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7 心刻む旋律(2)
土間に直接むしろが敷かれ、その上に一人ずつ、女が横たわっている。窓は小さく、格子に薄布がかかるのみで、ほとんど光が入らない。空気は重く匂いが濃い。食事は重湯を無理やり流し込んでいるようだが、それ以外に人が近づくことはない。
玲凛は足元を確かめた。草木灰や、乾燥した香草が敷き詰められている。そのとき、鈍い音がして、片方の女性の尻のあたりがじわりと濡れた。さすがの玲凛もこの状況には言葉が出なかった。蓮章がためらった理由がわかった。
玲凛の肌に汗が浮いた。蓮章もまた、隣で寡黙に立ち尽くす。灰色の目に、危なげな感情が揺れる。玲凛はそれを見てとると、正面に向き直った。
「あんたは、ここにいて」
小さく、息を吐くように言う。かすかに蓮章の目元が動く。
玲凛は襟から、例の木札を取り出すと、手に握った。
二人の女は、うつ伏せと横向きに転がされ、ただ、そこに置かれているようだった。
玲凛はゆっくりと、うつ伏せの女に歩み寄る。
顔だけ横を向き、手足を投げ出すように伏している。
骨ばった肩から、肉の落ちた喉、尖った顎と、歪んだ頬。
少しずつその表情が近づいてくる。
目は、閉じられていたが、口はわずかに開いていた。唇に、白く、拭き残した何かが乾いてこびりついていた。
麻の単衣が、取り繕うようにかけられているが、腰に帯はなかった。
ああ、死んでる。
玲凛は、そう、思った。
確かに体はまだ、暖かいかもしれない。
しかし、心はとっくに食い尽くされていた。
焼印を押され、悲鳴も上げなかったのは、その時すでに、心がなかったからだ。
札を指先でまさぐり、心を鎮める。
名も知らぬ女郎の、朽ち果てた姿。ともすると、怒りも哀れみも胸を掠める。だが、それらは決して抱いてはならない感情だった。
土蔵の中で確かに蠢く何かが、玲凛の背筋を撫で上げた。首の後ろに柔らかいものが触れ、肩を、つん、と細い指が押す。
目には見えないものが、無数にまとわりついてくる。
玲凛は一度、長く息を吐き出した。札を襟におさめ、腰の刀の柄に右手をかける。それは、大太刀ではなく、朱色の直刀だった。乾いた手触りを握りしめ、左の親指で鍔を押し上げる。
口金が鳴る。その音は、玲凛の肌に響いて、周囲の空気がわなないた。風が、確かに彼女の髪を揺らした。
女を見下ろしたまま、玲凛は寿魔刀を引き抜いた。
かすれた音と共に、鈍く白い刀身があらわになる。
蓮章の目が、惑うようにそれを追った。
寿魔刀の先端を、女の襟首にあて、玲凛は口の中で何かをつぶやいた。刀の先が、ゆっくりと動き、背中に沿って着物をよける。
背骨と肋骨が浮き、栄養を欠いた肌には黒ずんだ斑点が染み出している。その中に、はっきりと異質な火傷。盛り上がった皮膚が、うっすらと滑らかに光る。暗褐色に浮き出す輪郭が、薄い背中の凹凸に沿っていびつに歪む。
寿魔刀の刃なき切先が、文様の上でぴたりと止まった。
玲凛は目を見開いた。視界の中心を文様に据え、その外側へと意識を向ける。
背中にも目が欲しい。
そう思うほどに、あらゆる向きからざわめきが押し寄せていた。
玲凛を見守る蓮章の体は、いつしか小刻みに震え始めていた。
何かが、おかしい。
部屋の臭気に当てられたせいか、横たわる女たちの姿に重ねた面影のためか。それとも玲凛が抜いた刀身の、白魚の腹のような輝きを見たことの動揺か。
蓮章の胸の中にはさざ波のように、静かに、しかし収まることのない震えがあった。その感情に名を与えるのだとしたら、それは、絶望だった。全てを否定し、なきものにする情。
蓮章の体と心には、その虚無がひたひたと染みつつあった。蓮章自身、何を無くしたのかもわからなかった。しかし、拭いがたいその空白は確かに彼自身のものであり、蘇るのは過去に味わった数々の忘れがたい記憶の断片だった。
