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10 目覚め(2)
犀星たちが他の仕事に取り組む中、緑権はひたすら口と手を動かし続け、五亨庵の中には多種多様な匂いが常に循環した。
さすがの犀星も、人選を誤ったと後悔したが、もう遅い。
「そういえば、光理どの」
厨房から声をかけられて、玲陽はぎょっとした。思わず筆を取り落とす様子は、哀れですらある。緑権は目を輝かせながら、
「光理どの、最近、血の巡りが良くないとおっしゃってましたよね?」
「え? あ、はい。寒暖差があって、なかなか体調が落ち着かないんです」
「後で、とっておきの秘伝の精進料理を振舞いましょう!」
やっぱり、と玲陽は肩を落とした。
「光理どのは五亨庵になくてはならない方! その健康管理は私の務めです!」
医房を設ける予定はないぞ。
犀星は不安そうに緑権を見た。
「謀児、気持ちは嬉しいが、陽は食が細い。あまり無理に食べさせるのはいかがなものかと」
「ご安心ください! ちゃんと、そこは考えておりますから!」
どんな考えかは知らないが、それが正解とは思われない。
五亨庵の面々は、皆、同様にうんざりとした表情に沈む。
「春の気持ちの浮き沈み、体調不良は、悪い気の流れがたまるから、だそうです。それを取り除く料理を昨日、教えてもらったばかりなんです。早速試してみましょう!」
「せっかくだが、陽を実験台にするのはやめてくれ」
思わず、犀星が本音を吐いた。
「代わりに俺が……」
「いいえ、兄様にそんなこと、させられません! 犠牲なら私が!」
「お二人とも、決して口になさらぬように!」
慈圓がすっぱりと切り捨てた。
「謀児、試すならまず、己の腹で試してからにしろ」
「私は、別に元気なんですけどね」
少々腑に落ちない、という顔で、緑権は厨房の中を忙しく動き回る。
東雨は冷ややかな笑みを浮かべた。
ただがむしゃらにやればよいわけではない、典型的な見本だった。
重たい調味料の匂いに閉口していた慈圓は、ついにたまりかねて、そそくさと席を立った。
「伯華様、紅花祭の警備の相談で、梨花のところへ行ってまいります」
「え!」
東雨が炉の掃除を終えて、振り返った。
「それなら、俺もお供します!」
東雨は、試作品を次々と運んでくる緑権を恐れていた。今夜は犀星が夕食の当番である。このままま腹が膨れては、せっかくの手料理が食べられそうもない。
「あれ、おでかけですか?」
緑権が、盆を手にして、厨房から出てきた。
「今、ちょうど鯉の|糖醋魚《とうさくぎょ》が仕上がったところですよ」
「この甘ったるい匂いは、それか」
慈圓が、もうたくさんだ、という顔であさってのほうを向く。
緑権は皿に向けて目を閉じ、ぱんぱんと手のひらを打ち合わせた。それから声高に、
「東南の風を招き、西北の火を鎮め、陰陽の匙をもって旨味を統べる……我が心、斯くして皿に宿れ!」
「なんですか、それ?」
東雨はげんなりとした。緑権はいつになく強気に東雨を見た。
「料理の真髄とは、真心! おいしくなれ、という強い願いが、最後の一味を左右するのです」
「言いたいことはわかりますが、なんか、謀児様のは、お腹壊しそうです……」
「心配ありません! 気分の問題ですから、こんなんで味なんて変わりません!」
「言ってることがめちゃくちゃです」
慈圓も犀星も玲陽も、みな、それぞれに目を逸らした。
東雨は急いで内扉を開けた。
「残念ですけど、その、すごく美味しそうな料理、若様たちで試食してくださいね」
少しも残念そうではない声に、犀星と玲陽の手が、一瞬、ぴたりと止まった。
やっぱり逃げるのか!
