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7 心刻む旋律(1)
紅蘭の西に位置する花街は、朝に眠る。
夜通し焚かれたかがり火のくすぶる臭いと、まばらな人影、さやさやと水面に姿を映す柳の新緑。
華やかなこの街が静かになる、そんな一時がこの時刻だった。喧騒の間隙に、蓮章と玲凛は、花街の表門をくぐった。
蓮章にとっては、馴染み深い場所。玲凛にとっては生まれて初めて足を踏み入れる異空間。
二人の足並みは、一歩ずつを確かめる慎重さがあった。
花街の自警団が、ちらりと玲凛を見て近づいてきた。蓮章がそっと目でそれを制する。
自警団が気にしたのは、玲凛の腰にある大刀である。帯刀を罰することはないが、玲凛のような少女が刀を下げるとなると、異例なことだった。しかも、二振りである。
自警団はいぶかしんだが、蓮章が頷くのを見て、そのまま通した。
普段は、静かな石畳の道に、紅や桃色、金色の布飾りが揺れている。
そわそわと行き交う人々の姿が普段よりも多い。
見上げると、遊郭の二階の窓から、女たちの踊る姿がちらりと見えた。
道端に座り込んで酒を帯びたまま眠る客がいる一方、せわしなく走り回る下男の姿もある。
細い路地から見習いと思われる少女たちが、何人か二人のそばを通り過ぎていった。ふわりと線香の香りがする。それに混じって、酒やおしろいの匂いも漂ってくる。
玲凛は、物珍しそうにあたりを見ながら、しかし、どこか警戒した空気をまとっている。
「普段はもっと静かだ」
蓮章が言った。
初めて訪れる玲凛には、どこが違うのか、わからなかった。
「もうじき、紅花祭だ。この時期だけは忙しくなる」
「紅花祭?」
「年に一度の花街の祭りだ」
「花街って、毎日がお祭りなのかと思ってた」
率直な玲凛の感想に、蓮章は微笑した。
「確かに浮き立つ場所ではあるが、同時に沈み込む場所でもある」
「あんたは、どっちが好きでここに通うの?」
鋭い質問だった。
「どっちだと思う?」
「わからないから聞いているの」
「俺もお前の意見を聞いている」
二人は、ぱたりと会話を止めた。
どうにも、この相手はやりにくい。
互いに同じことを思う。そっと、顔を背け合う仕草までが鏡写しだった。
「そういえば、星兄様がこの街の治水に関わっていたって聞いたけれど?」
「あぁ。このあたりのは、全部そうだ」
蓮章は、道の左手の水路を指した。
水路は丁寧な石組みで、細部にまで、犀星のこだわりが感じられた。
各所に取水口があり、桶や柄杓で素早く水を汲める。小さな水盤や湧水池を設け、人々が手を浸したり、花を浮かべて楽しむこともできそうだ。
また、深さも幅も計算され、防火対策にも役立っていることがわかる。
機能性ばかりではない。
玲凛は、水路の流れを目で追った。
水路は直線ではなく、あえて緩やかに曲がっている。龍が身をくねらせるような形状は縁起も良い。低く弧を描く半月形の石橋には、繊細な彫刻が施されている。また、随所に小滝が設けられ、涼やかなせせらぎを感じさせる演出もあった。
桜や柳の並木道が水路に沿って続き、季節ごとの美観も味わえる。今は、新緑の柳が波打ち、目に眩しかった。木の下には石製の長榻が置かれて、流れを望みながらくつろげる仕様である。
この発想……やはり、星兄様ね。
玲凛は思った。
犀星が、いつか玲陽と過ごすため、と目論んで、用意したに違いない。
玲凛の勘は鋭い。
雪解けの頃、犀星は玲陽と共に花街を訪れ、長年の夢を果たした。
緩やかに過ぎていく時間。ぬるい風。
蓮章は、少しだけ目を伏せた。
この街に来るのが辛くなったのは、あのころ。
加羅を失い、足が遠のいた。
花街は、蓮章が唯一自分をさらけ出せる場所だった。故郷を奪われた居づらさがつきまとう。それは寂しさでもあった。
道々には祭りの装飾が鮮やかだ。人の話し声も心なし大きく思われる。
いつもと違う顔を見せる花街が、余計によそよそしい。
