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8 万里へだてるとも(2)

 頭痛がひどくなる。  彼らの野次は玲凛にも向けられた。 「訓練ってのは、床入り指南か? ありがてぇ」  身をよじりながら、にやにやと笑う隊士は、どう見ても場末の酒場の飲んだくれだ。 「おいおい、そりゃ、どんな稽古だ? 夜の寝技か?」 「刀より、腰の振り方を伝授ねがいたいぜ」 「俺は梨花の方がいいけどな!」 「てめぇは黙ってろ」  ひときわ、目つきの鋭い男が、玲凛を舐めるように見た。 「一人ずつなんてケチなことはいわずによ、まとめて相手してくれや」 「そうね」  玲凛の声が、突然、男たちを遮った。 「私はどっちでもいいけれど?」  おお、と、歓声が上がる。  宣戦布告である。蓮章は何かを諦めたように首を振った。 「でもよ、本気ですかい?」  少し落ち着いた声が、蓮章に問いかけた。 「いくら何でも、暁様の代理が務まるとは思えねぇ」  涼景を、暁様と呼ぶのは、大抵、古参の信頼できる連中だ。 「お姫さん、ここは残念ながら色仕掛けでどうにかできる場所じゃない」  その下品な言い方に、玲凛は逆に親しみを覚えた。 「よかった。私、色仕掛けは苦手なのよ」  緩やかに微笑む。  蓮章は唇を曲げて、顔を上げた。 「おまえたちが不満に思う気持ちはわかる。だが、こいつは涼の肝いりだ。前々から目をつけていた。確かに外見はこんなだが、実際に手合わせをして確かめてみろ。おまえらのうち、一人でもこいつに勝ったら、この話は取り下げる」 「取り下げるのに加えて、梨花が相手してくれよぉ」  下卑た声が、挑発する。蓮章はかすかに目を細めた。 「いいだろう」  再び、大きな歓声が湧く。別のほうからは、やれやれという呆れたため息。  賑やかな人たち。そして、すごくわかりやすい。  玲凛はさらに気に入った。  おそらくこうなるだろう、と、事前に蓮章とは打ち合わせてあった。  玲凛はすでにいつでも刀が抜けるよう、身体を温めている。  暁隊はみな、玲凛より年上の屈強な男たちである。人格的に難はあるものの、それなりに腕は立つ。長年、涼景の信頼を得て、彼を支えてきたという誇りもある。  涼景の不在時に、代替の指南役を突然に受け入れろというのは難しかった。すでに人間関係が出来上がっている場所に入っていけば、それがいかに温厚な集団であろうとも、ある程度の摩擦が生じるものだ。  それが、悪名高い暁隊ともなれば、言わずもがなである。  涼景の代わりなど、誰にもできない。  玲凛を拒む裏には、自分たちの隊長に対する絶対的な自信と自慢の念があった。  玲凛は軽く目を閉じ、そして開いた。  その目は、爛々と輝いていた。  一瞬、場が静まった。  男たちの中に進み入って、玲凛はずらりと大太刀を抜いた。  それだけで、数名が戦意を失う。玲凛のずば抜けた力量が透けて見えた。  それがわからぬ者が、順に玲凛に打ちかかっていく。一対一の勝負は一瞬で決まった。  一撃をかわされ、急所に一発。  それだけだ。  何をやっているんだ?  手痛くしてやられる仲間を笑って見ていた隊士たちも、いざ玲凛と目が合うと、震えが走った。睨み合った瞬間から、すでに気迫で押される。玲凛の目つきは、力比べをする稽古のものではない。獲物を殺す狩人だった。  冗談ではない!  殺す気でくる相手に、手加減できるほど、暁隊の隊士たちは器用ではない。仕方がなくこちらも本気になるのだが、それでも手に負えない。  逃れがたい、そして、受け入れがたい現実。  隊士たちの表情が自然と真剣になる。刀や槍や戟を手に、総勢三十名ほどが、玲凛を取り囲んだ。  中央の玲凛は大太刀を一振りし、周囲の男たちをぐるりと見回した。 「きな」  挑発的な一言が飛ぶ。