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9 春眠(2)
玲凛はそっけなく、既に空になった器を東雨に向けて差し出している。
「おかわり」
「ない!」
東雨は頑として受け取らなかった。
食卓が、戦場の前線に変わる。二人の向かいの席に並んでいる犀星と玲陽は、何事もないかのように食事を続ける。
「なんでそんなに食うんだ?」
「食べ盛り、育ち盛りなのよ」
玲凛が東雨を軽く睨む。本気で睨まれたら狼まで卒倒する、と噂される玲凛である。東雨など、ひとたまりもない。
「あんたこそ、もう少し食べた方がいいわよ。そんな細っこい雨蛙みたいな体じゃ、まともに剣も振れないじゃない」
「誰が雨蛙だ! おまえなんて、暁隊で『熊殺し』とか呼ばれてるんだろ」
思わず、玲陽が飲み込みかけた粥にむせた。すかさず犀星がその背を撫でる。
「吹いて飛ぶような雨蛙より、はるかにマシよ」
「がさつで乱暴者のおまえより、まだ可愛げがある」
「それが何かの役にたつ? 腹の足しにもならないわ」
「お、おまえ、俺まで食う気かよ?」
「だって、お腹がすくんだもの!」
東雨と玲凛の不毛なやりとりは、おしまいを見ない。
だが、そこは慣れたもので、犀星も玲陽も特に二人を止める事はしなかった。
玲凛を預かると決めた時点で、二人はとっくにこうなることを覚悟していた。
傍観するのは一つの得策だった。二人は言い合いはしても、暴力沙汰にはまずならない。負けるとわかっている喧嘩を、東雨はしない。玲凛もまた、一方的な殺生は好まない。
放っておこう。元気なのは良い。
犀星は黙々と匙を運んだ。
隣に玲陽が座っているのなら、犀星には何一つ、不満はない。
玲凛が恨めしそうに、空の器を覗いた。どんなに東雨を追い詰めた所で、ない飯は出てこない。その淋しそうな顔に、玲陽は弱い。
玲陽には、砦でまともに食べられず、ひもじい思いをした経験がある。
可愛い妹に、あんな思いをさせたくない。
玲陽は、自分の手を止めた。
「凛どの、手をつけたもので申し訳ないのですが、よろしければ、私の分を……」
と、自分の食べかけの器を少し掲げる。
それに、玲凛より先に反応したのは犀星だ。伸ばされた玲凛の手に、自分の椀を差し出した。稀に見る素早さだった。
「凛、必要なら、俺のを」
「え?」
玲凛も玲陽も、そして東雨も目を丸くする。
「ほら!」
いつになく、犀星は積極的だ。
「じゃ、遠慮なく」
玲凛は何の疑問もなく、犀星の粥を受け取って食べ始めた。
どこか満足そうな犀星を見て、玲陽と東雨は顔を見合わせ、同時にハッと気付いた。
嫉妬だ。
よりによって、玲陽が匙をつけたものを、他の誰かが口にするなど、犀星が許すはずもない。
若様……大人げない。
東雨は天井を仰いで首を振った。
星、これ、どうぞ。
玲陽は無言で、自分の椀を犀星の前に押して渡した。
戦火が散った後の、ほっとした空隙。
だが、それは長くは続かない。
「でも、いくらなんでも食いすぎ……」
東雨はムッとして玲凛を見る。犀星ほどではないが、やはり『若様のお手つき』をかっさらった玲凛には|妬《や》く。
「すみません」
粥に夢中の玲凛に変わって、玲陽はすまなそうに首を傾げた。
「陽様が謝ることはありません」
東雨は毅然とした。
「俺は、別に食べるな、って言ってるわけじゃないです。ただ、食べるからには、それなりに働いてもらわないと」
かちゃかちゃと粥を掻っ込む玲凛を、呆れた顔で東雨は眺めた。
「せめて、家のことくらいできないのかよ?」
「薪割りなら」
「力仕事だけじゃないか」
「細々したことは性に合わない」
事実、玲凛に家事は無理だった。
力加減というものを知らない。
料理の味付けは犀星以上に大雑把だ。掃除をさせても一部屋で飽きる。刀の素振りなら半日でも続ける癖に、洗濯物一つ竿に干す忍耐力はない。
「役立たず……」