やがて、街の中央の十字路に差し掛かる。
十字路に面した大きな妓楼は、花街の中でも中心となる大店である。大勢の妓女を抱え、建物も二階造りでひときわ目立つ。紅花祭では、近年、犀星が滞在することでも知られている。
戸口では、女将と若い妓女が衣装や髪飾りの話をしていた。
道の中央では、仮設舞台の設置が始まっていた。今は白木の骨組みだけが、その規模を物語っていた。やがて、漆塗りの床板が貼られ、四隅に柱が立ち、薄布を斜めに掛けた艶やかな屋根が、風になびくだろう。
「これは何?」
玲凛は、見慣れない舞台に目を止めた。
「祭りの中心だ」
蓮章が言った。
「それぞれの妓楼の女たちが、腕を競い合う」
「腕を競う?」
きらっと、玲凛の目が攻撃的に光った。蓮章は無表情になった。
「言っておくが、剣術じゃないぞ」
明らかに興味をなくした、と、玲凛が鼻を鳴らした。
「花街で剣術を競ってどうする?」
「じゃあ、何をやるのよ?」
「芸事に決まってるだろう」
「芸事って?」
「舞や琴、笛や琵琶などか」
玲凛は完全に眼中にない顔である。
「興味ないのか?」
「ない」
「珍しいな」
「どうして?」
「女はそういうもの、好きだろ」
玲凛の目がちらりと、明らかな敵意を持って蓮章を見た。
「そう、女だからね?」
繰り返す声は、少し低くゆっくりだ。
しまった、と蓮章が思ったときには、もう遅い。
「女がみんな、芸事が好きだと思ったら大間違い」
その声には、隠さない苛立ちがある。
蓮章は思わず目を逸らした。完全に、藪を突いて大蛇が飛び出した。
「あんたのちっぽけな価値観で、すべてを考えないことね」
生意気な口調だが、蓮章は何も言えなかった。
玲凛は、今まで蓮章が接してきた女の誰とも違う。
外側と内側がまるで一致しない。
硬質で美しい顔立ちと、少女らしい柔らかな曲線の体を備えながら、中身は旦次に輪をかけた荒っぽさがある。
男勝りの血気盛んな女は知っていたが、玲凛の場合はそれとも違う気がした。掴みどころがない。遠慮なくものを言うが、いちいち、納得してしまう。なぜか憎めなかった。
おい、涼景。こいつ、なんなんだよ。
蓮章は思わず、ここにはいない親友に助けを求めた。
「それで、被害者の人たちはどこ?」
ころりと、玲凛が話題を切り替えた。
熱しやすく、冷めやすい玲凛の性格は、どこか暁隊の連中と似通っている。
「こっちだ」
大通りをそれ、その奥の道に案内する。
一軒の妓楼の軒先をくぐって、慣れた様子で蓮章は中へ入った。
入り口を掃除していた老妓が顔をあげた。
「おや、久しぶり」
口調は親しく、顔見知りである。
「蓮さん、最近ご無沙汰ね。どうしてたの?」
「悪ぃな。近頃は男にハマってる」
蓮章は軽口を叩いた。
注意深く、玲凛はゆっくりついてきた。一気に濃くなる香の香りに、鼻を擦る。
壁には花鳥風月の刺繍が施された布がかけられ、合間には艶かしい女性の姿絵がこちらに流し目を送っている。土間の隅には金魚が泳ぐ鉢があり、水面の光が壁と天井に映って白く揺れている。
部屋の奥からは、たどたどしくつまびく琴の音。回廊を横切って行く少年の姿もある。
物珍しそうに見回す玲凛に、老妓はひょいと顔を向けた。
「あら珍しい。部屋だけでいいのかい?」
「いや、連れじゃない」
蓮章は、一瞬、ひやりとした。幸い、玲凛は何を言われたのか、わかっていない様子である。
「あのふたり、まだ、いるか?」
「……ああ」
老妓は途端に、表情を曇らせた。
「こないだ、北の養生所に移したよ。かわいそうに、もう、どうしようもないってさ」
「そうか……すまない」
「なんも、蓮さんが謝ることじゃないだろ?」
老妓は無理に笑ったが、苦しく見えた。
「行くぞ」
大きな目をきょろきょろと動かして、物珍しそうに伺っている玲凛を促し、蓮章は店を出た。
遊郭が立ち並ぶ地域から離れ、二人は道沿いに北に向かった。