男たちは一瞬ためらったが、引くに引けず、やがて全員が一度に玲凛に群がった。  しかし、勢いよく踏み込んだ時には、目指すところに玲凛の姿はなかった。影が動いて、はっとして空を見る。玲凛は、一人の隊士の檄を踏んで駆け上がり、頭を蹴り飛ばして高く跳躍していた。蹴られた兵士がその場に沈む。呆気に取られていた別の一人の肩に降り立つ。勢いよく踏みつけられて、当然、その兵士も無事では済まない。  皆が一瞬息を呑んだ隙を狙って、玲凛は広い訓練場の端に向かって走り出した。  囲まれたままで戦うことは不利である。一旦、距離を取り、追いついてきた者から順に倒す策をとる。何人か相手にし、周囲に群がりができると、さらに走って距離を離す。  素早く止まっては戦い、走っては距離を取る。暁演武内には、点々と倒された兵士たちの体が転がり始める。蓮章は、それを平然と、遠巻きに眺めた。  まさか、本当に全員やる気か。  その通り、玲凛は次々と兵士たちの一団を突破し、ついには全員を跪かせた。  圧倒的存在感と、実力。全てに決着がついた。  決闘まがいの手荒い歓迎を受けた玲凛は、ますます、この男たちが好きになった。  彼らは、玲凛が少女であろうと、手加減をしなかった。それが、何より嬉しい。  玲凛の強さは、本物だった。  犀遠が玲凛に教えたのは、剣術の型ではなく、実戦だった。それは、喧嘩屋上がりの多い暁隊の戦い方と、非常に相性がよかった。玲凛の定型にとらわれない自由な身のこなしは、体格差を超えて相手を打ち据える威力を発揮した。  実力で示されてしまった以上、隊士たちも納得せざるを得なかった。  蓮章は、安堵とも諦めともつかぬため息を漏らした。  玲凛の腕前は相当だ。  涼景が、いずれは暁隊に欲しい、と言っていたのは、冗談ではなかったことが証明されてしまった。  また、面倒なのが増える。  蓮章は目を細め、口角を下げた。  蓮章の剣の腕は隊士たちに劣る。つまり、自分は間違いなく、玲凛に劣る。  悔しさより、情けなさが上回った。  玲凛に対する暁隊の認識は、夜伽指南の娘ではなく、決して関わってはいけない『熊殺し』へと改められたのである。  西苑から紅蘭へ。  訓練された軍の移動で、二十日の行程は、夕泉親王を護りながらとなると、さらに時を要するのはいたしかたない。  さらに、胡断から襲撃の予告が発せられた以上、その進軍は慎重を極めた。  投げ文で知らされた予告を、どれほど信じるべきか。  その信憑性は低かったが、西苑を出発して四日後、その疑いが生じる出来事が起きた。先行していた斥候の騎馬隊が、補給経路の村の襲撃を知らせたのである。街道沿いの村が盗賊に狙われるのはよくあることだ。これが、補給路を断つための攻撃であるのか、偶然であるのかは判断し難かった。  どちらにせよ、このまま予定の経路を進むことは叶わず、涼景は進路を副道に変えた。また、その先で川に沿う脇道を選んだ。偶然にもそれは、犀星が取り組もうとしている太久江の支流である。因縁めいたものを、涼景は感じた。  必要な水と、身を隠す草を確保しつつ、一団は静かに進む。周囲への警戒を怠らず、常に緊張した空気が隊に満ちた。  川沿いの道を選んでから、涼景はどうにも落ち着かない。  それは、川音がほかの物音を消す、そんな物理的な不利のせいではなかった。もっと原始的な、魂が揺さぶられる不安。川面を見るたびに、そこから這い寄る何かの気配。  太久江は遠い昔から、北の前線であった。  この川が血に染まったことは数知れない、それは、函の歴史以前より、くりかえされてきた惨劇である。  その歴史が、涼景の心を騒がせるのかもしれない。  ただの個人的な感傷であればよいが……  涼景は、命令に忠実な正規軍の様子を伺いながら、自分の心を奮い立たせた。  正規軍と涼景の関係は、決して悪くはない。  