目の前で傷つけられる友、失われていく命、手を伸ばしても何もつかめない闇の中。
心の奥底に閉じ込めていたそれらの景色が、ずるずると引き出され、まるで、今この瞬間に起きている出来事であるかのような存在感を持って、心を染めてゆく。
どうして突然にそのような気になったのかわからぬまま、確かに蓮章は心奪われていた。
浅く、息が乱れる。その呼吸に、かすかな声が混ざる。
それを聞きつけ、玲凛は視線を走らせた。土蔵の入り口で、かすかに肩を揺らし蓮章が耐えている。その目は見開かれ、顔面は蒼白だった。悪夢の印象がさらに深まり、今にも気を失って崩れるのではないかというか細い生命線で、かろうじて立っている。
玲凛の視線が、蓮章の周りを素早く動いた。空間に、細く黒いものがうっすらと舞う。風に浮かぶ、柔らかい幼女の髪のようでもあった。だが、それは確実に濃さを増し、数を増して、蓮章の周りをゆっくりと旋回し始めた。玲凛は、寿魔刀を強く握る。一歩、蓮章に寄る。
蓮章の目はこちらに向けられているが、玲凛の姿を捉えてはいない。
どこかもっと遠くを、ただ開かれるままに映していた。
「そのままでいて」
呼びかけにも答えない。蓮章の乱れる息は、刻一刻と激しさを増す。
玲凛が恐れていたのは、これだった。
蓮章の中にある、誰かへの思慕。それは、文様に吸い寄せられた傀儡と共鳴する。
この部屋に満ちているのは、全てを失い、呪いながら消えていった魂の残滓だ。それが生きているものの感情に触れたとき、黒く形を持つ。やがて塊をなして、傀儡となる。そして生者の肉体に宿ることによって、再びこの世で力を持つのだ。
そうなる前に斬る。
玲凛は、寿魔刀を構えた。霞のようにたゆたうだけの傀儡の破片相手では、寿魔刀は役に立たない。傀儡が最大となり、蓮章に入り込む、その瞬間を狙う。
あんたを囮にするけど、勘弁してよね。
ぎり、と握りしめた柄が鳴る。
薄紫の蓮章の衣が、周囲に集まる黒い糸をまとってかげりを見せる。糸は、初めはゆっくり、やがて速度を増して収束していく。一つに束ねられ蛇のようにうねり、とぐろ巻き、首をもたげる。
三匹。
玲凛は視認した。三体の傀儡が蓮章の周りを巡っている。乱れた呼吸が漏れる唇をめがけて、傀儡がするすると体を伸ばす。
「動かないで!」
聞こえているかわからない蓮章に、玲凛が叫ぶ。
寿魔刀の刃なき刀身が、蓮章の唇をかすめ、空間を切り裂いた。
じゅっ、と、湿った布の燃える音がして、傀儡は裂かれ、空間に白い光が立ち上る。
残る二体がさらに、蓮章の口を狙う。
構え直し、玲凛は一瞬ためらった。寿魔刀を握る手にしびれが走った。体の中から力が吸い出されていく。
こんなの聞いてない!
わずかな焦りが玲凛の頬に汗となって垂れた。
傀儡を斬る代償について、玲凛は何も知らない。いや、おそらくそれを知る者は玲家にはいない。この刀は常に屋敷の奥底に封じられ、使われることはなかった。誰も、その真価を知らない。
だが、今の玲凛に、迷っている暇はない。対処が遅れれば、確実に蓮章は取り憑かれる。そうなれば、もう一本の太刀で切り捨てるしかなくなる。
目の前に、残り二体の傀儡。宙に浮いたまま、不安定に揺れる。
左側が、蓮章の口元に迫った。玲凛は、真上から叩き切った。空間が、ずっ、と裂けて、燃え上がる音と白い煙。そのまま返す刀で、下から三つ目を切り上げた。白光が散った。
その破片を浴びながら、蓮章の体が崩れ落ちた。膝をつき、力なく倒れ込む。玲凛は素早くそのそばに寄ると、背後に蓮章をかばい、さらに周囲を見渡した。
一瞬、めまいがした。立て続けに二体を斬った。その反動が今になって襲ってくる。
そこかしこから、黒い気配が這い出してくる。横たわる女の背中のあたりに、それらは収束し、そして形をなす。情念を集め、生み出す文様。
この土蔵は今まで、どれだけ無残な死を見送ってきたのだろう。
限りなく集まってくるもの全てを、斬ることはできない。
止めるための方法はただ一つ、文様を破壊すること。
