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9 春眠(1)

 黎明の光の中で、朱雀門は今日も厳かな音を立て、ゆっくりと開いていく。  都から宮中へ向かう人々が数名、門前でそれを待っていた。その中には、慈玄草の姿もあった。  慈圓の屋敷は、宮中からほど近い一番隊の警備区域の中にある。以前は宮中の中央区に居を構えていたが、涼景と蓮章が独り立ちしたのをきっかけに、都へと越した。  慈家は家柄は取りたてて高くはないが、優秀な人材を多く輩出している。文官の名門、遜家とのつながりは深く、密かに反宝順の思惑でも一致する仲であった。  先代の遜家当主と懇意にしていた慈圓は、跡継ぎとなる《《連》》章を幼い頃から引き受けた。遜家で育てるよりも、慈圓の下で賢く、人の道に通じた人物になってほしいとの先代の願いだった。  慈圓は、連章の後見人としての役を引き受け、自分の屋敷の離れに住まわせ、幼い頃から国の道、人の道を学ばせてきた。正道にも、蛇の道にも通じる博学な慈圓のもとで、連章は育った。  生まれながらにして薬や酒に耐性があり、特殊な身体的特徴を持つ連章は、何かと目立った。慈圓はそれを隠し、そっと影のようにして育てた。  連章が九つになる頃、彼の運命を変える出会いが訪れた。燕涼景である。  偶然とは必然なるもの。  慈圓は、苦しい身の上に置かれていた涼景も共に引き取った。  周囲は、仁義に厚く、弱い者に寄り添った慈圓の行動を高く評価したが、実際には少し違っている。二人を育てたのは、単に情にほだされたからではない。そこには、慈圓なりの政治的思惑がすでに存在した。  連章は賢かった。知識においては、いずれ自分を上回るであろうこと、政治家として、宰相として、頭角を現すであろうことは、幼い頃から確信があった。  だが、そうなるためには、蓮章の不足を補える者が必要だった。それが、涼景だ。  連章に足りなかったもの、それは武の力と、人の和である。  体格も細く、武力において、人を圧するだけの技量もない。また、気が強く、思い込むと視野が狭くなる連章の性質は、人の上に立つには、あまりにも危なっかしい。人付き合いを嫌い、万人に好かれる性格でもなかった。  連章の欠点を埋めるのが涼景だった。慈圓は、涼景を連章の片腕とするべく育てた。  宝順の御代を終わらせ、賢き者をこの国の頂点に据えること。  慈圓のその計画の中に連章も涼景も、知らぬうちに取り込まれていった。  そして最後に慈圓が手に入れたのが、犀星である。  盟友・犀遠が歌仙の地で育てた、王者たる人徳と心を兼ね備えた賢い親王の存在は、慈圓の長年の夢を形にするために欠くべからざるものであった。  犀星が参与として慈圓を選んだ事は、それこそ偶然のなせる技であり、慈圓にとっては最良の幸運と言えた。  連章を得てから、二十年の歳月が流れた。  犀星は、慈圓が想像した以上の才覚を発揮し、周囲を魅了した。  涼景は武力の道で駆け上がり、その影響力は頂点に達する。  慈圓は、連章を宰相の地位につけることを想定していた。  次の君主である犀星と、武力の頂にある涼景、そして政治の要である連章。  この三人を持てば、宝順を倒す事は可能だった。  しかし、人の心は他人にはどうすることもできない。  半ばまで成就したかと思った野望は、今、ことごとく狂っていた。  犀星には皇帝となる意思はなく、涼景に身内を切り捨てて謀反に走る心はなく、《《蓮》》章に至っては、涼景に惚れ込んで己の出世など眼中にない。  それでも今しかないと、慈圓は腹をくくっていた。  暁の朱雀門で、開門とともに人々が流れる始める。慈圓はその中に、目指す顔を探した。とはいえ、わざわざ探さずとも彼は目立つ。宮中での夜勤を終えて都に帰る人の流れの中に、蓮章の姿があった。若葉色の柔らかい絹の長袍と緩やかになびく裳が目を引く。