誰も皆、気持ちは同じだった。
「では、お弁当代わりに、これ、持っていってください」
緑権は笹の葉に包んだ鮎の香草蒸しを竹籠に入れ、東雨に差し出した。
「胡椒は邪を祓い、塩は魂を鎮め、酢は万象を清める。されば我が真心をして……」
「ああ、もう、いいです。どうせ味は変わらないんでしょ?」
東雨の声は乾いている。
「それでも、気分の問題です。何事も抜かりなく完璧に! 五亨庵あげてのこの大事業、必ずやお役に立ちますよ!」
料理屋を開く予定もないぞ。
うきうきと糖醋魚を小皿に取り分けている緑権から逃げるように、慈圓と東雨は五亨庵を出た。恨めしそうな犀星と玲陽の視線を遮るように内扉を閉めると、二人は顔を見合わせてため息をついた。
「伯華様には申し訳ないが、こう連日ではかなわん」
「俺もです。適材適所すぎです」
長榻で番をしていた右近衛兵が、ふたりを振り返った。
「あれ、歌仙様も外出なさいますか?」
「いえ、若様は留守番です」
東雨は、竹籠を差し出した。
「そろそろお昼ですから、こちら、召し上がってください。謀児様からの差し入れです」
近衛は笑顔で籠を受け取った。
「それは、ありがたい。いやぁ、いい匂いがしているじゃないですか。腹が減ってしまって……」
喜んで食べてもらえたほうが、鮎も嬉しいに違いない、と、東雨は思った。
「梨花がどこにいるかわかるか?」
慈圓は、竹籠を覗いて嬉しそうな近衛に問いかけた。
「副長ですか?」
近衛はふと考えて、
「昨日の夜から、右衛房に。今朝、俺が出てくる時には、まだお部屋で休んでいらっしゃいましたよ」
「そうか、では、行ってみる」
慈圓は先に立って、白梅が見頃の小径を歩き出した。東雨は行儀良く近衛に頭を下げてから、慈圓の後ろに下がって続く。
「おまえは、相変わらずだなぁ」
慈圓は東雨をちらと見た。
「近侍となったのだ。もっと、堂々としていて良い」
「それ、難しいです」
東雨は以前と変わらぬ笑顔で頭を振った。
道沿いの石畳が、日差しを柔らかな銀色の光に変えていた。軽やかに吹く風がさらさらと梅の花を揺らす。
東雨は思いっきり風を吸い込んだ。春の空気は爽やかな風味があり、深呼吸するたび喉が潤うようだ。
梅の花の上品でほのかな香りは、酒と醤油と砂糖で焼かれた胸には心地よかった。
「近侍と言っても……」
東雨は少し照れたように、
「やる事は今までと変わりませんし。俺は若様のそばにいられたら、それだけでいいんです」
小径を抜け、慈圓と並んで歩きながら、東雨は行く手にまなざしを向けた。様々な思いで駆け抜けたこの道、この景色を、穏やかな心で歩くことができる。何度振り返っても、今、自分は幸せなのだと彼は思った。
あたりはすっかり春めいていて、人々の顔色も服装も軽い。
甲冑を脱ぎ、軽装鎧の衛士たちが、笑い合いながらすれ違っていく。朱市のほうから、明るい売り子の掛け声や、カラカラと軽快に響く車輪の音もする。あちらこちらで、小鳥のさえずりや羽音。足元では、散った白梅の花びらがひらひらと舞っている。
東雨の目には、何もかもが美しい。そして、何もかもが愛おしかった。その横顔を、慈圓はどこか影のある表情で見つめていた。
ひとたび五亨庵を出れば、この十八を迎えた男は犀祥雲である。思わず呼びかけそうになる慣れた名を、今まで幾度も飲み込んだ。
昨年の暮れ、慈圓は涼景から、重たい事実を聞かされていた。
東雨は宝順帝の落胤だという話だった。
東雨本人も、思ってもいないことであろう。
知らない方が良い。
慈圓は涼景と蓮章に固く口止めし、三人だけの秘密としていた。これ以上事を荒立てれば、今度こそ本当に東雨の命が危うい。人生を左右する大きな傷と引き換えに、ようやくつなぎ止めた命である。
こいつに罪はない。
何もかも、時の巡り合わせ。一人ひとりの力など、吹けば飛ぶように儚い。風に翻弄される木の葉よりままならないものである。
