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9 春眠(3)

 蛾連衆は特殊な構成だった。  総勢は百とも言われるが、普段は行動を起こすことはない。宮中や市街で、誰とも変わらぬ暮らしを送っている。互いに仲間だと知らぬ者もいる。その全てを掌握しているのが、遜家当主である。  蛾連衆の多くは、現在の国の体制によって、つまはじきにあった者たちである。宮中の勢力争いの結果に敗れ、皇家に恨みを持つ者たち。または身内を殺され、復讐に燃える慎のような者も多い。  端的に表すならば、反宝順の勢力と言えた。  彼らの目的はただ一つ、皇家への反乱が起これば蜂起する。その導火線にいつ火をつけるか、それを判断するのが遜家当主の役割だった。  偶然にも容貌が酷似していた慎は、進んで蓮章の影となった。宮中の情報収集と、危険時の身代わりを引き受ける。 「これで最後だからな」  慎は蓮章から手を引いて、腕を組んだ。 「伝言の使い走りなど……」 「いつも助かっている」  ぽつり、と、珍しく素直な蓮章の言葉に、慎は眉をひそめた。 「何があった?」 「別に、何も」  蓮章の変化に、慎は敏感だ。立場上、常に情報を共有しておく必要がある。通常は蓮章の動きを裏で監視し、言葉を介さずとも状況を把握できるが、ここ数日はそばを離れていた。 「玲凛……仲咲、だっけ? あの娘はどうしている? 初日には随分と暴れていたが?」 「落ち着いた」  蓮章は面倒そうに、一言だけで答えた。  玲凛が紅蘭に来てから日がたち、今は、公式に涼景の代理として、警備の訓練に当たっている。一人ひとりの戦いの癖を修正するのはもちろん、何人かで組んで戦う際の布陣や立ち位置、そして周りのものを利用した臨機応変な戦法など、実際に街に繰り出し、現場の状況を見ながら説明することもあった。その働きっぷりは涼景とは質が違うが、実に有能だ。  受け入れ当初は荒れに荒れまくった暁武場も、今は一応の落ち着きを見せていた。 「明日から、訓練を兼ねて、狩に行きたいと言ってきた。何人か、留守番できない連中を連れて俺も同行する」 「俺はどうしたらいい? ついていくか、それとも都を見ておくか?」 「都にいろ。凛はやたらと勘がいい。おまえの存在に気づかれると厄介だ」 「わかった。あとは?」 「……忘れた」  疲れの滲んだその一言で、慎は諦めた。 「こちらからも、ひとつ、ある」  蓮章の横顔を眺め、 「涼景から」  あまりにわかりやすく、蓮章の目が動いた。内心、この執着には感心しない。涼景への個人的な感傷は、蛾連衆の頭領として全体を左右する上で、致命的な要因となり得た。涼景の心情がどうであれ、彼は皇帝の腹心であり、蛾連衆の敵に他ならない。 「おまえが湖馬に渡した薬、役に立ったそうだ」  小さく、蓮章が悪態をつくのが聞こえた。 「あいつ、何をされた?」 「聞いていない」 「聞いてこい!」 「……それは、命令か?」  冷えた慎の声に、蓮章は苛立ったが、首を横に振った。慎はそっと微笑んだ。 「それでいい。あいつは生きている。それ以上は望むな」 「……わかっている」  わかっていない。  慎は静かにひとつ、深い呼吸をした。  蓮章の涼景への情が、年々深く、危うくなっていくのを見てきた。  ただの友人であるならば、それも良い。  だが、ふたりは本来、敵同士である。  涼景が宝順を裏切って蓮章につくか。  蓮章が蛾連衆を裏切って涼景につくか。  どちらにせよ、穏やかではすまない。  今の蓮章は、そこに目を向けることさえ、しようとはしない。 「いつまでも逃げきれないぞ」 「……わかっている」  慎の言葉はあまりに、重い。今の自分には重すぎる。  蓮章は、今夜も、眠れそうになかった。  不意に、慎の腕が伸び、蓮章の体を仰向けに牀に押し倒した。  蓮章は不服そうに睨んだだけで、抵抗はしない。 「何日、寝ていない?」  