小さく、東雨は呟いた。
「聞こえてるわよ」
玲凛が受けて立つ。
「まぁ、お二人とも、落ち着いてください」
再戦の気配を感じて、玲陽が割って入った。
「ほら、凛どのは、暁隊のお手伝いで体力を使いますから、それできっと、いつもよりお腹がすくんですよ。ね、そうですよね?」
普段は食べませんよね、と言わんばかりに玲陽は目配せする。
「いつもこんな感じです」
あっさりと玲陽の心遣いは無視された。玲陽の悲しげな瞳を見かねて、犀星が加勢する。
「多めに見てやれ、東雨。蓮章の話では、凛は随分役に立っているそうだ。涼景が留守にしているから、その穴埋めになると……」
「凛に涼景の代わりなんてできません」
生涯に何度もない貴重な犀星の気遣いを、あろうことか、東雨は一蹴した。粥を平らげた凛が、ジロリと東雨を見る。
「言ったわね」
「ああ、おまえには無理だ」
「涼景様が戻ったら、絶対、勝負をつけてやるんだから。私が勝ったら、好きなだけ食べさせてもらいます」
「どういう理屈……い、いや、涼景がおまえに負けるはず……」
「わからないわよ。勝負は腕力が全てじゃないんだから」
「あいつは、本当に強いんだからな!」
突然立ち上がって怒鳴った東雨に、三人はぽかんとした。
「……あんた、何、そんなに必死になってんの?」
凛の言葉に、東雨は小さく息を呑んだ。なぜか頬が赤くなる。気まずそうに横を向く。
「……とにかく、家のことができないなら、文句言わずに食ってろ」
東雨は空いた食器を揃えて、一足先に部屋を出て行った。
「逃げたわね」
「ええ」
「逃げたな」
玲家の三人は、小さく呟き、うっすらと笑った。
「そうか」
ふと、玲凛が思いついたように、
「食べたきゃ、捕ってくればいいのよね」
「え?」
玲陽が警戒して狼狽えた。
「凛どの、あの……熊?」
「まさか」
玲凛はきらきらと可愛らしい笑顔を浮かべた。
「今の時期は、猪です」
静まり返った、深夜の右近衛隊の詰所。
数日前から、天輝殿の担当は左近衛隊に移った。
普段は涼景が仮寝に使う小部屋の牀に、今は蓮章が横になっていた。
ありったけの褥を引き寄せ、体を埋める。
涼景不在の中、備拓の補助も受けながら、蓮章はどうにか一ヶ月を乗り切った。近衛と暁隊の両刀は、一人で負うにはあまりに重い。
累積した疲労が濃かった。
特に、夜の天輝殿は、蓮章にとって、近づくことさえ忌まわしい場所だ。
十年以上前のこと。涼景は天輝殿の中殿にある石の間で、宝順から耐え難い恥辱と傷を受けた。自分はその場にいながら、何もできなかった。
いつだって、無力だ。
褥を握りしめて、蓮章は顔を歪めた。眠気はない。だるさだけが圧し潰すように全身を包んでいた。
あの日以来、涼景が天輝殿に呼び出されるたびに、腹の中が熱く煮える。その袖を掴んで引き戻し、行くなと叫びたかった。
だが、いつもちらりと自分を見て、小さく頷く涼景の覚悟を見せつけられ、何も言えなくなる。
背負っているものが、涼景にはある。
涼景の強さは、その命と引き換えだ。
そんなやり方は、間違っている。
蓮章は何度も涼景と衝突してきた。
涼景は生来、責任感が強く、包容力のある男である。燕一族、暁隊、犀星。誰一人、見捨てることはできなかった。その中に、自分も含まれることが、蓮章にはたまらなく嫌だった。
足枷にはなりたくない。
涼景を連れて、国を出たい。宝順の手から逃れたい。だが、涼景は愛する者たちを残してはいけない性分だ。それは蓮章が一番よく知っている。
おまえに、生きていて欲しいだけなんだよ。
手脚を縮め、蓮章は唇を噛んだ。
今もそうだ。夕泉親王など、蓮章にはどうでもいい。あんな男の身勝手な理由のために、涼景を送り出さねばならなかった。ひたすらに腹立たしい。
もともと、自分では何もしない夕泉が、蓮章は気に入らなかった。宝順の横暴を諌めることもせず、逆に好んで抱かれに行く。実の兄弟である。その時点ですでに崩壊した関係だった。
