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10 目覚め(1)
意気揚々と玲凛は暁武場に入った。もう随分と通い慣れた道だ。
彼女が来れば皆が振り返る。少しの期待と大半の恐怖で引きつった笑顔を浮かべて。だが、それも徐々にほぐれてきた。
玲凛はどんな時も、普段の調子である。それが、暁隊とあまりにも相性が良い。まるで彼女のためにあつらえた集団のようだ。飾らず、気取らず、粗野なように見えて、芯はしっかりとつながっている。
涼景様が作り上げた人の輪は、こんなにも暖かく力強い。
玲凛はここにもまた、涼景の強さを見た思いがした。ここでしっかりと実力をつけ、認められる仲間になりたい。ずっと孤独だった玲凛が、初めて人の中に入ろうと思った場所だった。
日々の訓練の中で、玲凛は妙案を思いついた。
みんなで、狩に行こう。
都に来たからといって、やり方を変える必要はない。東雨にも、食事の事では散々文句を言われている。食材が足りないならば、すきっ腹を抱えているより、自分で調達すれば良いだけだ。
簡単な話じゃないの。
狩猟は、玲凛が今まで積んできた武術の訓練の一環でもある。
蓮章が同行することを条件に、承諾を取り付けた。
目指すのは、都の南西にある亜塵渓谷である。話によれば、そこには鹿や猪を始め熊も出る。人里から離れているため、多少手荒なことをしても誰かの迷惑になるということはない。
明け方に出発して、夕刻には着く。翌日は一日狩りをし、次の日に戻る予定を立てた。
今朝は、まだ薄暗い時分から起き出して支度をし、愛馬・薫風と共に屋敷を出てきた。
薄明の中、周囲を見回すと、厨房の方でかまどの煙が朝靄のように揺れている。蓮章が選んだ何人かが、訓練場には引き出した馬の鞍に、荷物をゆわえていた。その中には旦次の姿もあった。
「久しぶりね。怪我は?」
玲凛は愛馬の背を降りた。
「おかげさまで、十分休ませてもらったぜ」
ぶすっとしてはいるが、ここ数日の玲凛の活躍を聞いているらしく、旦次は妙に納得した表情だ。
「随分と、派手にやってたようだな」
「あんたが地味なだけよ。派手さじゃ、ここの誰かさんに負けるわ」
そう言って、玲凛は左目の下を指先で叩いた。旦次はニヤリとした。
「そういや、まだ、姿が見えないな。時間にはうるさいやつなんだが……」
玲凛は馬を降り、荷物の最終確認をして回った。狩猟の道具の他に、野営の準備も重要である。隊士の体調も良さそうだ。今回同行するのは十二名。皆、揃って暁隊の中でも落ち着きのない、特に注意が必要な新人たちだった。玲凛は妙に感心して見まわした。
「蓮章様ったら、よくもまぁ、こんなに顔ぶれを揃えてくれて」
「都に残していくのは不安だから、だって」
旦次は、気が重いと笑った。蓮章が選んだだけあって、皆、癖の強そうな面構えである。暁隊の鎧を着ていれば、まだ衛士らしく見えなくもないが、今回は狩りに適した動きやすい装束でまとめている。
「これじゃ、ただのごろつきと変わらねぇなぁ」
「あら、普段からそうじゃない」
玲凛が身も蓋もないことを言う。
それでも、言われた当人たちは久々に暴れられると楽しそうに談笑して待っている。
「あとは、蓮章様だけね」
「まさか、花街あたりで咥え込んでねぇだろうなぁ」
旦次の軽口を聞き流した玲凛の背中に、ふっと風が触れた。それは気配というよりも、玲凛独特の感覚だ。彼女は振り返った。
厩舎の横に、訓練用の武具を納めた小屋がある。その向こうが、やけに気になった。じっと目を向けていると、そのへりで何かが動いた気がした。
玲凛は迷わず、すたすたとそちらへ向かった。足音すら立てず、呼吸すらないかのように静かに、物陰を覗き込む。
「あ」
「あ」
