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5 最愛(3)
「やっぱり、遠出で無理をなさったのでは?」
「え、ええ。ちょっと、腰を痛めたようで……」
前屈みの玲陽を見て、玲凛は迷わず腰を擦った。びくっと玲陽は震えた。背中側の刺激は腹を通して前を刺すようだ。
「だ、大丈夫……ですから」
性格上、拒絶することはできないが、顔は明らかにうろたえていた。犀星は真顔のまま、桶をふたたび、玲陽の足元に置いた。当然だ、という顔で足を手に取り、水につける。その仕草はまるで、大切なおもちゃを取り返そうとしている子どもだった。
玲凛はうっすらと笑みを浮かべて、犀星を見た。
星兄様、なんだか、優しくなったみたい。
歌仙で余裕のない犀星を見慣れていた玲凛には、今の犀星は新鮮だった。視線に気付いたのか、犀星はわずかに顔を上げた。
「凛、東雨が三人分、粥を炊いている。足りるか?」
「よかった、お腹ぺこぺこだったの!」
玲凛は素直に喜んだ。
「陽兄様は?」
「私は結構です。どうぞ召し上がってきてください」
むしろ、食事どころじゃないので、と、玲陽は体を丸めた。
挙動不審な玲陽と、黙々と足を清める犀星を見比べ、玲凛は、何かに納得したように頷いた。ぱっと玲陽から手を離す。
どこかホッとした玲陽の顔を見て、玲凛は確信を得たらしかった。
犀星は素早く手拭いをしぼり、玲陽に握らせた。
「これは?」
問いかける玲陽に、
「必要になるかもしれないから」
「…………」
玲陽が目を見開いた。微笑んで犀星は立ち上がった。
「凛、案内する」
犀星が先に回廊を行く。玲凛はそれに続きながら、ちらっと玲陽を振り返った。
「陽兄様」
「は、はい?」
玲陽は、無理ににっこりした。玲凛は、満面の笑みで、
「お元気そうで、何よりです」
お元気……
玲陽の頭が沸騰する。そして、不自然な笑顔のまま、凍りついた。犀星が握らせた手拭いの意味が、ようやく理解できた。
春の夜の気配は優しく、確実に甘い。束の間、雲に隠れていた月が、ふたたび光を投げかけてきた。
寝室の牀に横たわれば、絹の帳越しに夜の気配に包まれる。緩やかな風がしっとりと肌に絡み、褥を胸まで下げても寒くはない。
あたりが寝静まった頃になっても、玲陽はまだ、眠る気持ちにはなれなかった。今日は目まぐるしく、多くのことがあった。視察に発った早朝が、遠い日の出来事のようである。
体は、ずん、と重たかった。どこまでも牀に沈んでいきそうなほど、動かすのも億劫だ。なのに、心は落ち着かず、あれこれと様々に想像しては、一人で期待したり不安になったりとせわしない。
音もなく、帳が揺れる。隙間から入り込んだ風が髪に触れ、少し、くすぐったい。
玲陽がじっと見つめるのは、隣に、仰向けに眠る犀星の横顔だ。
闇に沈んでいても、わずかな月光を頼りに、玲陽にはその表情までが見えるようだった。
細い眉、煙るようなまつ毛、白い頬。優しい、穏やかな寝顔。筋肉が自然と緩んだ、素顔。自分だけが見ることのできる、特別な姿。
玲陽は少し、犀星に体を傾けた。するっと擦れる布の音が、さらに胸をざわつかせた。同じ一枚の敷布の上に、並んで眠る。どう考えても、これは夫婦の寝所とかわらないはずだ。
昨年の冬、一緒に眠ろう、と言い出したのは犀星だった。
だが、彼が言わなくても、いずれ、自分が我慢できずに頼みこんだことだろう。
犀星が言うか、自分が言うか。たとえ結果は同じでも、意味はまるで違う。