普段から、涼景、備拓、そして然韋の三名を中心として、交代で訓練に当たっている。有事の際、誰が指揮をとっても混乱がないよう、兵の実態を把握し、動きを慣らしておくためだ。また、影響力の一極集中を避ける目的でもあった。  禁軍のみの然韋、左近衛のみの備拓にくらべ、涼景には右近衛の他に暁隊の任務もある。その仕事量は想像を超えた。自然と多忙となり、他の二人よりも、正規軍と関わる時間は限られる。だというのに、有事の際に幕環将軍を拝命するのは、決まって涼景だ。  これは、宝順の一存だった。  然韋や備拓が、自分は負担が少なくて済む、と笑える性格ならば問題はなかった。だが、然韋は嫉妬し、備拓は申し訳ないという顔をする。涼景には、ほとほと、やりにくい。  それを眺めてほくそ笑むのは、宝順ひとりである。左右派閥の形成も、この軍部の体制も、互いに牽制しあうため、皇家が長く用いてきた手法だった。  実力者同士が睨みあい、互いに隙をねらって動く様子は、皇帝にとっては余暇を潰す見せ物でもあった。  涼景はため息を飲み込みつつ、地図を再考した。進路についての情報は、内部にも漏らさなかった。彼の胸の内にだけおさめ、その場で先頭に立って指揮をとる。  昼は、夕泉を囲む親衛隊を中心に、その外側に歩兵が三百、外に騎兵百、さらに前方、左右、後方に騎兵を配置し、周囲の安全確保を図って行軍する。  夕方になれば、工兵と補給部隊が動き、野営地の設営を手早く行った。土塁を積み、馬車や馬、天幕を用いて周囲を囲む。中央に夕泉のための天幕を三棟張り、毎夜位置を変えて偽装をはかる。  夜間は、一刻ごとに歩兵が交代で見張りに立った。騎兵が周囲を巡回し、川の対岸にも注意を向けた。定期的に斥候が走り、さらに遠方の様子を報告した。涼景は中央の天幕近くに座し、警備の報告を丁寧に受け、翌日の進路をその場で決めた。  まさに、一日一日が綱渡りの旅だった。  何度か、盗賊らしき姿を確認し、その度に歩みを止め、警戒にあたった。二日前に通り過ぎた林では、木々の奥に多くの気配を感じ、涼景自ら、前線に出て警備を厚くした。  都までの行程は大半を過ぎ、兵の疲労は蓄積されていた。残る難所は、渓谷がひとつ。それを越えれば、紅蘭は目前である。だが、涼景には奇妙な違和感が付き纏っていた。  夕泉の誘拐予告を出しておきながら、胡断の襲撃が一度もない。気配はあるものの、戦闘になることがない。戦いを避けられるのはもっとも望ましいが、この静けさが不気味でもある。しかも、西苑を出た頃から感じていた監視の目、こちらを狙う気配が、徐々に濃くなっている。  何が狙いだ?  油断の許されない中、涼景は今夜も、天幕のそばの交椅に腰掛け、じっと周囲の音に注意を向けていた。  疲労で、頭の中にはぼんやりと霞がかかったようだ。  何より辛いのは、すべてを一人で抱え、相談できる軍師がいないという現状だった。正規軍の副将は頼りにはなるが、知恵はあっても、涼景の心の不足を補うものではなかった。  夕泉、胡断、気配、味方の軍。  それらを常に念頭に置き、細心の注意を払う。  何かを見落としている気がする……  肝心なものが、欠けているように思えてならなかった。  蓮、おまえなら、何が見える?  涼景は、ここにはいない親友に問いかけた。  三年前の北方との戦いでは、蓮章の知略と勘に救われた。 『おまえは夢中になると、前しか見えない。それでいい。だから俺がいる』  そう言って、恩着せがましく笑った顔が、今でもはっきりと思い出された。  一人が心細く感じたのは、子どもの頃以来かもしれない。  脇の篝火が、不規則な音を立てて火の粉を撒き散らした。  飛び散った赤い輝きが、涼景に西苑での悪夢を思い出させた。  まさに、夕泉の恋慕の火の粉を浴びた。

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