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7 心刻む旋律(3)
蓮章の心を見透かしたように、玲凛が言った。蓮章は気だるげに、
「知りたくもない」
答えた。
また、水音と葉ずれの音だけになった。
正午を回っただろうか。
玲凛の腹が、ぐぅ、と長く鳴る。
蓮章は聞こえないふりをし、玲凛は気にしてすらいなかった。
水路を、日の光が流れていく。
「とりあえず」
玲凛は静かに、
「傀儡の発生源は封じた。他に、あの文様が押された人はいない?」
蓮章の喉がかすかに動いた。
涼景から、同じものが玲陽の背中にあることを聞いている。だが、今の様子を見る限り、玲凛はそれを知らないようだ。
こいつは、俺が判断できることじゃないな。
蓮章は首を横に振った。
「焼印や、写しも処分した方がいいのか?」
「あれは問題ない、生き物じゃないから」
玲凛の声は、ようやくいつもの気迫を取り戻しつつある。
「あの女の人たちは、特に霊的に強い人じゃなかった。だから、自分達の力が吸い尽くされてしまった。でも、その絶対量が少ないから、傀儡の発生も酷いことにはならなかったけれど」
蓮章は、玲陽が思い出された。
「もし、特別な人間だったらどうなる?」
「大変なことになる」
玲凛は、うんざりしたように首を振った。
「次々と傀儡が集まってくるから、存在するだけで害悪だわ」
ひらり、と、ふたりの視界を蝶が舞った。
誰に相談するべきか。
蓮章は蝶の軌跡を目で追った。
いつもなら、なんの躊躇いもなく、涼景に話せば済むことだった。それができないことが、もどかしくてたまらない。
涼、おまえなら、どうする?
遠い空を思って、ひっそりと蓮章は問いかけた。
玲凛は両手を目の前にかざすと、何度か握って開いた。
痺れはもう、残っていない。ただ、体の芯から力が抜けて、集中力が枯渇していた。
間違いなく、寿魔刀を使った影響だった。
母上、とんでもないものを押し付けてくれるんだから……
そうは思ったものの、玲芳に罪はない。
長い年月の間に、寿魔刀は玲家の家宝として受け継がれ、その詳細は忘れられていったのだろう。
まぁ、何か食べたら、元気になるでしょ。
玲凛はいたって前向きだった。立ち上がると、さっさと屋台の方へ、河川敷の土手を上がっていく。
確か、上の屋台で、羊肉や魚肉団子の串焼きが売られていたはずだ。
急いでついてくる蓮章を、振り返りもせず、
「私、五本ずつでいいよ」
「はぁっ?」
蓮章は瞬時に顔を歪めた。
「そりゃ、何の話だ……?」
突然立ち止まった玲凛の背中にぶつかりそうになり、蓮章は不安定な体勢で踏みとどまった。
土手の坂に大股開きで片足をあげた、風情なき姿勢のまま、玲凛はじっと、水路の下流の方を見ている。
少し先の長榻に座って、抱えた琵琶を鳴らしている少女がいた。歳の頃は、玲凛と同じくらいだろうか。
「蓮章様」
玲凛は、真剣な声を出した。
「凛、まさか、あの娘も呪いの……?」
蓮章の顔に緊張が走る。すでに心は疲れ果て、これ以上の負荷はきつかった。
玲凛は眉間に皺をよせた。じっと少女を見て、
「三本ずつ、追加してください」
「……だから、何を?」
理解できないまま、蓮章は固まった。
「頼みました」
玲凛はさっさと少女の方へ歩いていく。土手の上の店から漂ってくる肉の焼ける匂いが、蓮章に玲凛の言葉の意味を伝えた。脱力が、なにより残酷に彼を押しつぶした。
「使い走りかよ」
憎まれ口をたたき、蓮章はしぶしぶ、土手を這い上がった。
玲凛は、ゆっくりと少女に近づいた。
年は、同じくらいだろうか。
まるっこい体は柔らかそうで、どこか幼い子供の印象があった。身につけた着物は袖も丈も短く、覗く手足もぷっくりとしている。
肌がうっすら黒いのは、柳の影のせいだけではなさそうだ。輪郭は丸みがあるのに、その肌には荒れた硬い手触りが想像された。