それに比べ、犀星はまともだ。
宝順になびかず、我が道を行く。必要とあらば、誰であろうと遠慮はしない。何より、愛する人に誠実だった。
蓮章にとって、犀星は特殊な存在だ。
涼景を奪われる嫉妬。国を変えていく希望。自分にはできなかった、一途な誠心への羨望。
情欲に流されて、惰性でしか人を思えない自分が忌まわしい。
今夜はやけに寒かった。特に、心が凍える。
春の夜。冬とは違う、湿った冷たさがあった。
暗闇の中にいると、嫌なことばかり思い出された。
数日前の花街での出来事が、余計にそうさせるのかもしれない。
玲凛が女郎の印を消す間、自分は圧倒的な『何か』に縛り付けられ、身動きができなくなっていた。目の前に、黒い塊がいくつか浮かんでいたように見えたが、幻覚だったのかもしれない。
無力感、絶望感、虚無感、向ける先のわからぬ怒り。
そんな感情で自分が満たされていく感覚のみが、実体をもって触れられるほど確かに、蓮章を支配していた。
あれが、傀儡との共鳴か。
後から、蓮章はそう、考えた。
玲凛に詳しく問うことはしなかった。知ったところで、彼に何かができるとは思われない領域だった。
そしてもう一つ、話題を切り出せない理由がある。
玲陽の背中の傷だ。
あの様子では、玲凛は玲陽のことを知らないだろう。
勘のいい玲凛のことだ。傀儡の話題を続ければ続けるほど、隠し事に気付かれる恐れがあった。
まずは涼に話してから……
自然と、蓮章の気持ちは代えがたい友に向く。そして、寒さが募る。
『俺は戦場では死なない』
それは、初陣の時から、涼景が決まって約束してくれたことだった。
軍に同行しても、涼景と蓮章では役割が異なる。
先陣を切って隊を率いる涼景と、後方から全体の指揮をとる蓮章。
いざ戦闘となれば、終結するまで互いの生存すら確認できなかった。
死にきれない呻きがくすぶる夕闇の戦場を、涼景を探して、何度駆け回っただろう。喉が裂けるほどに名を呼びながら、いつもひどく震えていたことを思い出す。
ただ、生きていて欲しい。
抱きしめた胸の中で、心臓が大きく動くのを感じた。
無理に目を閉じても、見たくもない光景ばかりが蘇る。
褥に埋もれていた蓮章は、細く開いた扉から、するりと忍び込んでくる人影に気づかなかった。すぐ脇に立たれてもぼんやりとしたままだ。
低められた声が、夜の闇を揺らした。
「大丈夫か、おまえも?」
「涼っ……!」
飛び起きて、蓮章は見開いた目を凝らした。
「悪かったな、涼景じゃなくて……」
長い道を馬で駆け通して、すっかりくたびれた慎が、肩をすくめた。
「おまえたち、ふたりして何やってんだ?」
「……涼は?」
「無事だ。とりあえず、四日前までは」
蓮章が深く息をつくのが聞こえ、慎はさらに呆れ返った。
「おまえら、夫婦か?」
「似たようなもんだ」
「ほう。まだ、余裕がありそうだな?」
「ない」
ぶっきらぼうに蓮章はつぶやいた。
「頼んだこと、伝えてくれたか?」
「心配するな。あいつならうまくやるだろう」
慎は蓮章の隣に腰を下ろすと、無遠慮に体に触れた。
「目立つ傷、つけてないだろうな?」
「心配するな。そんなへまはしない」
「どうだか?」
蓮章と瓜二つの顔で、慎は笑った。
「おまえに怪我されると、俺も同じ傷を作らなきゃならないんでな」
「わかっている」
目をそらし、蓮章は部屋の暗がりを見つめた。
蓮章が跡目を継ぐ遜家は、紅蘭の名家である。
文官の家系で、左派右派問わずに、多くの官僚を輩出している。歴代の宰相にも何人も名を連ね、本来であれば蓮章もその道を歩くはずであった。だが、彼は涼景とともに軍部を志願した。
遜家には、裏の顔がある。
都に潜む組織『|蛾連衆《がれんしゅう》』の元締めだ。
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