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6 新緑は風に唄う(3)
その言い方には、明らかなあざけりがあった。主人はニヤニヤしながら、
「あれは最悪だった。当時、穴だけ掘って水溜めてな。とりあえず、魚さえ入れときゃ勝手に増えるだろうって。結局、水は濁るは魚は腐るわで、散々よ。あの池から引いた水は、今でも時々、妙な匂いがするくらいだ」
東雨は首をかしげながら、
「しっかり作らなかったんですか? 確か、粘土とか竹とか…… あと、水門で流れを調節する必要があるとか」
「金がなかったんだとよ」
「ああ……」
今も昔も、結局それか。
東雨は苦笑し、納得する。
「あんな馬鹿げたことやろうとするやつの気が知れん」
東雨の笑顔がそのまま凍りついた。
「その馬鹿げたこと、今度は歌仙様がやることになったのか?」
「元をたどれば、もっと偉い人からの嫌がらせです」
東雨は思い切り、困った顔をした。それを見て、主人も苦笑いする。察したらしい。
「まぁ、歌仙様なら、きっと、うまくやってくれるだろ」
どういうわけか、街の者たちは犀星に対して無条件で協力的だ。どんな無理難題であっても、どうにかなるだろう、と気楽に信頼を寄せる。
これが若様の魅力だよな。
心の中で、東雨はニヤニヤした。
「それで、何が聞きたい?」
主人は堂々と迎え撃つように言う。実に頼もしい。
東雨は、携帯用の硯を脇に置き、小筆と木簡を構えた。玲陽の質問が書かれた裏に、回答を書いていく。
「俺、宮中の池を泳いでる魚くらいしかわからないんですけど、食べるために育てるとしたら、どんな種類がいいんですか?」
主人は神妙な顔で腕を組んだ。
「まずは鯉だな。丈夫で育てやすい。最近は祝い事にも使う縁起物だ。特に黒い模様だと、高く売れる」
池にいるやつだ、と東雨は書き込んだ。
「鮎は春から初夏の売れ筋だが、綺麗な流れのある池じゃなきゃ無理だぞ」
「水の流れを操るなら、若様にお任せください」
東雨はにこっとして胸を張る。水害の恐ろしさは知っているが、犀星ならばどうにかしてくれるだろう、という自信がある。
主人はさらに続けた。
「|鯰《なまず》は下魚扱いだが、冬の鍋には引きがある。市場じゃ意外と重宝される」
「鍋……」
東雨の頭の中で、ぐつぐつと煮たつ鍋料理が想像される。
「葱に韮に、生姜も入れたいなぁ。大根は飾り切りにして…… |木耳《きくらげ》、椎茸と戻し汁で味を添えて、豆腐に羊肉なんて入れたら豪華だなぁ」
「おお、いいねぇ、陳皮も加えると臭みも消えて……」
ふたりの話は鍋の中身に脱線した。
背後のやりとりに聞き耳をたてて聞いている店の衆たちは、そのつど、目線をかわしてにこやかな顔をする。
彼らにとっても、東雨は古くから知る親戚の子どものようである。
「逆に、避けた方いい魚もいるぞ」
主人は唇をニッと横に結んで、
「|鮒《ふな》は増えすぎるし臭いがひどい。泥抜きが甘いと売り物にならん」
「手間がかかるんですね」
「同じ池で飼うなら、他の魚にもよくない影響がでやすい」
「なるほど」
東雨はさらさらと小筆を走らせた。
「|鰻《うなぎ》は高値だが、手間がかかりすぎる。下手にやると死ぬ」
「うーん、手頃に食べられるようになると嬉しかったけど、難しいんですね」
「生き物を育てるってのは、そういうことだ」
なにやら妙に納得した顔で、主人はうなずいた。
東雨はひとつ、気になっていたことを尋ねた。
「|鼈《すっぽん》、ってどうなんですか?」
ああ、と、主人の顔が笑った。過去の失敗を思い出したらしい。
「あいつらは魚というより、気の荒い獣だ。池の底に泥を敷き、冬はそこで眠らせねばならん。水は常に流れを作れ。淀んだ水ではすぐに病む」