長い布を首元にかけて風を避け、白々とした肌はまるで貴婦人のようで、顔を縁どる黒髪は柔らかく、うなじや首元のあたりに曲線を描く。その姿は遠目にもふわりと柔らかく香るようだ。  宮中よりも花街が似合う。  慈圓はため息をついた。多くのことを学んでくれ、とは望んだが、ここまでの美貌を手に入れて欲しいとは思わなかった。むしろ、その容貌は、今の蓮章にとっては不利にすら働くことさえある。  人の波を縫って、慈圓は蓮章の元へ歩んだ。向こうも早めに慈圓の姿を見つけたが、気づかぬふりをしてあえて目をそらす。 「やましいことでもあるのか」  開口一番に慈圓はそう話しかけた。  蓮章は、ちらっと慈圓を見て立ち止まると、仕方がないと言う顔で笑った。 「ないわけがないでしょう」  その顔は、いつもよりも少し疲れて見えた。幼い頃から見慣れている蓮章である。慈圓には、そのわずかな違いが察せられた。  ひと月前に涼景が都を離れて以来、蓮章の激務は加速している。夜は天輝殿に詰め、昼は暁隊をまとめる。一人で奔走し、一人で抱え込む。どれほど余裕がなくなろうと、誰にも弱みを見せはしない。  蓮章にとって、胸を開く相手は涼景一人である。涼景はその人柄をもって他にも仲間と呼べる者を得たが、蓮章にはそれがない。だからこそ慈圓はこうして蓮章に顔を見せ、様子を伺う。特に涼景が留守にしている時は頻繁だった。涼景の留守中に蓮章の身に何かあっては、面目が立たない。  慈圓はそっと蓮章のそばを歩きながら、その歩みに合わせ、都へと戻る道を選んだ。 「俺に何か話ですか? 説教なら足りてます」  蓮章が声をひそめた。慈圓と蓮章の関係は、まごうことなき師弟であり、共にいても違和感は無い。だが、このような時刻に二人揃ってという姿は、なかなかに珍しい。 「そろそろ観念した頃かと思ってな」  慈圓は含みを持たせた言い方をした。 「その話ですか」  蓮章はずっと遠くを見た。もういい加減にしてくれという顔である。 「お前も限界であろう」 「老い先短く、辛抱できないのは、師匠の方ではないですか」  蓮章の物言いは容赦がない。だが、甘えのようなもの、と、慈圓も苦笑して流す。 「確かにそうかもしれん。だが…」  慈圓はさらに声を低めた。 「最近の然韋の動き、どう思う」 「禁軍大将ですか。いつも通りじゃないですかね。宝順にべったりで、離れようともしない」  蓮章は特に悪意は無いのだが、その言い方には棘がある。 「ならば、此度の夕泉親王の件、どう見る?」 「面白くない」  蓮章は素直に言った。 「涼をいいように使いやがって。大体、正規軍の大将を正式に決めないことにも問題がある。兼任させすぎだ。どれだけ人材不足なんだか」 「お前が宰相になれば、少しはそれも緩和されると思うが」 「冗談じゃないです。俺はそんな器じゃないって、師匠もよく知ってるじゃありませんか。大体、誰も認めませんよ。こんな色狂いじゃ」 「そこは改める必要があるだろうが」  慈圓は期待しない調子で言った。 「冗談はさておき、本当のところ、どう思っている?」  慈圓の口調が変わったことに、蓮章も気づいた。 「胡断の脅迫、涼景が呼ばれた件、ですか?」 「ただの成り行きだと思うか?」 「そう思わないから、師匠はわざわざ俺のところに来たのでしょうに」 「相変わらず、可愛げのない」 「そう、育てられたので」  蓮章は今までの軽口から、少し落ち着いた調子に声を直した。 「何者かが胡断の名を語って夕泉親王を脅す。それを聞いた宝順が、親王の身の安全を図り、実践経験のある涼景を現場に送り込む。自然と都は手薄になり、こうして俺も他に手が回らなくなる」  慈圓は黙って話を聞いていた。 「結果的に、都の中で力を持つのは、左近衛と禁軍」  普段は軽口ばかり叩く蓮章だが、その腹の中は慈圓が自ら仕込んだとあって、相当な切れ者だ。物を見通す力は涼景を上回る。それを表に出さないのが蓮章という男である。  慈圓の期待に応えるように、蓮章はさらに続けた。 