26 / 29
8 万里へだてるとも(3)
あの時は、湖馬の機転でことを収めることができた。夕泉は、湖馬の仕込んだ薬から目覚めて以来、何事もなかったような顔をしている。涼景に対しても、当初通り、丁寧におだやかに笑みさえ浮かべる。涼景もまた、それに乗じて、すべてを忘れたように振る舞った。
何事もなかったのだ。
風に舞った火の粉が地に落ちる前に燃え尽きるように、あれは一時の熱。
だが、宝順とは違う記憶は、涼景の体に深く残っていた。それを振り払うように任務に集中する。寝る間もなく、体力は限界に近いが、心は忙しさを求めた。
体と心が分離されたことは、このような場合は好都合だった。
動け、と命じれば体は動いた。それは重たく、思い通りとはいかなかったが、それでも無理は通せた。感情はやたらと鮮明で、思考は鈍く、体はさらに疎い。
どれが本当の自分なのか、どこに軸を置いて行動すべきなのか、ちぐはぐだった。
深く、涼景は息を吐いた。
兵たちの巡回が時折、足音を立てて過ぎる。
これだけの人数を率いていても、孤独を感じる。
「大丈夫か、おまえ?」
突然、背後から声が降ってきて、涼景は硬直した。
後ろを取られた!
気配に、気づけなかった。全身に鳥肌が立つ。
「無理しすぎだ」
声が、そっと近づいた。
「……蓮……」
どきりと胸がなる。勢いよく振り返って、涼景の顔が一瞬、気弱に緩んだ。
布を巻いて顔を隠し、質素な袍と直裾姿で、男は涼景を見下ろしていた。
「悪かったな、リィじゃなくて」
動揺と、かすかな失望が、涼景の顔に現れるのを見て、男はふっと息を吐いた。
蓮章をリィと呼ぶこの男は、|慎《しん》という。外見こそ、蓮章に生写しだが、まったくの他人である。
「よほどバテているな。迂闊すぎる」
涼景は、決まり悪そうに横を向いた。
「どうして、おまえがここにいる?」
涼景は声をひそめた。天幕の向こうを巡る騎兵の影がちらりと見えた。
「これくらいの包囲網、俺にはどうということはない」
慎は涼景の隣に立ったまま、爆ぜる篝火越しに闇を見た。
「北東に、立ったまま居眠りしている兵がいたぞ。器用だな」
「湖馬か……」
涼景は息を吐いた。涼景の役に立とうと張り切って、徹夜が続いていた。
「確か、あいつは近衛じゃなかったか……」
「そんなことはいい」
涼景は口調を早めた。
「おまえがここに来た目的はなんだ? まさか、蓮の身に何かあったのではあるまいな?」
疲れが見える中にも鬼気迫る涼景に、慎は苦笑した。
「そんなにリィが大事なら、さっさと抱いてやれ」
「真面目に答えろ」
「……まったく、大将がこうも余裕がないから、部下まで調子が狂うんだ」
慎の遠慮ない物言いは、まるで、蓮章そのものだった。それが、涼景には余計に癇に障る。
「蓮は無事なんだろうな?」
「三日前までは」
慎はちらっと涼景を見下ろし、またすぐに闇に目を向ける。
「リィに頼まれて伝言を持って来た」
涼景の顔に、安堵と期待が浮かぶ。慎は目を細めた。
「おまえ、西苑を出てからここに来るまでの間、一度でも胡断の姿を見たか?」
「……いや、盗賊らしき連中は見かけたが、胡断だという確証はない」
「そうか」
「それがどうした?」
「胡断の首の鎖は、短い可能性が高い」
「なに?」
涼景の声が大きくなる。すぐに抑えて、
「どういう意味だ?」
「紅蘭の南東の宿場町に奴らが出た」
「そんな、都の近くに?」
「だから、鎖を握っているものは、都を離れなれない可能性が高い」
「では、今まで感じている気配は、内部の……」
「おそらく」
慎はゆっくりと、
「ちょうどリィが胡断と鉢合わせした。大半は取り逃がしたが、頭領を捕らえた」
