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6 新緑は風に唄う(1)

 東雨は、己の人生を受け入れていた。  皇帝の密使として、十年にわたる心荒ぶ日々も。尊厳を奪った体の傷も。新しく手に入れた近侍としての未来も。  全てを受け入れ、そして、満足していた。新しい日々は、希望に溢れていた。  昨夜、歌仙からの突然の訪問者に、三杯の粥を食べ尽くされるまでは。  食欲をもって、東雨にその身の不遇を思い知らせた玲凛は、今、颯爽と朝の都を歩いていた。  歌仙から初めて出てきた少女には、目に映る全てが新鮮だ。  軒を連ねる色鮮やかな市場の賑わい、故郷より透き通った乾いた風、どこまでも続く家々と人の波。彼女はそれを、入り混じる匂いとともに鮮烈に感じ取った。  玲凛が紅蘭へ旅している間に、都の季節は移り変わった。歌仙を発つ頃には蕾だった白梅も、今を盛りと花開いた。  今年は、二度、春を迎えた気がする。  遅れてやってきた紅蘭の春は、玲凛に遠く旅した実感を与えた。  日差しの温もりは、少し物足りない。が、動くには爽やかな朝だ。自然と、駆け足になる。  薄桃の袍に、濃茶の裳、黒足袋に手製の牛皮の靴。腰には、緋色と群青の二振りの太刀。揺らす髪は小さな髷を結って横髪をまとめ、金色に垂れる步搖を差している。彫りの深い顔立ちに凛々しい目元が、常人ならざる気迫を宿す。  初参者とは思われない確かな足取りで、玲凛は暁番屋を目指していた。  昨日、厩舎の都合で預けていた愛馬を迎えにいくのである。今頃、犀星の邸宅では、四頭目の馬を迎え入れるため、厩舎の増築が慌ただしく進んでいるはずだった。  南東の宿場町での騒動の話は、一夜のうちに暁隊に広まっていた。  あの力自慢の旦次が敵わなかった相手を、一刀の下に沈めた女。歌仙では熊を素手で仕留めていたらしい、との話までが口から口に伝えられた。しかもそれが、歌仙親王の従兄妹であり、悌君の妹である。  玲一族には、関わらない方がいい。  玲凛の登場は、犀星の数少ない頼れる『友人』をさらに減らした。  今、玲凛の歩みを止めるものはいない。  ゆるく温み始めた風の中を、玲凛の黒髪が美しく波打って、軌跡を描いてゆく。猛者として、既に名を馳せてしまった彼女のあどけない頬に、柔らかな春の日差しが溶けていた。  暁番屋の前では、門番が形だけの寝ずの番をしていた。塀にもたれて、うつらうつらしながら交代が来るのを待っている。 「おはよう!」  呼び起こされ、眠たい目を擦りながら、門番が顔を上げると、そこにはキラキラとした少女が一人。あまりに場違いなその雰囲気に、夢でも見ているのかとまた目をこする。 「馬を引き取りに来たんだけど」  何を言っているのか、門番は理解できなかった。改めて少女を見れば、その細い体に似合わぬ二振りの刀が、腰に下がっている。しかも、群青の大太刀のほうは、見た目にも上物とわかる。  眩しげに、門番は目を細めた。 「馬?」  玲凛は大きくうなずいた。 「屋敷の厩舎がいっぱいだったから、こちらに預けたのだけど?」  玲凛は、上目遣いに門番をねめあげた。 「まさか、どこかにやったりしてないでしょうね?」  突然の喧嘩腰に、門番は一瞬ひるんだ。ひるんでしまってから、どうしてこんな少女相手に自分が圧を受けたのかと、不思議に思う。玲凛の凄みは本物だ。  暁隊は決して、気の弱い集団ではない。むしろ、どんな荒事にも動じない胆力は、皆が持ち合わせている。間違っても、少女一人を相手に臆するなどありえなかった。  門番は誰にも見られていないことを確かめてから、一つ咳払いをした。 「馬というのは?」 「薫風。栗毛の牝馬……」  玲凛が眉をしかめた。ただそれだけのことで、何かとてつもなくも良くないことが起こりそうな気配がある。 「勝手に通すわけには……」 「は?」  玲凛の声が、門番を後じさらせた。 「おい、女!」  