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6 新緑は風に唄う(2)

「大丈夫。普段は危害はない。けれど、傀儡と共鳴することにより、体を取られてしまう」  蓮章は玲凛の説明に必死に食らいついたが、あまりに飛躍した内容に困惑を隠しきれなかった。玲凛はそれを察した。 「例えば……」  玲凛は少し考えて、 「大切なものを失って、悲しみながら死んだ人がいるとする。その人は傀儡として、ずっとその場所に残る。亡くなった場所にね。そして同じように何かを失った悲しみを抱えていたり、その人のことを知っていて哀れんだりする人が近づくと、その人に取り付く」 「共感する者に?」 「そう。だから、たちが悪いの。たいていは親族や友人につくことが多い」  蓮章は初めて聞く話を、一つ一つ自分の中で咀嚼し、理解していった。  玲凛はさらに続けた。 「傀儡に操られると、自分の意識がなくなる。悲しみや怒りに囚われたまま、大抵は暴れて周りを傷つけたりする。めちゃくちゃに動くから、取り憑かれた人の体も壊れる……」  玲凛は、何かを思い出したらしかった。忌まわしい感情が、一瞬、表情をかすめた。 「とにかく厄介なの。詳しいことは陽兄様に聞いて。私より、よく知ってるから」 「陽は、その傀儡ってやつに関わってきたのか」  蓮章は、都に来てすぐの玲陽を思い出した。  酷く心がすり減っていた。どんな経験をしてきたのか、詳しいことは聞かなかったが、今の玲凛の話から、なんとなく想像がついた。  この世ならざるもの。人の触れてはならない世界に触れすぎたのだろう。  蓮章は今一度、焼印を見た。 「その傀儡と、この印。どういう関係がある?」  自分の言葉を確かめるように、蓮章はゆっくり言った。合わせて、玲凛も口調を緩める。 「普段、傀儡は自分が死んだ場所に残るの。そこからあまり動かない。動けないと言ったほうがいいかな」  玲凛は、視線だけを、焼印の写しに向けた。 「でも、この印は、呼び寄せる。磁力を持った石が、砂鉄を吸い寄せるみたいにね」 「この印が引き寄せる?」 「この文様には意味があるの。一定の法則に添って作られてる」  落ち着きを払っているが、見るのも忌まわしい、という思いが、玲凛から感じられた。 「呪いの文様を作成するには、自分の真名を使うの」  蓮章は眉を寄せた。玲凛の話には、いちいち聞きなれない言葉が使われる。理解が追いつかない。  玲凛は、ゆっくりと話した。 「真名は、自分の本当の名前。誰にも言わず、教えることもない。その名前の字を変形させて、文様を作る。自分の願いを込めて」 「『呪うこと』を『願う』か」 「そういうこと」  静かに、玲凛は頷いた。 「理解はした。そうやって、誰かが作ったのが、この文様……それを刻むための焼印だと?」 「そうなる。事の重大性、わかってくれた?」  蓮章はしばし黙り、それから、頷いた。 「誰かが、女郎の体に印を刻み、その体に傀儡を集めようとした……」 「そう。傀儡はその人の生命力を食らいながら、大きく成長していく。やがて、誰かを操るほどに」  二人の間に、わずかに沈黙が挟まる。蓮章が静かにそれを破った。 「この印が、もとはどんな文字だったかわかるか?」 「文字は、わかる」  けれど、と、玲凛は少し悔しそうな顔をした。 「でも、それは真名だから、誰なのかはわからない」  そう言って、玲凛は机の上に指先で一つ、字を書いた。  軌跡をたどって、蓮章がつぶやく。 「『詩』」  玲凛はうなずいた。 「この文字を真名に持つ人が作ったのは間違いない。でも、それは探しようがないわ」  その文字を名に持つ人間なら、何人か心当たりがあった。だが、それはあくまでも蓮章が知る名であり、その人物の隠された名ではない。 「私にわかるのは、ここまでよ」  玲凛は、そっと護符を撫で、指先でつまんで、また胸元に戻した。机の上の図案から目を背ける。 