犀星に望まれて、こうしているのか。それとも、自分の願いを犀星が許したことによるのか。
玲陽にとっては、前者であることが嬉しかった。
もっと、求めたい。それ以上に、求めて欲しい。
優しい犀星だからこそ、自分が望めば受け入れてくれるに違いなかった。だが、それでは満足できないのが、玲陽の性格なのだ。
望んで叶えられるより、望まれて叶って欲しい。
究極のわがままだ、と思いながら、それだけはどうしても譲れなかった。求める気持ちならば、有り余るほど抱えている。だが、求められたかった。
行ったり来たりと、玲陽の心は揺れ動いていた。
「……星?」
息だけで呼んだ。返事は期待していなかった。だが、
「うん?」
驚くほどあっさり、犀星は応じた。
てっきり『寝顔』だと思っていたのに……
「起きて、いたのですか?」
「おまえこそ、今日は疲れたのに、眠れないか?」
犀星は目を閉じたまま、天井に向かってささやいた。
二人きりの寝室に響く、秘めた声。
どこか艶かしく、特別な気配が胸を高鳴らせる。
「疲れてはいるのですが、気持ちが落ち着かなくて」
「久しぶりに、凛に会えたしな」
それは、事実を言っただけなのかもしれない。しかし、玲陽には咄嗟に、犀星の嫉妬のように思われた。
ああ、また私は、自分に都合よく考えてしまう。
玲陽に、ちらりと自嘲が浮かんだ。
犀星は目を閉じたままだ。言葉を交わしたかったが、話題に詰まってしまう。今は何を言っても、上滑りしてしまう気がした。
伝えたい核心ははっきりしているのだ。だが、それを言葉にすると、大切なものを失いそうな不安があった。
『迫れよ』
蓮章の悪戯めいた顔が思い出された。
『親王も断りはしないだろう』
そうだろうか。
こくっと、玲陽の喉が鳴る。濡れ手拭いを握りしめたまま無理やりに押さえ込んでいたものが、あっという間に再熱する。
これは、どうしたら……
玲陽は褥の下で、夜着の帯の端を弄んだ。
犀星がそっと寝返りを打って、こちらに顔を向けた。
至近距離で見つめ合う。
きらきらと月光を弾くその目が、今は本当に憎らしかった。こんなにも狂おしく玲陽を追い詰める。
玲陽の肌に、うっすらと汗が滲む。
まさか、隣で何かするというわけにもいくまい。かと言って、ここで部屋を出るのも不自然だ。
厠に行くふりをして……
玲陽は少しだけ体を起こして、すぐに止まった。
これは、ちょっと……いや、かなり……あぶない……
衣擦れだけで、声が漏れそうになる。
だめだ、もう、動けない。
浮かせかけた体を、慎重に牀に戻した。
「陽」
犀星の呼び声が、ぞくりと沁みた。玲陽は息を止め、音を立てないように浅い呼吸をつないだ。
「はい……」
返事は聞こえただろうか。瞳の煌めきで、犀星が瞬きしたのがわかる。
手を、伸ばしてください……
玲陽は祈っていた。今、犀星から触れてくれたなら、勇気が持てる気がした。自分から手を差し伸べても良さそうなものだが、それができないのが玲陽の弱さだった。衝動を堪え、目頭が熱くなる。
「なぁ」
犀星の声は一層小さく、囁く。反して、玲陽の胸が破裂するのではないかという音で鼓動を打つ。いつしか、玲陽の耳は真っ赤に染まっていた。
犀星の名を呼ぼうとして、玲陽は喉が締まった。呼びかけるだけで、たがが外れそうだ。
もう……無理……!
脚をギュッと寄せ、下腹部に力を込める。
だが、どれほど堪えても、その全てを犀星の眼差しに見つめられているという現実からは、逃れられなかった。
乞うような、求めるような、まっすぐで煌めく瞳。
どこまで、追い詰めれば気が済むんですか!