薄い髪を背中に束ね、飾り気のない帯と履き物のその姿は、花街の女というよりも、市場の下働きのようであった。
しかし、膝の上に抱えた楽器は、詳しくない玲凛の目にも、良い品のような気がした。
「それ、なんていうの?」
突然、玲凛は声をかけた。
少女は全身で跳ねて、恐る恐る玲凛を振り返った。
小さく細い目、大きな鼻、広角の下がった唇には艶がない。頬には爪の先ほどのしみがいくつも目立った。
「こ、これ?」
少女は、びくびくしながら、楽器を持ち上げた。
「これは、秦琵琶。私、これしかできないの」
そう言った声はうわずっているようだが、それが彼女の本来の声だった。掠れて、どこかに訛りが感じられた。
「その弦は、牛の腱?」
またもや突然に、少女の想像を超えたことを聞く。
「う、ううん。これは、絹」
「ふぅん」
自分で尋ねておきながら、玲凛は興味をなくしたようだった。
玲凛の頭の中には、弦といえば弓の張りのことしかない。
「あの……」
少女は、しどろもどろになった。
「すみませんけど、何か、ご用でしょうか?」
まるで、これは渡したくありません、というように、琵琶を抱き抱える。
「大丈夫、それに興味はないから」
ばっさりと玲凛は切り捨てた。
「それより、さっき、鳴らしてたでしょ? 聞かせてよ」
言いながら、少女の隣にすとん、と座った。
大胆不敵というよりも、すでに礼を失してあまりある態度にも、少女は怒るどころか、あっけにとらればかりである。
「い、いいけれど、まだ、うまく弾けないです」
「いいの。うまいか下手かなんて、どうせ私にはわからないんだから」
身も蓋もなかった。
少女はごくり、と唾を飲んで、それから手元を見つめた。
乾いた短い指が、そっと、弦を弾き始める。
玲凛は正面を見た。
水の流れる音と、少女の琵琶の音色が、不思議にひとつの曲のように溶け合った。時折鳴る柳の葉が、そこに綾をつけた。
風が歌ってるみたい。
玲凛は自然と調和した音を、素直に美しいと思った。
自覚している通り、玲凛に楽の良し悪しはわかならない。だが、その彼女の耳にも、少女の腕前が優れていることは感じ取れた。それは、知らない流派の剣舞を見るのにも似ていた。
「あんた、すごいね」
少女の手が止まると、玲凛はニコリと笑って言った。
「そ、そうでしょうか」
自信なさげに、少女は肩をすくめた。
「弾くのは好きです。でも、私には、よくわからなくて」
「私だってわからないわよ」
からからと、玲凛は明るく笑う。少女には、そんな玲凛が女郎たちとは違う美しさに溢れて見えた。自分には到底届かない、華やかな美。
「でも、あんたの音は、聞いて損がない、って思えるわ」
少しだけ、少女は笑った。笑うと、小さな目がいっそう見えなくなる。
「私、この先の遊郭にいるんですけど」
少女は、象牙の糸巻きを触りながら、
「こんな外見だから、お客は全然で……このままじゃ追い出されちゃうかもしれなくて」
玲凛は、遊郭の遊女の事情など、何も知らない。だが、彼女の声の調子から、それは命に関わる問題なのだということは、敏感に察した。
「今度の紅花祭で、弾かせてもらえることになったんです。そこで、お客さんたちに喜んでもらえたら、あと一年は、置いてくれるって」
「ああ……」
そういえば、芸事がどうの、と蓮章が言っていたことを思い出した。
「弾くって言っても、うちの舞妓さんの伴奏なんですけど、それでも、大事な舞台なんです」
「それで、そんな高そうな楽器、買ったんだ」
「まさか!」
少女は、ぶんぶんと首を振った。
「こんな高価なもの、買えません。借金しかないんだから」
「じゃあ、借りたの?」
あくまで淡々と、玲凛は問うた。少女はちょっとだけ笑った。
「いただいたんです。二年くらい前に、可愛がってくれていた芸妓の姐さんに」
「ふぅん」