そこにいた、地味な服装の男と目があった。玲凛は眉を寄せた。
「あんた、誰?」
男は、ごくりと唾を飲み込んだ。
玲凛の後ろから、旦次が顔を出した。男は軽く身構えた。
「梨花。何やってる?」
「梨花?」
玲凛は改めて男を見る。確かに、左目が薄い灰色である。顔貌も似ているようではあるが、玲凛には、それが蓮章ではないことがわかった。
「いや……」
男はそっと目をそらした。
「旅支度ができてる。さっさと行くぞ」
旦次が促す。
玲凛はじっと男を見ていた。何も言わないが、その目は明らかに、おまえは誰だ、と問い続けている。
男は唇をわずかに歪めた。
「行こうか、凛」
「……そうね」
玲凛は表情を変えることもなく、頷いた。
『凛は勘がいい。近づくと、気づかれる可能性がある』
お前の勘も、捨てたもんじゃない。
男・慎は、隊士が用意していた蓮章の馬に跨った。
リィのやつ、寝坊でもしたのか。
ふと顔を上げると、玲凛がやはり、じっとこちらを見ている。
何を言われるのか、とぞくぞくする。
馬を御しながら、玲凛はさりげなく鞍を寄せてきた。小声で問う。
「蓮章様は?」
「何のことだ?」
「ふざけてると、大声出すわよ」
「…………」
「蓮章様は?」
「……さぁな」
玲凛にだけ聞こえる声で、慎は開き直った。
「寝坊でもしてるんじゃないか? 俺は様子を見に来ただけだってのに……」
慎は深く息を吐いた。
「どうするの? このまま行く?」
「まさか。何か理由をつけて、一度離れる……」
そうこうしているうちに、一行は都の外門にたどり着いた。
左手に、朝日が昇る気配がある。
「じゃ、ひとっ走り、賭けといくか」
旦次が、張り切って手綱を引いた。
「賭け?」
慎が思わず問い返す。
「なんだよ、梨花。忘れたとは言わさねぇぞ?」
「いや……」
「次の水場までの駆け比べ! 負けたら梨花が体で払う約束だろ」
そんな話は聞いていない!
慎はゾッと青ざめた。
「逃げられないわね。こいつら、本気よ」
残酷な玲凛の一言が刺さる。
鋭い旭光が、大地に走った。
「さぁ、行くぜ!」
旦次が馬の腹を蹴る。一斉に放たれた矢のように、十数騎が街道を駆け出していく。
悪い、リィ! 交代だ!
遅れて、慎は飛び出した。
朝焼けに染まる天輝殿は、また一つの夜を越えて、その重さを増したように思われた。
禁軍大将・然韋はいつものように、整然と動く左近衛の列を見守った。先頭に立つ夏史が、歩み寄り、交代の挨拶を伝える。
「明日かと」
短く、秘めた声で、夏史は囁いた。視線を交わし、然韋は小さく頷いた。
「好きにせよ。こちらは何も知らぬ」
夏史は深く頭を下げた。
左近衛副隊長・夏史には、積年の恨みがある。それは、暴君、宝順に対してではない。ましてや、然韋でも、備拓ですらなかった。
ただ一人、涼景である。
涼景とは、同年代で共に競い合った仲だ。だが、時の運、偶然の差により、涼景は今や知らぬ者もいない国の重鎮となった。一方、自分は英仁の影にあり、備拓の影にあって、いつまでも日の当たらない道にいる。下級官吏の息子で、家柄にも期待できない自分は、このままでは、生涯うだつの上がらないの日々を送るしかない。
ここから日の当たる場所へ出て行くためには、自分の力で道を切り開く必要がある。たとえそれが誰かの血の上に築かれた道であろうとも。
涼景のことを、これほど意識し始めたのは、いつからか、夏史にも記憶がない。だが、おそらくその発端は、彼が右近衛の副隊長に就任した時だったように思う。自分は一等卒、方や涼景は、と思った時、夏史の中に、友の出世を喜ぶ気持ちよりも、もっと大きな拭い難い嫉妬の念が生まれた。上り詰め、涼景を見下ろしたい。その思いが夏史を変えた。