「片付けて欲しい」  蓮章は、手早くそれをたたみ、玲凛の目に触れないよう、焼印とともに木箱に収めた。  ほっと息をついて、玲凛は蓮章を盗み見た。  ただでさえ色の白い蓮章の頬が、さらに青くなっている。  自分の話を信じてくれたようだが、それは彼を余計に追い詰めたようでもある。  張りつめた空気。玲凛は蓮章のまとう気配に危うさを感じた。  こいつ、見かけによらず、相当、情が深い。  玲凛の勘が正しければ、蓮章はおそらく、傀儡に心を寄せ、同情し、共鳴してしまうだろう。  生まれながらに、玲凛には人の本質を見抜く目があった。  さまざまに思いを巡らせ、玲凛は口を開いた。 「私にどこまでできるかわからないけれど、被害者に会わせてもらえない?」  蓮章には、思わぬ申し出だった。 「……会うことはできるが」  蓮章は口元を手で覆い、言い淀んだ。 「皆、心が壊れている。まともに会話はできない」 「それでもいいの。どうせ、もう、誰にも助けることはできない。でも、このままにしておくと、その人たちの印のせいで、さらによくないことが起こる。破壊しておく必要がある。もし、傀儡が集まってきたら、取り憑かれる人たちが出る」  たぶん、あなたも。  心で、そう呟き、 「そうなったら……」  玲凛は眉を顰めた。  そうなれば、また、陽兄様が傀儡喰らいで苦しむことになる。  蓮章は考えた。  玲凛の話が真実ならば、この案件はあまりにも複雑で、底が知れなかった。玲家の力が必要なのかもしれない。 「これ以上の被害を食い止められるなら」  蓮章は腹を決めた。 「力を貸してもらいたい」  玲凛が小さくうなずいた。  ただし、と蓮章は付け加えた。 「危ない真似はするな。俺も一緒に行かせてもらう」 「当然。奢ってもらうんだから」  口調は砕けていたが、玲凛の表情は真剣だった。  今はむしろ、蓮章を一人にする方が心配だった。  そしてそれは、期せずして、蓮章にとっても同じだった。  万が一にも玲凛の身に何かあれば、蓮章は無事ではいられない。  彼女は、仮にも親王の従兄妹である。さらに、あのおとなしそうに見えて、実は気性の激しい玲陽の妹だ。若い娘を花街に連れ込んだとなれば、師匠の慈圓も黙ってはいない。何よりも、玲凛の力量を買っている涼景が、自分を責めるのは火を見るより明らかだ。  全員から袋叩きにされる。  玲凛には、傷一つ、つけるわけにはいかなかった。  東雨は玲陽から預かった木簡の束を抱いて、ひとり、市場に来た。  春先の市場の匂いは軽い。冬場は生姜や|大蒜《にんにく》が空気を席巻する。だが、春になるとそこに甘さや塩辛さが混じってくる。風がふんわりと柔らかく溶けるようだ。  そんな市場を、東雨は少し緊張した顔で歩いていた。  人々の流れは暖かくなるにつれて増え、その表情にはようやく終わった冬への安堵が見られる。  昼近くの時刻である。午前中は、ずっと屋敷の厩舎の増築に当たっていた。玲凛が馬を一頭連れてくることになっている。犀星と玲陽と東雨、そして不運にもこの日の屋敷警護にあたっていた暁隊の手を借りて、どうにか急拵えの厩舎を作った。  東雨は、玲凛のことが嫌いではない。だが、怖い。何を考えているのかよくわからない上、すぐに怒りだす。要するに、苦手なのだ。  だが、このまま引き下がるつもりはない。ここは都だ。東雨の生まれ故郷だ。堂々としていれば良い。  とは言っても、やはり、玲凛は親王の従兄妹であり、東雨にとって目上の存在であることに変わりはない。しかも同時に、義理の妹にあたるという最悪な関係性だ。  やりにくいなぁ。  犀星も玲陽も、気にしなくて良いと笑ってくれた。  気にしないのはいいとして、馬鹿にされるのだけはごめんだった。  すでに、剣術では敵わないと諦めている。  東雨にも、矜持らしきものがある。せめて、何かで成果を出したかった。  頑張ろう!  東雨は、さらに表情を引き締めた。  果物の荷車が気になる。