「なんか、贅沢……」
一瞬、東雨の脳裏に玲凛の顔がちらついた。
「餌は肉片でも小魚でもいいが、余計なものを与えれば泥臭くなる」
「肉片……」
「屠殺場で出るくずでも十分だ」
「それなら……」
金がかからない。東雨はにやっとしたが、
「出荷まで二年は見ておけ」
「ええっ!」
すぐに夢はやぶれた。
「二年……ですか」
「では、鯉、鮎、鯰ってところがちょうどいい感じですね? なんだか地味だけど」
「最初は、そんなものだろう。それだって、うまくいけば大儲けだぞ」
大儲け……
いまだかつて、犀星が引き受けた仕事には、決して縁のない言葉だった。
東雨は木簡をめくった。
「次に、魚の運び方について、何か希望とかありますか?」
「そりゃ、鮮度だろ」
堂々と、主人は言い切った。
「池から市場まで一日以内だな。夏場なら半日以内。これを外すと鮮度が落ちる」
「方法としては?」
「鯉や鯰は生かしたまま運ぶのが望ましい。都じゃ生き締めを好む料理屋も多いしな」
「桶にいれて、泳がせながら……」
東雨は、巨大な風呂桶を引きずる荷車を想像した。
「それ、結構大変なんじゃ……」
「だからこそ、高く売れるんだ」
高く売れる……
再び東雨の目が輝き、木札に書き付ける。
「生きたまま運べない場合は、すぐに絞めた方がいい。池のそばに魚房を置いて管理すると、出荷量も調整できる。塩締めや干物にもできるが、それでも二日が限度、ってところか」
「おじさん、詳しい!」
東雨に褒められて、主人は満面の笑みだ。
「若い頃は、海沿いの魚房で修行してたんだ。あの頃は海水魚だったが、基本は変わらない」
内陸の紅蘭育ちの東雨は、海を見たことがない。
話を聞いてみたかったが、今は仕事が優先だ。
かろうじて、東雨の使命感が好奇心に打ち勝った。
「ところで」
と、今度は主人のほうから問いかけた。
「養殖では、どれくらいの数が出る? 鯉なら月に千尾単位で捌けるが、安定供給はできるのか?」
「千尾!」
東雨が驚き、聞きつけた店の連中が笑った。
「そ、そんなにたくさん、必要なんですか?」
その声は動揺に震えている。
「まぁ、腐れ池……養殖池だけに頼るわけではないが、いずれはそれくらい期待したいものだ」
千匹の鯉の群れなど、東雨の想像を超えている。
「鮎は旬ものだから、夏前から初秋まで集中して出す形になる」
主人の言葉は、ぼんやりと鰯雲を眺める東雨の耳を通り過ぎて言った。
「冬は魚の動きが鈍る。そこをどう補うかが課題だ。婚礼や祭りの前は一気に需要が跳ね上がる。備えられるか?」
東雨は少し泣きそうな顔になった。
思っていたよりも、はるかに情報量が多い。そして、難しそうだ。
主人も、かわいそうだと思ったらしく、首を振った。
「全部、一度にやろうとするな。相手は生き物だ。こちらの思ったようには動かない」
すっかり、肩を落とした東雨に、主人はどうしたものかと唸ってしまった。
「とりあえず、やれる範囲で、気をつけてみるのはどうだ?」
「やれる範囲?」
聞く前から、すでに東雨は涙目だ。
主人は、できるかぎり口調をやわらげた。
「泥抜きは必須だ。臭いが残った魚なんざ誰も買わん。病気や死魚が混じったら、市場で俺の首が飛ぶ。絶対に避けろ」
「…………」
「あとな。値崩れは困る。池の魚だからって安売りはなしだ。下手すりゃ、養殖じゃ天然物より高くつく。そこ、理解しとけよ」
理解どころか、東雨は話についていけていない。
「一度でも悪い魚が出回れば、腐れ池の魚って笑いものだ。絶対に失敗できねぇ。わかるな?」
東雨は唇を引き結んで、下を向き、うなずいた。
犀星に恥はかかせられない。
袖でぐいっと目を拭うと、一つ、気持ちを切り替える息を吐き出した。
「教えてくれて、ありがとうございます」