英仁ならば、自分を取り立ててくれると期待し、左近衛に移籍した。たが、出世を迎える前に、彼は戦死してしまった。後を継いだ備拓は自分を買ってはくれたが、考え方の相違からこれ以上の地位を左近衛で望むことはできない。
ならば、と夏史は目を転じた。涼景さえなければ、右近衛は崩れる。
副長の遜蓮章は、叩けばいくらでも埃の出る身である。もともと文官畑の人間が軍部に首を突っ込む方がどうかしている。夏史は下級貴族とは言え、武官の出だ。よそ者の蓮章に対する拒否感は強い。
また、涼景を失って、崩れるのは右近衛だけではない。暁隊である。彼らが連番隊の一部を担い、都の勤務についている以上、涼景の影響力は宮中だけでは収まらない。その一角を崩し、暁隊不在となった折には、そこに自らの力を行使できる組織を投入することも可能である。今まで、暁隊のために三番隊が恥をかかされているという恨みもある。
涼景に、代わってやる。
がむしゃらに夏史は前へ進もうとしていた。
その背を押した然韋もまた、涼景に対して良い思いは無い。力量は評価するものの、宝順に肉体的快楽を持って取り入り、今なお、体をひさいでその地位を保持する涼景のやり方には、憤りを感じている。
実力を持って実力のみで勝負せよ、なくばその身分に甘んじよ。
それが然韋の考え方だ。人の道を曲げてまで立場を保持する相手に対し、同情はない。
涼景という共通の元凶が、二人をつないだ。
この際、右派だろうと左派だろうと構わない。
然韋はじっと夏史の顔色を伺っていた。
禁軍の大将まで勤め上げた人物である。
目先の私利私欲で道を踏み外す者など、数忘れるほどに見てきた。夏史も、その一人だ。
ここが切りどき。
然韋は顔色を変えずに、ただ一言、告げた。
「あやつを甘く見るな。宝順帝が目をつけた男だ」
「心得ております」
わかってなどおらぬ。
然韋の目は冷たい。ふと、左近衛の隊列の向こうに、小さな人影がこちらを伺っているのが目にはいる。小柄で、さらに背を縮め、然韋の視線に気づくと頭を下げた。
「では、夏史」
最後の言葉をかけるように、然韋は声を高めた。
「存分に晴らすが良い」
夏史は微笑をたたえ、颯爽と左近衛を率いて天輝殿の前を立ち去っていく。
代わりに、小股で歩く小さな人物が、篝火の闇から闇を縫うように、然韋に寄ってきた。然韋は周囲の禁軍兵を遠ざけ、二人で向き合った。
小柄な音尾は、陰陽官出会った。
最近の五亨庵は、すっかり魚臭い。
特に、緑権の几案の周りはことさらだった。
これは運命のいたずらか、ちょうど、彼の席の後ろが厨房である。そこで調理される魚の匂いが、山と積まれた緑権の荷物に染み込んで、巨大な香袋のように香っている。
犀星も玲陽も、慈圓も東雨も、顔色が優れない。反して、緑権だけが、生き生きとしている。
こういうのを、水を得た魚って言うんだ。
東雨は、いつになく活発に歩き回る緑権を見て、ため息をついた。
市場で東雨が調べてきた情報をもとに、亀池で養殖予定の魚が決まった。鯉と鮎、そして、|鯰《なまず》。
緑権はそれと知ると、誰より行動が速かった。
秘布の資料だけではなく、宮中のあらゆる厨房を訪ね歩き、直接料理人から、調理方法を聞き出してきた。そして、おそらくは八穣園の池で育ったと思われる鯉、市中の水路に迷い込んでいた鮎、朱市の裏で東雨に値切らせた鯰など、費用を抑えた材料を揃え、自ら、腕を振るった。
魚を育てるには、その生態から調理法まで熟知し、広報にもあたる必要がある。そのための第一歩が、料理法の研究であった。
もともと食べる専門で料理の心得のなかった緑権だが、ことを始めると、ぐんぐんと成長した。
これは、興味こそ最良の師、だ。
東雨はまた、顔をしかめて腕を組んだ。
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