「その人は、とても綺麗で、琵琶もうまくて、妓楼に入ったばかりだった私を、すごく可愛がってくれました」
言いながら、少女は幸せそうに琵琶を抱いた。
「女郎は歳を取ったら難しい。だから、誰にも負けない腕を身につけなさい、って、私に琵琶を教えてくれて」
「そうか」
玲凛は、そっと、師である犀遠を思い出した。
女の自分に、何も言わずに武術を教えた犀遠は、外側ではなく、本質で生きる道を歩ませてくれた気がした。
会いたいよ、叔父上。
一瞬、玲凛は少女の目をした。
「その人、きっと、応援してくれるね」
まるで、自分に言い聞かせるように、玲凛はつぶやいた。だが、少女の返事は遅れた。
「……亡くなりました」
「……え?」
真顔で、玲凛は少女を見た。彼女は、悲しい顔をしていなかった。真っ直ぐに前を向いて、それから少し、空を見た。
「よくあることです」
「よくある?」
「あなたは、花街は初めてですか?」
「ええ」
「ここでは、自分の人生は、自分じゃ決められないんです。ここに来た時から、全部、誰かに決められているんです」
その言葉は、玲凛の胸にもよく響いた。
生まれた時から、定められた未来。
玲家の跡取り。子を産み、生涯、家に仕える運命。
しかし、そこから自分を解き放ってくれたのは、他でもない犀遠だった。少女にとって、懐いた芸妓がいたように。
「よくわかんないけどさ」
玲凛は乱暴に頭を掻いた。
「あんたに琵琶をくれた人、自由に生きろって言いたかったんじゃないかな」
「え?」
今度は、少女が目を見張った。
「その琵琶で、やりたいように生きればいい、って。そのために、自分で自分の未来を選べる力を、くれたんじゃないかな」
言いながら、玲凛は自分の声が震え、目が潤むのを必死に堪えた。
少女はじっと、固まっていた。ただ、その小さな目の奥で、何かがしきりに揺れ動いた。
水路の水だけは、全てを知っているという瀬音を響かせ、腹立たしいほどに澄んでいた。
ぐぐぅ、と、玲凛の腹が訴えた。きゅう、と少女の腹がそれに答えた。
二人は思わず顔を見合わせ、くすくすと笑う。その様子は、剣豪でも女郎でもなく、ふたりの少女だった。
後ろで、土手を滑り降りてくる靴音がする。玲凛は振り返った。
「ほら」
蓮章が、大量の肉と魚肉の串を差し出した。
ふわりと空気に味が広がる。
「まったく、おまえ、どれだけ食うんだ?」
「腹が減っては戦はできぬ」
「戦なんか、そうそうするもんじゃねぇ」
「私たちは、毎日が戦いなのよ」
玲凛は、蓮章が差し出した串を、等分に分けた。片方を布で包み直し、蓮章の姿に見惚れていた少女に差し出した。
「これ、さっき、聞かせてもらったお礼」
玲凛は少女の横に串焼きを置いた。それから、すぐに自分も一本頬張った。串を咥えたまま、立ち上がり、土手を上りかける。
「あの、ありがとうございます」
少女が、戸惑いながら振り返った。
「紅花祭、見に来てください。私、頑張るので!」
玲凛は鹿肉で口をいっぱいにしながら、笑って頷いた。
石の間に、陽が射すことはない。
太陽の光さえ避けて届かぬ闇。
上座にある宝順の手元にある細い油灯の台には、小さな火が張り付くように燃えていた。
「して、首尾は?」
宝順の声にも、炎は微動だにしない。
「やはり、常人では比べようもなく」
宝順の正面の闇の中から、ぼそぼそとした男の声が答えた。宝順の息が長く漏れる。
「やはり、五亨庵が必要となるか」
「さようかと」
「そなたに御せるか?」
男はしばし、沈黙した。やがて慎重に言葉を選びながら、
「不確定要素が多すぎてございますゆえ」
「そろそろ、始末せねばならぬやもしれぬな」
宝順帝の声は低く、男の他に聞く者はない。
「水は、枯れても溢れても厄介なものよ」
男は深く頭を垂れた。
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