街の北側には、素朴な風景が広がっている。建物の背は低く、白壁や木の平屋建てが目立つ。格子窓の代わりにすだれがかけらた家々が並び、通りは細く入り組んでいる。その間を、丁寧に水路が流れ、何箇所か、溜め池を作っている。
共同の水場には、会話を楽しむ女衆、下働きの男たちが忙しそうに行き交っている。道に遊ぶ子供たちは、ここが色の街であることを忘れさせるほど、自然だった。
花街を訪れる客は多いが、ここまで足を伸ばす者は少ない。蓮章も、よほどの用がない限りは立ち入らない。
杵や布を叩く音、井戸の桶がぶつかる音、鶏や犬の鳴き声に混じって、妓楼の広間から漏れる笛や鼓の音が、遠く聞こえる。
空気は少し湿り気があり、花街独特の香油やおしろいは消え、代わりに乾いた藁や草木、魚を干した匂いまでが漂う。
私はこっちの方が好きだな。
玲凛は素直にそう思った。
ここは、花街の裏の顔である。そして、犀星が最も初めに手をつけた場所でもあった。華やかな表がわではなく、人々が息づく、地に足をつけた場所。それがこの一画だ。
大通りから外れた分、空が広く感じられた。通り沿いに植えられた紅花の木が、わずかに日陰を作っている。そこここに水の音が聞こえ、小さな橋がかかる。まるで子供が遊びで作った庭園のようだ。
小料理屋の軒先を過ぎ、共同浴場を過ぎて、さらにその先に、静かな療養所が広がっていた。ここに通うのは、主に遊女や男娼である。遊郭には様々な客が出入りし、様々な性癖がある。街の医者には見せられない傷も多い。そんな人目をはばかる傷を負った者たちが、自然と集まる。当然、医者も全てを心得ていて、沈黙を守る独特の空気が漂う。
蓮章も、若い頃に何度か世話になったことがあった。あの頃の痛みを思い出して、少し表情が冷める。玲凛は、その変化を素早く横目で感じ取った。だが、何も言わない。すぐに目を療養所の門へと移す。
手前に薬を専門に扱う店があり、その奥には、何軒かの粗末な家が並んでいる。開け放された戸から、天井に下がる太い縄が見えた。軒下には、洗いざらした麻布が干され、春風にかすかに揺れている。
療養所は、簡素な平屋建築で、屋根は葺きになっている。
正面の入り口から入ると、見習いの医師が蓮章を迎えた。事情を話すと、奥へと通される。
玲凛は注意深く状況を確認していた。これは彼女の癖で、いざ何かあったときに備え、通った道は覚えておくのである。利用できる道具も、地形も、ときには人も。すべては本能的に行う情報収集だった。
療養所の中は、思ったより、人が多い。そのほとんどは医師で、その間を縫うようにして、歳の若い見習いが忙しく行き来している。壁には棚が据え付けられ、薬壺や乾燥させた薬草が吊るされている。
回廊を進むと、片側に大部屋があった。広い土間に木製の牀が並べられ、何人もが横たわっている。中には体を起こし、少し安らいだ顔で会話をする者もいる。状態は人それぞれで、怪我もあれば病気もある。産後の回復の遅れなども見られる。
牀の間を医師や見習いが、湯や薬を持ってうろつく。看護役が粥を患者の口元にさじで運ぶ様子もあった。
咳払い、子供の鳴き声、うめき声。時折、強い薬草の香りが鼻をついた。そして、かすかな膿や血の生臭さ。
中庭では、洗い物をする水音が絶え間なく響き、ときには笑い声も聞こえてくる。
回廊を折れ、さらに深くへ進む。通路は次第に薄暗くなり、床板も一部が腐りかけて軋んでいる。壁には、薄い布やすだれがかけられ、明らかに何かを遮断する意図が感じられた。
すだれをくぐると、空気が一段と重くなる。よもぎの香炉が置かれているのは、臭気への対策かと思われた。通路の隅に桶が並んでいた。中を覗く気にはなれない匂いがした。
療養所の本棟から少し離れた位置に、小さな土蔵風の建物がある。
蓮章は、一度そこで立ち止まり、玲凛を振り返った。
無言で、入るぞ、という顔を見せる。
玲凛は黙って頷いた。
狭い入り口を潜ると、そこは濁った気配に満たされていた。
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