28 / 29

9 春眠(2)

 玲凛はそっけなく、既に空になった器を東雨に向けて差し出している。 「おかわり」 「ない!」  東雨は頑として受け取らなかった。  食卓が、戦場の前線に変わる。二人の向かいの席に並んでいる犀星と玲陽は、何事もないかのように食事を続ける。 「なんでそんなに食うんだ?」 「食べ盛り、育ち盛りなのよ」  玲凛が東雨を軽く睨む。本気で睨まれたら狼まで卒倒する、と噂される玲凛である。東雨など、ひとたまりもない。 「あんたこそ、もう少し食べた方がいいわよ。そんな細っこい雨蛙みたいな体じゃ、まともに剣も振れないじゃない」 「誰が雨蛙だ! おまえなんて、暁隊で『熊殺し』とか呼ばれてるんだろ」  思わず、玲陽が飲み込みかけた粥にむせた。すかさず犀星がその背を撫でる。 「吹いて飛ぶような雨蛙より、はるかにマシよ」 「がさつで乱暴者のおまえより、まだ可愛げがある」 「それが何かの役にたつ? 腹の足しにもならないわ」 「お、おまえ、俺まで食う気かよ?」 「だって、お腹がすくんだもの!」  東雨と玲凛の不毛なやりとりは、おしまいを見ない。  だが、そこは慣れたもので、犀星も玲陽も特に二人を止める事はしなかった。  玲凛を預かると決めた時点で、二人はとっくにこうなることを覚悟していた。  傍観するのは一つの得策だった。二人は言い合いはしても、暴力沙汰にはまずならない。負けるとわかっている喧嘩を、東雨はしない。玲凛もまた、一方的な殺生は好まない。  放っておこう。元気なのは良い。  犀星は黙々と匙を運んだ。  隣に玲陽が座っているのなら、犀星には何一つ、不満はない。  玲凛が恨めしそうに、空の器を覗いた。どんなに東雨を追い詰めた所で、ない飯は出てこない。その淋しそうな顔に、玲陽は弱い。  玲陽には、砦でまともに食べられず、ひもじい思いをした経験がある。  可愛い妹に、あんな思いをさせたくない。  玲陽は、自分の手を止めた。 「凛どの、手をつけたもので申し訳ないのですが、よろしければ、私の分を……」  と、自分の食べかけの器を少し掲げる。  それに、玲凛より先に反応したのは犀星だ。伸ばされた玲凛の手に、自分の椀を差し出した。稀に見る素早さだった。 「凛、必要なら、俺のを」 「え?」  玲凛も玲陽も、そして東雨も目を丸くする。 「ほら!」  いつになく、犀星は積極的だ。 「じゃ、遠慮なく」  玲凛は何の疑問もなく、犀星の粥を受け取って食べ始めた。  どこか満足そうな犀星を見て、玲陽と東雨は顔を見合わせ、同時にハッと気付いた。  嫉妬だ。  よりによって、玲陽が匙をつけたものを、他の誰かが口にするなど、犀星が許すはずもない。  若様……大人げない。  東雨は天井を仰いで首を振った。  星、これ、どうぞ。  玲陽は無言で、自分の椀を犀星の前に押して渡した。  戦火が散った後の、ほっとした空隙。  だが、それは長くは続かない。 「でも、いくらなんでも食いすぎ……」  東雨はムッとして玲凛を見る。犀星ほどではないが、やはり『若様のお手つき』をかっさらった玲凛には|妬《や》く。 「すみません」  粥に夢中の玲凛に変わって、玲陽はすまなそうに首を傾げた。 「陽様が謝ることはありません」  東雨は毅然とした。 「俺は、別に食べるな、って言ってるわけじゃないです。ただ、食べるからには、それなりに働いてもらわないと」  かちゃかちゃと粥を掻っ込む玲凛を、呆れた顔で東雨は眺めた。 「せめて、家のことくらいできないのかよ?」 「薪割りなら」 「力仕事だけじゃないか」 「細々したことは性に合わない」  事実、玲凛に家事は無理だった。  力加減というものを知らない。  料理の味付けは犀星以上に大雑把だ。掃除をさせても一部屋で飽きる。刀の素振りなら半日でも続ける癖に、洗濯物一つ竿に干す忍耐力はない。 「役立たず……」  小さく、東雨は呟いた。 