声はまだ少し震えていたが、強い決意がその目には宿っていた。そして、無理をした笑顔を見せる。
町の者たちは、東雨のこの顔にほろりとくる。
「こいつを持っていけ」
主人は、土産に、と藁包みを東雨に手渡した。
「貴重だぞ。今夜、すぐに夕食にしろ」
「……これは?」
手の中で小石がぶつかるような音がする。東雨がそっと藁をめくると、
小さな貝が一山、湿った海藻に包まれている。ふわりと、不思議な香りがした。
「今朝届いたばかりの|浅蜊《あさり》。海の香りも一緒にお届けだ」
東雨は、小さく泡を吹いている貝を凝視した。
「触ってみろ」
東雨は、おそるおそる、縞模様の表面に触れた。とたんに、貝がパタンと閉じる。
「わ……動いた! これ……生きてる?」
「船だ。沿岸で獲ったやつを籠詰めにして、濡らした藁をかけて運ぶ。春先なら三日は持つ」
「新鮮な海のものなんて……こんな高そう……貴重なもの、いいんですか?」
「先行投資ってことにしといてやる」
主人は片目を瞑った。
「そのかわり、養殖がうまくいったら、贔屓にしてくれよ」
東雨は、ようやく、安心した笑みを浮かべた。
五亨庵が抱えた問題が決して簡単ではないことが、よくわかった。それでも、こうして協力を惜しまず、応援してくれる者たちがいる。
若様がしてきたことって、こういうことなんだ。
東雨はあらためて、犀星の努力に思いを馳せた。
夕立が過ぎ、あたりは大地からの湿気にむせかえるほど、息苦しかった。
太久江から別れてすぐ、伍江の流れの上流に、古くに打ち捨てられた池が、荒れ放題に風雨に晒されていた。
亀池。
正しくは玄武池と呼ばれた、かつての開発の名残である。
当時の皇帝で会った蕭白は、この場所に執着を示した。
玄武池の一帯を掘り起こし、養殖池という名目のもと、土地を荒らした。
今からさかのぼること、三十年以上前の話である。
当時、陰陽官として見習いで会った紀宗は、師匠とともにこの事業に深く関わっていた。
魚の養殖と陰陽、一見すると何のつながりもないように見えながら、そこには深い因果があった。
それを知る者は、今はもう、少ない。
数名の補佐官を連れ、紀宗は玄武池のほとりに立った。
曇天のもと、風は緩く、紀宗にはそこに瘴気すら感じた。川の周辺は泥炭が広がり、その上に赤っぽい砂が堆積している。大雨のたびに氾濫を繰り返し、人々を遠ざけていた。
伍江の流れは深く力強い。玄武池の水はゆっくりと下流へ押し流される。無計画に掘り起こされた池は大半が崩れ、岸は崩れ放題となり、露頭が至る所に見られた。当初予定されていた池の外観はとうに失われていた。
「紀宗様」
補佐官の一人が、小柄な紀宗の倍はある体をかがめて、話しかけた。
「五亨庵は、本当に、ここを再生できるのでしょうか?」
紀宗は細い目をより細くした。
「魚など育たぬ」
きっぱりと、紀宗は言った。
「ここで育つのは、呪詛よ」
その声には、複雑な思案がにじんでいた。
補佐官たちは顔を見合わせ、不気味そうにあたりを見回した。
太久江も、伍江も、何百年の間に繰り返された北方との戦いにおいて、戦場となってきた場所である。
この川底にも、泥濘の底にも、数知れない報われない魂が渦巻いているに違いなかった。
養殖池どころか、近づくことさえはばかられる場所である。
「呪詛を育てる、とは?」
恐る恐る、大柄な補佐官が尋ねた。紀宗は面倒そうに、口を薄く開けて、
「荒らせば荒らすほど、傀儡は動く。新月の光があればなおのこと」
それ以上、紀宗は何も言わなかった。
彼らは、玄武池と伍江の流れを目で追いながら、その地に眠り、今、目覚めの時を迎えようとしている何かの存在を、強く、感じ取った。
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