蜜柑が山の形に積まれている。今年、最後の蜜柑だろう。甘酸っぱい果汁が懐かしかった。  小料理屋の前を通ると、一際強く、韮の焼き餅の香りが鼻にきた。刻んだ韮、卵、豚肉の餡を米粉の薄い皮で包み、炭火で香ばしく焼いている。  ご馳走だ……  東雨は、旨そうな匂いの染みた唾を飲み込んだ。  だが、足は止めない。今、東雨が調べるべきは、季節の味覚ではない。  数々の誘惑を超えて、市場の奥の、少し離れた大きな構えの店に向かう。にぎやかに店の者たちと客のやりとりがある。一歩後ろで堂々とした大柄な男が、全体の様子を監督していた。 「おじさん!」  東雨は明るく声をかけた。 「うん?」  魚商の主人は、少し意外そうな顔をして、それからすぐに人の良い笑顔になった。 「東雨! 久しぶりじゃないか。どうしてた?」 「いろいろ忙しくて」  東雨は笑い返した。  まさか、生死の境をさまよう怪我を負っていました、とは言えない。ついでにもう、俺は東雨ではありません、とも。 「ここの魚、美味しいから、またよろしくお願いします」 「なんだぁ? 値切りをよろしくってことか?」  からかわれても、東雨はにこにこと笑うだけだ。  とっくに子供という年齢を過ぎ、少年とも呼べず立派な青年だ。  だが、元来のその幼い顔と明るい気性は、いつまでたっても都の者たちに可愛がられる。 「今日は何が欲しい? いい鮎が入ってるぞ。生姜と塩で煮込んでだなぁ……」 「ああ、いえ。今日は魚を買いに来たんじゃないんです」  東雨は真面目ぶって姿勢を正した。それに主人も気がついた。 「うん? ずいぶんとかしこまってどうした?」  東雨は背筋をぴっと伸ばした。それから慣れないよそ行きの声で、 「五亨庵の東雨です」  主人は不思議そうに首をかしげた。 「そんなこと知ってる」 「ですよね」  東雨は照れて笑った。  ここでは、やはり、自分はただの、東雨なのだ。 「少し、話をお聞きしたいのですが」  主人は、すっかり驚いた顔で見下ろした。目をぱちくりさせて、東雨も見返す。 「なんだかよくわからないが、真面目な話みたいだな」 「はい、実は……」  東雨は簡単に、ここへ来た経緯を説明した。 「なるほど、歌仙様に仕事を任されるとは」  立派になったものだ、と、主人はしみじみと何度もうなずいた。 「よし、そうとなりゃ、力になるぞ。おまえの初仕事だもんな」 「初仕事って……それじゃ俺が今まで何もしてなかったみたいじゃないですか」  少し口をとがらせる。 「細かいことは気にするな」  言って、主人は軒下の長榻を勧めた。東雨は、ハッとした。以前から、犀星がこうやって、人々の話を聞いていた姿を思い出す。自分が同じことをする日がくるなど、想像もしていなかった。 「……照れる」 「え?」 「いえ、何でもないです」  東雨は素直に主人の隣に腰掛けた。その顔は少し誇らしくも見えた。 「それで、何が聞きたい?」  東雨は懐から木簡の束を出して順番を揃えた。玲陽が、必要な質問をまとめてくれている。 「いろいろと。わかる範囲で構いませんので」 「……おまえ、何だか役人みたいだな」 「えっ!」  木簡を探る手が止まり、東雨は拗ねたように主人を見た。主人はニヤリとした。東雨が役人嫌いな事はよく知っている。 「そう、力むな。歌仙様に頼まれて緊張しているのかもしれないが、いつものおまえでいいんだよ」  主人の声は優しかった。東雨はフッと息を吐いた。 「はい」  素直に頷く。横目でやりとりを見ていた店の者達が、ちらっと笑うのが聞こえた。 「あの、亀池って知ってます? 正式には、青龍池」  主人は首をかしげた。すぐには思い出せないらしい。東雨は続けた。 「北東にある、昔作った養殖池だとか」  主人は少し眉を寄せてから、ぱっと目を開き、手を打った。 「ああ。腐れ池のことか」  腐れ池……?

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