「聞こえてるわよ」  玲凛が受けて立つ。 「まぁ、お二人とも、落ち着いてください」  再戦の気配を感じて、玲陽が割って入った。 「ほら、凛どのは、暁隊のお手伝いで体力を使いますから、それできっと、いつもよりお腹がすくんですよ。ね、そうですよね?」  普段は食べませんよね、と言わんばかりに玲陽は目配せする。 「いつもこんな感じです」  あっさりと玲陽の心遣いは無視された。玲陽の悲しげな瞳を見かねて、犀星が加勢する。 「多めに見てやれ、東雨。蓮章の話では、凛は随分役に立っているそうだ。涼景が留守にしているから、その穴埋めになると……」 「凛に涼景の代わりなんてできません」  生涯に何度もない貴重な犀星の気遣いを、あろうことか、東雨は一蹴した。粥を平らげた凛が、ジロリと東雨を見る。 「言ったわね」 「ああ、おまえには無理だ」 「涼景様が戻ったら、絶対、勝負をつけてやるんだから。私が勝ったら、好きなだけ食べさせてもらいます」 「どういう理屈……い、いや、涼景がおまえに負けるはず……」 「わからないわよ。勝負は腕力が全てじゃないんだから」 「あいつは、本当に強いんだからな!」  突然立ち上がって怒鳴った東雨に、三人はぽかんとした。 「……あんた、何、そんなに必死になってんの?」  凛の言葉に、東雨は小さく息を呑んだ。なぜか頬が赤くなる。気まずそうに横を向く。 「……とにかく、家のことができないなら、文句言わずに食ってろ」  東雨は空いた食器を揃えて、一足先に部屋を出て行った。 「逃げたわね」 「ええ」 「逃げたな」  玲家の三人は、小さく呟き、うっすらと笑った。 「そうか」  ふと、玲凛が思いついたように、 「食べたきゃ、捕ってくればいいのよね」 「え?」  玲陽が警戒して狼狽えた。 「凛どの、あの……熊?」 「まさか」  玲凛はきらきらと可愛らしい笑顔を浮かべた。 「今の時期は、猪です」  静まり返った、深夜の右近衛隊の詰所。  数日前から、天輝殿の担当は左近衛隊に移った。  普段は涼景が仮寝に使う小部屋の牀に、今は蓮章が横になっていた。  ありったけの褥を引き寄せ、体を埋める。  涼景不在の中、備拓の補助も受けながら、蓮章はどうにか一ヶ月を乗り切った。近衛と暁隊の両刀は、一人で負うにはあまりに重い。  累積した疲労が濃かった。  特に、夜の天輝殿は、蓮章にとって、近づくことさえ忌まわしい場所だ。  十年以上前のこと。涼景は天輝殿の中殿にある石の間で、宝順から耐え難い恥辱と傷を受けた。自分はその場にいながら、何もできなかった。  いつだって、無力だ。  褥を握りしめて、蓮章は顔を歪めた。眠気はない。だるさだけが圧し潰すように全身を包んでいた。  あの日以来、涼景が天輝殿に呼び出されるたびに、腹の中が熱く煮える。その袖を掴んで引き戻し、行くなと叫びたかった。  だが、いつもちらりと自分を見て、小さく頷く涼景の覚悟を見せつけられ、何も言えなくなる。  背負っているものが、涼景にはある。  涼景の強さは、その命と引き換えだ。  そんなやり方は、間違っている。  蓮章は何度も涼景と衝突してきた。  涼景は生来、責任感が強く、包容力のある男である。燕一族、暁隊、犀星。誰一人、見捨てることはできなかった。その中に、自分も含まれることが、蓮章にはたまらなく嫌だった。  足枷にはなりたくない。  涼景を連れて、国を出たい。宝順の手から逃れたい。だが、涼景は愛する者たちを残してはいけない性分だ。それは蓮章が一番よく知っている。  おまえに、生きていて欲しいだけなんだよ。  手脚を縮め、蓮章は唇を噛んだ。  今もそうだ。夕泉親王など、蓮章にはどうでもいい。あんな男の身勝手な理由のために、涼景を送り出さねばならなかった。ひたすらに腹立たしい。  もともと、自分では何もしない夕泉が、蓮章は気に入らなかった。宝順の横暴を諌めることもせず、逆に好んで抱かれに行く。