「頭領を?」
涼景は耳を疑った。
盗賊団に落ちぶれたとはいえ、かつては北の国の一軍を率いた将軍である。今までも、何度も苦渋を飲まされてきた。
「よく、やれたな。大手柄だ」
「いや」
慎は首を振った。
「リィも、一緒にいた暁隊も歯が立たなかった」
「では、誰が?」
涼景の目が探るように揺れた。慎の声にはかすかな呆れが滲んでいた。
「その場に偶然、旅の剣士が通りかかってな。一刀で仕留めたそうだ」
「旅の?」
涼景が眉を寄せる。慎はニヤッとした。
「女だ。まだ、小娘」
「……! まさか、凛……」
「ほう、察しがいい。そこまで鈍ってはいないか」
「そんな馬鹿げた娘は、あいつだけだ」
言いながら、涼景はわずかに笑った。
「そうか、凛が来たか……」
かすかに笑い、ふと、口をつぐむ。
「リィからの伝言」
涼景は弾かれたように顔を上げ、慎は声を殺した。
「おまえの本当の敵は、宮中にいる。そして、奴らの狙いは夕泉ではない」
しんとした陣中に、虫の声がかすかに聞こえた。
「伝えたぞ」
「待て」
涼景は立ち上がった。後ろ姿まで、慎は蓮章を思わせた。
「蓮に、伝えてほしい」
「うん?」
「……沈丁花に感謝する、と」
返事をする代わりに、慎は軽く手を上げ、そのまま素早く闇に溶けていく。涼景の寂しげな目が、それを追った。
慎は、蓮章の影である。
蓮章が後目を継ぐ遜家には、複雑な事情がある。危険な立場に置かれる蓮章の代わりに暗躍するのが、慎だった。その存在は、蓮章と涼景、そして、師匠の慈圓しか知らない。あくまでも、影に生きる男だった。
涼景はふっと天幕を見た。
その中のひとつに、夕泉がいる。
蓮章からの伝言が、しっかりと耳に残っていた。
どこかで感じ続けていた違和感の正体が、掴めた気がした。
真面目すぎる、か。
涼景はふっと笑った。蓮章がそばにいれば、きっと、慎のように茶化し、自分の張り詰めた糸を緩めてくれただろう。
ひとつ、深呼吸をして、涼景は首を振った。
憑き物が落ちたように、体が軽く感じられた。
ふと、天幕の向こうの暗がりから、ふらふらとよろめきながら、こちらに歩いてくる人影があった。近衛の鎧に、白い佩布。
「湖馬」
涼景はホッとした声で呼びかけた。
「あ……」
見張りを交代してきたのだろう。気の抜けた顔で、湖馬は涼景に頭を下げた。
「目を閉じながら、見張っていたそうだな」
涼景はにやりとした。湖馬が、ぽかんと、口を開く。
「どうして、それを?」
涼景は小さく笑って、もとの交椅に腰を下ろした。
「無理をしすぎだ」
自分も言われたな、と思いながら、
「今日はもう、休め」
「……はい」
湖馬は歩兵の天幕に向かって数歩、歩いたが、そのまま立ち止まり、振り返った。
「あの、隊長?」
「うん?」
肩越しに振り返ると、やけに真剣な顔で、湖馬は涼景の足元のあたりを見つめていた。
「ちょっと、お聞きしたいことが……」
「なんだ?」
「あの……」
「警備に関わることか?」
「いえ、無関係です」
少々拍子抜けして、涼景は黙った。湖馬は眠たそうな目を左右に揺らし、言いあぐねている。
「関係なくても構わない。なんだ?」
「あの……」
顔を上げた湖馬は、どこか、泣きそうにも見える。
「隊長は……誰かを、好きになったこと、ありますか?」
「……はぁ?」
思わず、涼景は口が開いた。湖馬もそれ以上何も言えなくなって、固まっている。篝火の音だけが、やけに騒がしく響いた。
「……すみません。やっぱりいいです」
沈黙に耐えかねて、湖馬は首を振った。
「いや、聞かせろ」
涼景は降って湧いた話題に乗った。若い頃、よく、野営の闇の中で、そんな話題で盛り上がったことを思い出した。