「もし何らかの目的があるとしたら、考えられるのは二つ。一つは手薄になった都に攻撃を加えること。もう一つはもっと個人的な……涼景を潰すための策略」 「おまえはどっちだと思う」  慈圓の問いに、既に蓮章は答えを持っていたようだった。すんなりと言う。 「《《混乱を狙う者》》は動いていない」  意味ありげに慈圓を見る。ふっと慈圓が唇を曲げた。 「当主が腹をくくらないからな」  蓮章はあえて、その言葉を聞かなかったことにした。 「だから、濃厚なのは、後者。涼を貶めようとする者はいくらでもいる。もし、夕泉親王の身に何かが起きれば、それを理由に失脚は容易い。最悪、どさくさに紛れて涼景の命を狙いかねない」  自分で言いながら、蓮章はその未来を最も恐れている。だが、声を震わせることはなく、ただ淡々と、あえて感情を見せない。この喋り方も、慈圓が交渉術として蓮章に叩き込んだものの一つだ。 「梨花、このこと、涼景に知らせるか」 「すでに」 「そうか」  慈圓は首を振った。 「気が気ではないのはわかるが、感情に走るな」  慈圓の言葉が、蓮章の胸の内を刺す。 「あいつに肩入れしすぎだ」 「そうさせたのはあなたでしょう」 「おまえが勝手に溺れた。わしは本当は逆を狙ったんだが」  蓮章の涼景への忠義が、慈圓には危うくてたまらなかった。  蓮章は軽く笑った。 「いくら師匠でも、人の心までは自在にできるものじゃない」 「ああ、そいつは思い知っている。だがな……」  慈圓はしわの寄った目で、蓮章の横顔を見た。 「おまえならわかるだろう。このまま長引けば長引くほど、状況は悪化する。早めに手を打ち、おまえも、仙水も、楽になれ」 「とにかく、もう少し状況を見せて欲しい。少なくとも今は、軽率に動ける時じゃない。まずは涼の身の安全が第一だ。それから……」  それから、どうするべきか。  数々の迷いと期待が、蓮章を取り巻いていた。 「師匠」  蓮章は慈圓を振り返り、立ち止まった。 「話はこれで終わりですか。だったら、俺、急ぎますので」 「そう邪険にするな」 「俺にはもう、話す事は無いんですが」  慈圓は眉間のしわを深くした。 「梨花。気のせいならいいが……」  かすかに蓮章の体が揺れる。慈圓が眉をひそめた。 「おまえ、体の調子は?」 「しばらく眠れてないだけです」  蓮章は遠くに視線を投げた。 「今日も忙しいんです。暁隊で、あの跳ね返りの娘をどうにかしなきゃなりませんし、夜は天輝殿があります」 「無理をするな。薬も効かないんだ。些細なことが、命取りになる」  わかっています、と蓮章は片手を上げて、そのまま朝の雑踏の中へ姿を消した。  玲凛が都に来て、数日が過ぎ、犀星たちの暮らしぶりは大きく変わった。  今まで三人で囲んでいた食卓が四人になった。そして、今まで三人分だった食材は五人分を超えた。  単純計算が成り立たないこの状況に、東雨は顔をしかめた。  たまに来る涼景もただ飯ぐらいだが、玲凛は毎日である。その上に人の倍を食う。  恐ろしい速さで、備蓄していた食料が底をついていく。  ただでさえ、亀池の問題で生活費の切り詰めが始まったというのに、これでは家計が回らなかった。  最近は、犀星もある程度の上乗せはしてくれる。だが、今は逆に、東雨の方がそれを気に入らなかった。  五亨庵総出で取り組んでいる亀池再生。その費用を少しでも捻出したい時に、どうして玲凛に食い尽くされなければならないのか。いや、むしろこれは金の問題ではない。東雨にはうまく説明できないが、もっと違った譲れない何かの理由で、納得がいかなかった。  穏やかそのものだった朝の風景は、日に日に緊迫したものへと変貌し、戦況は悪化の一途を辿っている。  今朝もまた、小競り合いが始まる。 「おい、凛、何杯食う気だよ」  目を吊り上げた東雨が、大声を出した。 「何杯って、これまだ二杯目だけど?」

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