実の兄弟である。その時点ですでに崩壊した関係だった。  それに比べ、犀星はまともだ。  宝順になびかず、我が道を行く。必要とあらば、誰であろうと遠慮はしない。何より、愛する人に誠実だった。  蓮章にとって、犀星は特殊な存在だ。  涼景を奪われる嫉妬。国を変えていく希望。自分にはできなかった、一途な誠心への羨望。  情欲に流されて、惰性でしか人を思えない自分が忌まわしい。  今夜はやけに寒かった。特に、心が凍える。  春の夜。冬とは違う、湿った冷たさがあった。  暗闇の中にいると、嫌なことばかり思い出された。  数日前の花街での出来事が、余計にそうさせるのかもしれない。  玲凛が女郎の印を消す間、自分は圧倒的な『何か』に縛り付けられ、身動きができなくなっていた。目の前に、黒い塊がいくつか浮かんでいたように見えたが、幻覚だったのかもしれない。  無力感、絶望感、虚無感、向ける先のわからぬ怒り。  そんな感情で自分が満たされていく感覚のみが、実体をもって触れられるほど確かに、蓮章を支配していた。  あれが、傀儡との共鳴か。  後から、蓮章はそう、考えた。  玲凛に詳しく問うことはしなかった。知ったところで、彼に何かができるとは思われない領域だった。  そしてもう一つ、話題を切り出せない理由がある。  玲陽の背中の傷だ。  あの様子では、玲凛は玲陽のことを知らないだろう。  勘のいい玲凛のことだ。傀儡の話題を続ければ続けるほど、隠し事に気付かれる恐れがあった。  まずは涼に話してから……  自然と、蓮章の気持ちは代えがたい友に向く。そして、寒さが募る。 『俺は戦場では死なない』  それは、初陣の時から、涼景が決まって約束してくれたことだった。  軍に同行しても、涼景と蓮章では役割が異なる。  先陣を切って隊を率いる涼景と、後方から全体の指揮をとる蓮章。  いざ戦闘となれば、終結するまで互いの生存すら確認できなかった。  死にきれない呻きがくすぶる夕闇の戦場を、涼景を探して、何度駆け回っただろう。喉が裂けるほどに名を呼びながら、いつもひどく震えていたことを思い出す。  ただ、生きていて欲しい。  抱きしめた胸の中で、心臓が大きく動くのを感じた。  無理に目を閉じても、見たくもない光景ばかりが蘇る。  褥に埋もれていた蓮章は、細く開いた扉から、するりと忍び込んでくる人影に気づかなかった。すぐ脇に立たれてもぼんやりとしたままだ。  低められた声が、夜の闇を揺らした。 「大丈夫か、おまえも?」 「涼っ……!」  飛び起きて、蓮章は見開いた目を凝らした。 「悪かったな、涼景じゃなくて……」  長い道を馬で駆け通して、すっかりくたびれた慎が、肩をすくめた。 「おまえたち、ふたりして何やってんだ?」 「……涼は?」 「無事だ。とりあえず、四日前までは」  蓮章が深く息をつくのが聞こえ、慎はさらに呆れ返った。 「おまえら、夫婦か?」 「似たようなもんだ」 「ほう。まだ、余裕がありそうだな?」 「ない」  ぶっきらぼうに蓮章はつぶやいた。 「頼んだこと、伝えてくれたか?」 「心配するな。あいつならうまくやるだろう」  慎は蓮章の隣に腰を下ろすと、無遠慮に体に触れた。 「目立つ傷、つけてないだろうな?」 「心配するな。そんなへまはしない」 「どうだか?」  蓮章と瓜二つの顔で、慎は笑った。 「おまえに怪我されると、俺も同じ傷を作らなきゃならないんでな」 「わかっている」  目をそらし、蓮章は部屋の暗がりを見つめた。  蓮章が跡目を継ぐ遜家は、紅蘭の名家である。  文官の家系で、左派右派問わずに、多くの官僚を輩出している。歴代の宰相にも何人も名を連ね、本来であれば蓮章もその道を歩くはずであった。だが、彼は涼景とともに軍部を志願した。  遜家には、裏の顔がある。  都に潜む組織『|蛾連衆《がれんしゅう》』の元締めだ。

ともだちにシェアしよう!