言いながら、慎は額を重ね、唇に軽く口付けた。 「さぁ……」  ため息に混じって、微かに蓮章は首を振った。 「覚えていない」 「だんだん、ひどくなってないか?」  寝乱れていた蓮章の着物の襟を指先で開き、柔らかい喉に顔を寄せる。蓮章は喉をあらわにのけぞらせ、どこか、遠くに目を向けた。 「俺、そろそろ、死ぬかもな」 「冗談じゃすまないぞ、リィ」  転々と胸元に口付けを落とし、気まぐれに強くする。 「おまえに何かあったら、俺が一番迷惑するんだ」 「おまえが、俺に成り代わればいいだけだ」 「おまえはいいのか、それで?」  慎の手が自然に動いて、着物を解いてゆくのを、蓮章は止めなかった。自分の影としての立場から、慎は他者と関わることはできない。満たしたいと思えば、相手は自分しかいなかった。それが、慎の人生をもらいうけた蓮章の覚悟だ。 「……っ」  蓮章は口元にあった褥の端を噛み締めた。声を上げれば夜警に見つかる。 「俺がおまえになれば……」  慎はそっくりな顔を見下ろした。 「全部、もらうぞ」  蓮章の目がきつくなる。呼吸を浅くしただけで、蓮章は黙ったままだった。月と星の明かりがわずかに差し込むだけの暗がりで、慎の黒い右目がじっと蓮章に向けられる。 「それだけのものを、俺も支払っている」  慎の左目は、潰れていた。  蓮章に似せて色を抜くため、薬を使ったせいだ。隻眼となってもこの役を負ったのは、ひとえに、家族を殺した宝順への恨みからだった。 「おまえには感謝している。出会えなければ、花街の男娼で終わっていた」  火の消えた油灯を引き寄せ、皿の油を蓮章の肌深くに塗りこめながら、慎はかすかに笑った。皿に張りついた油を指でぬぐいとり、自分の前にも滑らせる。 「だが、尽くすのはおまえが生きているうちだけだ。そこから先は、俺がすべてもらう」  慣れた手つきで蓮章の脚を開き、体を添える。 「構わないんだな? 涼景をどうしても……」  含みのある言い方で、慎は蓮章を撫でた。  されるにまかせて、蓮章は大人しく目を閉じ、褥を噛み締めた。  蓮章にも、ことの深刻さは嫌になるほどに想像できた。  慎が『連章』として号令を出せば、涼景もまた無事では済まなくなる。  涼景が味方についたとしても、蛾連衆が彼をどこまで許すか、それは保証がなかった。  心ここに在らずで、こちらを見ようともしない蓮章を、慎は見下ろし、そして寂しげに首を振った。 「……ひと月ぶりだ」  ため息のように、慎はささやいた。牀が軋み、蓮章の喉が低く鳴る。 「おまえ、全然ひとりにならないから……まぁ、忙しすぎたか」  なめらかな内腿に唇を寄せて、あまく噛む。あとは残さないよう、あくまでも緩い。 「おまえもよく我慢してたな。それどころじゃなかったか?」  何を言われても、蓮章は無言のままだ。軽く胸が上下したが、それだけだった。 「珍しい、ずいぶんと鈍い」  知り尽くした体を丁寧に扱うが、それでも蓮章の反応は薄いままだ。 「相当、疲れてるな。締める力もないか」  いつもより楽な動きに、慎は少しだけ笑う。小刻みな蓮章の呼吸が、ただ、早く終わってくれ、と訴えている。  慎の目元に悪戯が浮かぶ。 「そんなんじゃ、涼景だって悦ばねぇぞ」  ピクッと蓮章の全身が震えた。  結局、それかよ。  思わず、恨み言が出そうになる。どれほど自分が尽くそうとも、蓮章の心は慎には向かない。それが虚しく、やるせなかった。  影となった時から、自分はもう、この世界のどこにも存在しない。蓮章だけが、自分なのだ。 「おまえ、いつまであいつにこだわってんの?」  動き続けながら、煽るように慎は話しかけた。 「どんなに待ったって、あいつは今以上にはならねぇのに」 「うるさい」  褥を噛んだまま、蓮章は短く言った。そんな恨み言でも、慎には嬉しかった。 「俺にしとけ、リィ」  ゆるゆると溶かすように体を擦りつける。 「俺なら、おまえしか見ない」 「そういう……問題じゃ……」  蓮章の声が時折上ずる。 