長く宮中の盛衰を見てきた慈圓には、無力を受け入れる心が備わっていた。それは諦めではなく、達観と言えた。
慈圓の周りには、まだ若く、希望にあふれ、未来を変えようと望む犀星たちがいる。
その背を支え、時代を新たな方向へと向けるのが、今の自分の役割である。
それにしても、危うい。
犀星が歩もうとしている道を思うと、慈圓は心が揺れる。確かに犀星がしてきたことには意味がある。成果もついてきている。
だが、それは谷に渡した細い一本の吊り橋を渡るような道のりだった。一歩間違えば、全てを失う、そんな賭けの繰り返しだ。いつまでも続くものではない。
そうは思いながら、その細く危ない道に賭けてみたい気持ちも残されている。
わしも、まだまだ未熟よ。
慈圓は自嘲の笑みを浮かべた。
蛾連衆のひとりとして、時代を変える希望を捨て去れずにいる。そのために、未来ある若者たちを、危険へと誘う。
知性と知識、度胸と経験に裏打ちされていながら、慈圓もまた、己の願望が先に立つ。
侶香が生きていれば、何かが変わったやもしれんな。
犀星を育てた旧友を思い、慈圓は小さく自嘲をもらした。
五亨庵を出て、朱市を抜け、貴族たちの邸宅や官庁のある中央区へ入る。道沿いの木々の花は蕾がほころび始め、八穣園の池には薄緑がかった若水が入り、緑権の手を逃れた鯉がゆらりと影を落とす。
邸宅の庭には新芽が芽吹き、蔦が真新しいつるを伸ばしている。屋根には越冬の名残の藁が風に揺れている。どこかの軒下に巣をかけたのか、燕が視界を横切った。
無意識に、東雨は目で追った。翼のはばたきに、心にある人の横顔が重なる。
慈圓に便乗したのは、緑権の料理から逃れるためだけではなかった。
少しでも、涼景のことを聞きたい。
東雨の胸には、そんな淡い期待があった。
蓮章ならば、涼景の動向を知っているかもしれない。
無事でいるのか、今どの辺りか、いつ頃戻り、いつ会えるのか。
会いたいことに理由はなかった。むしろ、彼が都に戻り、ただ飯を食いに訪れたら、東雨は不機嫌になるだろう。
力強い声で五亨庵の扉を開き、何か面倒事を持ち込むかもしれない。それは東雨が望むところではない。
なのに……
心が騒いだ。
「春は何かと騒がしい」
慈圓がふっと思いついたように、つぶやいた。その言葉に、東雨はドキリとした。
「どういう意味ですか」
「冬にこらえていたものが、一斉に吹き出す季節だ。良くも悪くも、な」
「騒がしいと言えば……」
東雨はあの、明るい少女を思い出す。
「凛は今日から、狩に行くと言ってました。おかげで少し、静かになります」
慈圓は興味ありげに首をかしげた。
「あぁ、伯華様のいとこの」
「はい、陽様の妹の」
自分の言葉に、東雨ははっとした。
今、玲陽を挟んで、自分と玲凛は兄と妹なのだ。春の日差しが急に冷えた。形だけとはいえ、玲陽と自分が兄と弟の関係になったと知れば、玲凛が怒り狂うのは間違いない。東雨はぞっと寒気を覚えて、あえて考えないことにした。
これは絶対に秘密だ。
東雨は心に誓った。
世の中には、忘れた方が良いこともある。
「それにしても遠いな」
慈圓がやれやれと腰を擦る。
「馬にすればよかったか」
「荷車でもいいですよ。俺が引っ張ります」
「わしに荷台に乗れというのか」
「楽しいですよ」
東雨は幼い頃を思い出した。
「まったく、伯華様と一緒に育つと怖いもの知らずになる」
「怖いものくらいあります」
東雨は少し情けないことを言い返した。慈圓が面白そうに問いかける。
「おまえが怖いものとはなんだ?」
「まず……」
東雨は、複数あることを匂わせて、
「喧嘩は、見るだけでも嫌です。それから誰かが傷つくのも。戦うのも……」
声が沈んでいく。
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