下がってしまってから、門番は慌てて去勢を張った。 「だ、だいたい、おまえは誰だ、名乗りもせずに?」  精一杯の勇気で、門番は言い返した。だが、玲凛には涼風同然の気迫だった。 「南陵郡歌仙の、玲仲咲。蓮章様に伝えて貰えばわかるわ」 「……歌仙の……玲……だと!」  門番の顔が青ざめた。 「熊殺しか!」 「はい?」  意味不明な反応に、玲凛は苛立った。 「とにかく、通して。蓮章様、中にいるんでしょう?」  遠慮なく、玲凛は門番の脇をすり抜けた。 「ま、待て……」  キッと睨まれて、門番はそれ以上、何も言えなかった。  つかつかと詰所の前室に入ってきた少女に、当直でたむろしていた数名が驚いて立ち上がった。玲凛は隊士たちを一瞥し、 「蓮章様はどこ?」  一瞬、目配せしてから、隊士は恐る恐る道を開けた。  何も言わず、玲凛は奥へ進んだ。  逆らったら殺される。  そんな思いが、隊士たちの顔に浮かんでいた。  玲凛は気配を頼りに、明かりのない廊下を進み、物音がした部屋をのぞいた。  こちらに気がついて、几案の前に座っていた蓮章が深いため息をついた。 「おはよう」  玲凛はにこりともせずに踏み込んだ。 「薫風を迎えにきたのだけど……?」 「ああ」  蓮章は柔らかい横髪を耳に掻き上げた。美しい顔は、玲凛の目にさえ色っぽく映った。 「今、朝の世話をさせている。それが済んだら連れて行け」 「それはどうも」  言いながら、玲凛はちらっと几案の上を見た。  木簡や竹簡、布切れに囲まれて、二の腕ほどの長さの鉄の棒が置かれている。片方の先端には薄い四角の面があり、見たところ、物騒な代物のようだった。 「まさか、薫風に焼印なんて……」 「するもんか! どこまで信用してないんだよ」  蓮章はもう一段、ため息を深くした。その中には、一向に進まない傷害事件捜査への憤慨もあった。 「厩舎は裏手だ。廊下を左に折れて進めばわかる。行け」  追い払うように、蓮章は手を振った。玲凛は一つ鼻を鳴らし、何気なく机上を眺め、足を止めた。  その表情に、じんわりと警戒が滲み、几案の上の一点を見る。 「なんだ?」  蓮章は顔を上げた。玲凛の視線の先を追う。そこには、焼印の写しがあった。  玲凛は几案を回り込み、焼印を覗いた。印面を見つめたまま、険しい表情をしている。それがどんな使われ方をしたのか、都に来たばかりの玲凛は知らないはずなのだが、その顔は明らかに嫌悪を宿していた。 「あんた、これ、どうするつもり?」  玲凛は、脅す声色で言った。蓮章は眉を寄せた。 「どういう意味だ?」 「こんなもの、気軽に扱うものじゃない」 「誰も、好き好んで抱えてるわけじゃない。事件の証拠品だ」 「事件?」  玲凛はじっと蓮章を見た。 「おまえには関係ない」  蓮章はさっさと片付けようと、焼印に手を伸ばした。 「!」  すばやく、その手首を玲凛が掴み止めた。蓮章の目がぴくり、とする。それは、彼が知っている花街の女の指ではなかった。白く細いが、握力が桁違いだ。 「話して」 「あん?」 「事件、って何?」 「だから、関係ないと……」 「どんな事件?」 「しつこいな」 「言いなさい」  玲凛の口調は荒くはないが、有無を言わさぬ凄みは強烈である。蓮章の手首に、玲凛の指が、ギシと食い込む。利き手を封じられては、どうにも居心地が悪い。しかも、咄嗟のこととはいえ、玲凛の方は左手だ。本能的に優位に立つ。  町の連中が知ってる程度のことなら…… 「手を離せ。そうしたら教えてやる」  蓮章に嘘がないことを察して、玲凛は手を引いた。鮮やかに指の跡が残されていた。蓮章はそれを撫でながら、昨年秋から続いていた花街の事件について、かいつまんで説明した。 「結局、現在の生存者は二名だ。それも、長くはもたないだろう」  最後に、現状を付け加え、蓮章は黙った。  話している間、ずっと声の震えを堪えていた。犯人の理不尽に対する怒り。そこには、蓮章個人が失った、大切な命への思いがあった。  