いつしか、犀星への恨み言が脳裏にちらついた。犀星は自分のことを、何も感じない聖人君子だとでも思っているのだろうか。それとも、犀星自身、覚えのないことだとでもいうのか。
玲陽がわずかに体を震わせたとき、
「声が、聞こえる」
突然に、犀星は突拍子もないことを言った。
目を見開き、玲陽は呆然と犀星を見返した。思わず体から力が抜けて、危うい瞬間がくる。慌ててふるふると頭を振った。
「……声?」
かろうじて、絞り出す。犀星は小さく頷いた。
「都に来てから、頭痛と耳鳴りがするようになった。てっきり、気鬱のせいかと思っていたが、今も、おさまらない……」
玲陽は鈍い聴覚の向こうから聞こえる犀星の声を、必死に捕まえた。声だけが体に響いて、言葉の意味が遅れてやってくる。
「それどころか、ひどくなっている気がする」
「…………」
「……怖いんだ」
これは大変なことだ……
玲陽は火照った思考で、必死に状況を把握しようとつとめた。
犀星は簡単に泣き言は言わない。玲陽を心配させまいと、ぎりぎりまで我慢する。こうして告白し、切実な声で訴えるからには、相当に辛いのだろう。身勝手な情動と戦っている場合ではない。
「星……」
か細く、玲陽は呼んだ。ただそれだけで、犀星は優しく微笑んだ。まるで、嬉しくて気が緩んだ、というあどけない笑顔だ。
「すまない。少し、弱気になる……」
「かまいません。私に遠慮は不要です」
「うん」
少し間をとって、犀星は続けた。
「今までは、ただの耳鳴りだった。最近は、それが声に聞こえる。それも、言葉に……」
ぞくっと玲陽の体を駆け抜けたのは、今までとはまるで違う感覚。玲陽は、思わずふっと息を吐いた。
「どんな言葉が、聞こえるのですか?」
犀星の目が、すっと細くなる。
「……死ね」
冬の羽虫のような呟きだった。
「……憎い……殺す……許さない……」
まるで声を穢すように告げると、犀星は膝を抱えて体を縮めた。
「星!」
考えるより先に動いて、玲陽はその肩を抱きしめた。こわばった犀星の手足を撫で、さする。それは確かに震えていた。そのまま、耳元に口付ける。そのささやかな音が、犀星の心に深く差し込まれた。
「気が触れたと思われるかもしれない。だから、言えなかった」
「大丈夫」
玲陽は体の熱もそのままに、甘やかすように犀星の体に触れた。
「たとえあなたが狂っても、私はここにいますから」
すがりつくような犀星の抱擁が、玲陽を大胆にさせる。次々と口付けを落とし、頬を擦り寄せる。自然と重なる腰に鋭い刺激が走っても、玲陽はとめなかった。
もう、いい。こんなの、どうってことない。
何かが吹っ切れたようで、玲陽の心も体も素直に動いた。胸に押し付けた犀星の唇から、長い呼吸が糸を引くように長く伸びた。少しずつ、体の緊張が解けていくのがわかる。緩んだ体の隙を埋めるように、玲陽は腕に力を込めた。
「今も、聞こえますか?」
犀星が、首を横に振る。
「どんな時に、聞こえるのですか?」
「……よく、わからない」
声が直接胸に触れて、玲陽の肌がぴりりと張った。
「…………」
声にはしなくても、犀星の恐怖が、玲陽に伝わる。背中の傷をいたわりながら、それでも救いを求めるように抱きしめる力に、魂が震えた。
「よく、ひとりで耐えましたね」
噛み殺した嗚咽が、胸に聞こえた。
「気付けなくて、ごめんなさい」
犀星が、かぶりを振る。安堵の温もりが、玲陽の胸にじわりと滲む。
「これからは、私も一緒です」
一層、抱擁が固くなる。その時間が愛しかった。
互いの熱が互いを癒し、求め求められることを許容する。
月が、雲に隠れた刹那、犀星はそっと腕を緩めた。一層の暗がりで、玲陽は一瞬、白い光を見た気がした。
犀星は、何も言わない。ただ、玲陽の唇に、指を添えた。
玲陽が求めたもの、犀星が求めたものが、その小さな温もりに宿っていた。
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