「湖馬、おまえ、いくつになる?」
「え? あ、今年で、二十二です」
「それなら、問題ないだろう」
「え?」
湖馬の顔に、明らかな焦りが浮かぶ。涼景は首を傾げた。
「なんだ? 好きな相手がいるんだろう?」
「……よく、わからないんです」
湖馬は、本当に困った顔をした。
「はじめは、特に何も考えていなかったんです。でも、最近……偶然、会えたりすると、妙に胸が騒いで嬉しくて……」
「ほう」
涼景は、ここが緊迫した野営地であることを忘れたように、柔らかく笑んだ。湖馬の表情には、初々しささえある。飄々と際どいことを口にする蓮章を見慣れた涼景には、可愛らしく思えた。
「これ、好きってことなんでしょうか?」
「それだけでは、なんとも言えないが……」
正直に、涼景は首を振った。
「だが、はっきりさせたいなら、話してみればいいだろう?」
「話す?」
「ああ。相手のことや、自分のこと。色々とな」
「……そう、ですね」
どうにも、煮え切らない。この手の助言なら、自分より蓮章の方が得意分野である。むしろ、涼景には、自分は鈍い、という自覚がある。
湖馬は手の甲で目をこすった。
「でも、俺なんて、相手にしてもらえないと思います」
「身分がある人か?」
「ええ、まぁ、それもありますけど……」
湖馬の目が、また、くるくると周囲を彷徨う。
「その人には、もう、大切な人がいるから……」
「既婚者か?」
「いえ、そうではなくて……」
「そうじゃないなら、諦める必要はないだろう?」
「でも、俺じゃ……」
弱気になって、湖馬はうつむいた。涼景は少し声を低めた。
「それ、どこの誰だ?」
「え?」
湖馬は目を見開いた。涼景が、意地悪く笑う。
「まさか、俺、じゃないよな?」
「ち、違います!」
湖馬は本気で否定した。
「そんなだったら、俺、隊長になんて言えません」
「そうか、残念だ」
「え?」
何を言われたんだろう?
湖馬はまた、泣きそうな顔をした。涼景は苦笑して、
「すまない。からかっただけだ」
「隊長!」
「大声を出すな。みなが驚く」
「俺が驚きましたよ」
恨み言のように、湖馬は涼景を軽く睨んだ。
「隊長」
「うん?」
「片想いって、辛いですね」
堪えきれず、涼景は小さく吹き出した。
「おまえ、急に、何を……」
「笑わないでください。俺、本気で……」
涼景はすっかり緊張が解けて、肩をゆすった。
「そうだな、すまなかった」
蓮章に慣らされていると、湖馬の戸惑いが際立って感じる。
「おまえは真剣だし、いいやつだ。相手が誰だろうと、堂々としてりゃいいさ」
「そう、でしょうか……」
「ああ」
涼景はふと、我が身のことを思いやった。
偉そうに言いながら、自分は自分の気持ちから逃げ続けている。
春……
不意に声が出そうになって、あわててそれを飲み込んだ。
「隊長?」
急にぼんやりした涼景を怪しんで、湖馬は首を傾げた。
「いや、なんでもない」
涼景は優しく笑った。
「しかし、おまえに思われるなら、その相手も幸せだろうな」
湖馬は照れた笑みを浮かべた。
「たぶん、ずっと片想いなんでしょうけど……でも、隊長がおっしゃったように、話しかけてみます」
「そうしろ」
俺も、春と向き合わなければならないか……
そろそろ覚悟を決めねば、と自分に言い聞かせた涼景の耳に、湖馬の告白が飛び込んだ。
「帰ったら、祥雲と話をしてみます」
「ああ……えっ!」
勢いよく振り返って、涼景は交椅からずり落ち、したたかに腰を打った。
今……なんて?
眠そうな足取りで歩兵の天幕に向かう湖馬を、涼景は茫然と見送ることしかできなかった。
ともだちにシェアしよう!