玲凛の手が震える。寿魔刀を左手に持ち替えると、右手で大刀を抜いた。
蓮章は足元に伏したまま顔を上げない。
今しかない。玲凛は迷わなかった。
左手の寿魔刀で傀儡の闇を牽制し、右手の大刀の切っ先で、先ほどの女の文様を傷つけた。呪いの効果を失わせる、重ね文様を描く。
女の周りに集まっていた黒いものが霧散し、視界から消える。
だが、その一部は、もう一人の女の方へと流れて行く。
玲凛は、すぐにもう一人へと進んだ。寿魔刀で、先ほどと同じように着物をはがし、背中をあらわにする。傷口の無残さが目に染みた。
ごめんね。
一瞬、玲凛の中にその感情が生まれただが、それは同時に傀儡に付け入られる隙を作る。
玲凛は素早く、大刀の先で文様を破壊した。
女に変化はなかった。じわりと血がにじんだが、うめきもしない。それは救いであり、悲しいことでもあった。
視界が、次第に平常に戻る。
小屋の中を漂っていた黒い糸が溶けるように消えてゆく。しかし、目に見えなくなっただけで、この場から消えてなくなったわけではない。
今のうちに……
玲凛は蓮章へと歩もうとし、ぐらついた。取り落としそうになる二本の刀をしっかりと握る。杖の代わりにして、どうにか先へ進む。
「蓮章様!」
精一杯の声で玲凛が叫んだ。
それは、切れ切れで今までの彼女になく弱かった。
蓮章の意識が、少しずつ浮き上がる。重いものが落ち、すっと心が晴れていくのを感じた。
何が起きていたのか、ここ少しの間の記憶が抜け落ちている。
顔を上げると、真っ青に青ざめた玲凛が刀を頼りに立っていた。
目があう。玲凛の意識が薄れた。
蓮章は素早く、その体の下に自分の肩を差し入れ、支えた。そのまま、土蔵を出て、入り口から離れる。
清浄な風が、彼らにまとわりついていたものを散らしていく。
蓮章は、玲凛を土の上に座らせた。かろうじて意識はある。だが、全身が脱力している。
「凛、大丈夫か?」
その声に、玲凛は顔を上げ、かすかに笑った。
「生きてるよ」
蓮章はほっと息を吐き出した。
二本の刀を、そっと玲凛の膝元に置いてやる。
朱色の柄に目が止まる。先ほど玲凛が最初に抜いているのを見た。特殊なものだということは、その刀身を見れば明らかだった。
蓮章はちらっと土蔵の入り口を振り返った。一瞬何かが中で蠢いたような気がしたが、それきりしんとする。かすかに、琴の音が聞こえ、笛の音が響いた。
二人とも、全身がぐっしょりと汗に濡れていた。
こういう場合……どうしたものか。
蓮章は、涼しい音を響かせる水路の滝を見つめ、長榻でため息をついた。膝の上に頬杖をつき、組んだ指に顎を乗せる。
わけもわからず、自分の心を何かに蹂躙された疲労感が、痛みすら伴って胸に残されていた。
思考にもやがかかり、うまくものごとが考えられない。
危険な状況に陥った自分を、玲凛が救ってくれたらしい、ということだけは確かだった。
くそ……
相手が玲凛だから、ということはない。
蓮章は、誰かの庇護を受けることは、その矜持が許さない。
あなどられてはならない。暁将軍の、涼景の片腕であるために。
頑ななまでに、その思いは強い。
水は何事もなかったかのように、さらさらと下ってゆく。
柳の影が、足元に揺れている。
人一人分離れて、玲凛が並んで座っている。
その顔は少し血色が戻ったが、額の髪は汗で張り付いていた。長い呼吸を繰り返す。意図して、全身に溜まった何かを吐き出し、必要な何かを深く吸い込むようでもあった。
いつも、聞き分けのない暁隊や、融通の利かない近衛を言い含めるのが、蓮章の役目だった。
誰よりも状況を把握し、先頭に立って物事を進めた。
だが、今は逆だ。
自分は何も知らず、玲凛は全てを知っている。
だが、彼女が見たもの、あそこで起きたことには、自分はこれ以上踏み込んではいけない気がしていた。それは矜持を超えて、直感だった。
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