。 「なんでこんな《《使えない連中》》に、陽兄様を預けたんです!」  何があった? と、犀星が蓮章を見る。玲凛が割って入る。 「涼景様が留守だっていうのは聞きました。でも、せめてもう少しマシな人いなかったんですか?」  蓮章は黙って肩をすくめた。彼の疲労の原因は、やはり、玲凛らしい。ここに来るまで、さんざん責められたに違いなかった。 「……親王の従兄妹、確かに届けたからな。帰る」  これ以上関わりたくない。  蓮章はさっさと路地を抜けていった。暁隊も置いていかれるものか、と、急いで後を追う。  俺を一人にするな……  思わず、踏み出した犀星の前に、ずいっと玲凛が立ち塞がった。 「陽兄様にもしものことがあったら、どうする気ですか。傷でもつけたら、私が星兄様を生かしておきませんから!」  犀星は何か言いかけて、火に油を注ぐだけだと、おし黙った。  詳しい事情はわからないが、とにかく、危機を乗り越えたらしい。 「陽兄様はどちらに?」 「中庭に……」  最後まで聞かず、玲凛はさっさと屋敷に上がっていく。犀星は水を汲みなおし、玲凛を追った。 「陽兄様!」  突然の声に、玲陽は過度に慌てた。着物の裾を整えて、きょろきょろと周囲を確かめる。すぐに背後から、玲凛が抱きついた。 「り、凛どの、戻られたんですね」  玲陽の声は裏返り、その目は助けを求めるように犀星を探した。 「薫風は暁番屋に預けてきました。明日には厩舎を増築してくださいね」 「あ、はい……」  玲陽の首に腕を回して、玲凛はぴたりと背中に胸を当てた。  柔らかかった。  玲陽はあからさまに顔を歪めた。背中の傷と、別の場所が、じん、と痛んだ。 「凛、離れてやってくれ」  先ほどまで散々煽っておきながら、犀星は澄ました顔で助け舟を出した。 「陽は、背中の古傷が痛むんだ」 「あ……」  玲凛は、玲陽との間に隙間を開けた。 「ごめんなさい。大丈夫ですか? お顔が赤いですし、苦しそうです」  横に膝をついて、玲陽の顔を覗き込む。

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