変わり果てた姿でこの世を去った娘の姿は、生涯、忘れることはできないだろう。 「……これで、満足か? わかったら、馬を連れて……」 「あんたたち、これがただの傷害事件だって考えているの?」  玲凛からの問いかけに、蓮章は顔色を変えた。 「どういう意味だ?」 「だからさ、犯人が単に、怪我をさせただけだと思っているわけ?」 「……他に、目的があったというのか?」  玲凛は、じっと焼印とその写しを睨みつけ、唇を引き結んでいる。 「凛、何か知っているのか?」  蓮章は、わずかな変化も見逃すまいと、玲凛の様子を伺った。動揺は顔よりも体に現れる。しかし、玲凛は指先ひとつ、動かさない。隙がないとはこのことだ。 「知っていることを、話してくれないか」  今までで一番、蓮章は丁寧な言い方をした。口惜しいが、自分たちでは手詰まりだ。もし、何か情報があるのだとしたら、藁でも掴みたかった。 「どうして私があんたに協力しなきゃいけないわけ?」  突然の言葉に、蓮章が返答に窮する。 「そんなことして、私に何か得なことが?」  そう言いかけて、玲凛は口を閉ざした。  蓮章の灰色の左目に、ちら、と焦りが浮かぶ。色薄い瞼が苦しげに歪んだ。  玲凛は見逃さなかった。蓮章にとって、これは数ある事件の一つではないのだ。おそらくは、心深くに傷を負った、特別なものに違いない。玲凛は直感した。  素直な奴。  涼景が彼を信用するのも理解できる気がした。玲凛は一度、息をついた。 「そうか、あんたの大事な人も、犠牲になったんだね」  蓮章の目が、見開かれた。  加良……  膝の上で、握る手に力が入る。  わずか十六歳、会ったばかりの娘に、見透かされるとは思わなかった。  涼景は玲凛の武術を褒めたが、蓮章はその観察眼に恐れ入った。このような鋭い相手に、ごまかしは通用しない。むしろ、隠そうとすればするほどに、本心が透けてしまう。  蓮章は、どこか諦めたように頬杖をつき、遠くを見る。美しい顔に、儚い色気がたゆたう。 「どうしても、犯人を見つけたい。力を貸して欲しい」 「案外、純情じゃない」 「大した礼はできないが……」  玲凛は蓮章の向かいに遠慮なく座った。そして同じように肘をついて蓮章を眺めた。 「美味しいもの、奢って。それでいいわ」 「教えてくれるのか?」  わかりやすく、蓮章の顔が晴れた。 「教えることは教える。でも……」  反して、玲凛は少し表情を曇らせる。 「だからって、すぐに犯人が見つかると思わないで」 「かまわない。なんでもいい。どんなわずかなことでも」  蓮章はいつになく真剣だった。  癖のある性格の玲凛だったが、これで以外と情には厚い。  玲凛は姿勢を正した。そっと懐から一枚の札を取り出す。薄く、木簡の半分ほどの大きさで、表面には何か文字が刻まれている。護符の類だろうと蓮章は思った。  玲凛はそれを机上に置き、自分の正面に据えた。それから指先を札に乗せ、話し始める。 「『傀儡』というものを、知っている?」  蓮章には心当たりがなかった。 「涼景様は何も言ってないのね」 「涼は……知ってるのか?」 「そのはずだけど」  蓮章の胸に、かすかに寂しいものが吹いたが、今はそこにこだわっている場合ではない。すぐに思い直す。 「それはなんだ?」 「『怨霊』と言えばわかるかしら。厳密には少し違うけれど、それが想像しやすいと思う」  突然に現実味に乏しい話題を振られて、蓮章の眉間に皺がよる。玲凛は声を抑えた。 「信じるかどうかは勝手だけど、とにかく今はそういうものだと思っていて」  玲凛は一つ、前置きをしてから、 「人が深い恨みや怒り、悲しみなどの情を抱いて命を落とすと、その魂がこの世界に形を持って残る。それは、目には見えないし、声も聞こえない。だから普段は気づかないけれど、結構その辺にいる」  ぞっとして、蓮章は体をびくつかせた。

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