「そんなに、あいつがいいのかよ」  花街で仕込まれた慎の動きは巧みだ。蓮章も相当だが、情の深さは慎に分がある。彼にとって蓮章とのことは、ただの行為では済まされなかった。 「俺の方が、ちゃんとおまえ、見てるのに」 「…………」 「十年、だぞ。なぁ、リィ。そろそろ、本気で考えてくれてもいいだろ?」  ちらっと蓮章が目を逸らす。 「慎……それは、ないって言ってるだろ」 「だったら、せめて……」  蓮章の身体を二つ折りにして、顔を覗き込む。 「死ぬなんて言うな」 「あっ……!」  短く発した蓮章の声は、体への反応か、真の言葉のためか、わからなかった。つながりを深めて、慎は蓮章を揺すり上げた。 「おまえが、死んだら、全部、もらう。もちろん、涼景もだ」 「はっ……」  喘ぎとも抗議とも取れない声で、蓮章は慎を睨んだ。 「おまえ……何、言って……」 「だから、死ぬな」  生きていてくれさえしたら。  蓮章の涼景への祈りは、そのまま慎の蓮章への祈りでもあった。 「おまえがいなくなったら、俺は誰でもなくなってしまう」 「そんなこと……ない……おまえは、おまえだ。ちゃんと……ここに……」  次第と息が続かなくなり、蓮章は声が高くなるのを抑えて褥を噛みしめた。 「俺が、叶えてやるから」  慎の声は、どこか泣いている響きがあった。 「おまえの願い、叶えてやるから」  俺の願い?  蓮章は、声を殺しながら、慎の言葉の意味を探した。 「だから、預けろ」  慎は声を低めた。そこにはかすかに、涼景を思わせる響きがあった。 「なぁ、『蓮』」  引き絞られた弓の弦が跳ねるように、蓮章の身が震えた。夜の暗さも手伝って、自分を抱く影の実体が揺らぐ。慎の背に絡めた脚が、絞るように引き寄せる。 「やっぱりおまえ、ひどいやつ」  慎の表情から優しさが失せる。 「……いいや」  言うと同時に動きを強める。突然に容赦の無くなった律動に、蓮章は目を見開いた。深みに鈍く響く快感が、一息ごとに体を貫く。大きさのままの動きに、たたまれた体が悲鳴を上げる。牀の軋みがうるさいほどに鳴り、打ち合う肌の乾いた音に、何とも知れない濡れた響きが混じる。 「いい……」  耽って、慎が荒く息を吐いた。 「もっと締めろ……『蓮』!」  蓮章の全身が激しく震えた。たまらず、慎の限界が崩れる。  奥で弾けた感覚に、蓮章は高い声を上げた。咄嗟に、慎がその口を塞ぐ。体を埋めたまま、動きを止める。部屋の中から音が消え、代わりに、廊下を近づいてくる足音が聞こえた。 「副長?」  戸の向こうから、夜警の近衛が声をかけた。 「なんでもない。明日まで起こすな」  蓮章の声色で、慎が返事をした。 「はい」  ゆっくりと、足音が遠ざかる。それが完全に消えてから、慎は蓮章の口から手を放した。  引き攣った喉で、蓮章の息が鳴る。 「てめぇ……よくも……」  呼吸を荒げながら、蓮章は慎を睨みつけた。 「二度と、あんなこと……」 「言わねぇよ」  身体をずらして、慎は蓮章を抱き抱えるように胸に引き寄せた。 「……余計、惨めになる」 「……自業自得だ」  互いの呼吸を整え合うように、背中を撫で、髪を撫でる。  やがて、蓮章の瞼がゆっくり落ちる。 「眠れそうか、リィ?」 「……ああ」 「よかった」  慎はそっと、汗ばんだ蓮章の額に口付けた。  蓮章の寝息が静かに落ち着くのを待って、慎は体を起こした。乱れた牀の上を整え、起こさないようにそっと蓮章の体を拭い、着物を羽織らせる。最後に褥をかけて、あやすように、肩を優しく叩いた。  他人が見れば双子のようによく似た自分達だが、慎は間違いなく、蓮章の方が美しいと思う。それは、顔貌ではなく、そこに宿る命の美しさだ。 「おやすみ」  慎は唇の動きだけでささやき、人目を避けて部屋を出ると、右衛房の屋根を伝って、闇夜に姿を隠した。

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