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10 目覚め(3)

 これはまずいことを聞いてしまった、と、慈圓はすまなそうに眉を寄せた。 「あと、最近は魚が怖いです」 「それは、わかる」  二人の脳裏に、満面の笑みを浮かべた緑権がよぎる。  中央区を過ぎ、軍の施設が建ち並ぶ北区へ入る。通りを西に向かうと、やがて、若い緑の枝の向こうに、右衛房の門が見えてきた。  東雨は少し胸が弾んだ。そして、すぐに落ち込んだ。  今、そこに涼景はいない。いつもより、よそよそしい場所に思えた。  俺、何でこんなに気になるんだろう……  自覚はなくとも、東雨の表情には明らかに、ふわふわとした頼りない感情が揺らめいていた。  衛士に案内されて、二人は建物の奥へと通された。  冬の寒さ対策の防風布が取り払われ、風がよく通るようになった回廊を抜けて、作戦室の前を過ぎる。裏にある練兵場から、活気ある声が響いてくる。 「蓮章様は、訓練中でしょうか?」 「いえ、まだ、こちらでお休みになってます」  案内の近衛は、最奥の小部屋の前で立ち止まった。 「昨夜、起きるまで起こすな、と言われたそうで」 「あやつ、だらけおって……」  慈圓が、厳しく顔を歪めたのを見て、近衛は一礼して逃げ戻って行った。  慈圓は自ら扉を開けた。東雨は慈圓の陰から中を覗いた。かすかに甘い匂いがした。  さして広くはない部屋。扉の正面に一台の牀がある。その上に横たわる蓮章の姿に、二人は愕然として立ち尽くした。  白魚のような背中が、惜しげもなくこちらにさらされていた。腰のあたりに、かろうじて着物がまとわりついている。肩から背中にかけて美しくしなった曲線と、骨格に沿って滑らかに浮かぶ筋肉の凹凸、交差した脚の柔らかそうな内腿が白く光っている。そうして、わずかに肩を上下させ、静かな寝息を立てていた。  東雨の腹の奥が、ずきりと痛んだ。中途半端に傷つけられた体は、欲望の捌け口がない。  まずい!  東雨はどこを見てよいか見当もつかなかった。目に映る蓮章の全てがあまりになまめかしく、若い東雨の心を煽り立てた。  助けを求めて、東雨は慈圓の顔を見上げた。そこには、歯を食いしばった怒りの形相があった。 「梨花っ!」  一喝が、部屋の天井を突き破るほどに響き渡る。 「ん……」  蓮章は小さく呻いて、もぞもぞと体をよじった。その動きはあまりにも淫靡で、東雨は余計に視線が離せない。蓮章は緩慢にこちらへ体を倒した。  白い胸元の肌に、美しく紅梅の痕が散っていた。 「っ……!」  見てしまった! 見てはいけないものを……!  東雨の顔が、あっという間に上気してくる。  春って、怖い!  東雨の怖いものが、ひとつ増えた。  蓮章のほうは、何が起きたかわからず、ぼんやり慈圓を見ている。  怒髪天を突くとは、今の慈圓のためにある言葉だった。老獪は、大股に近づくと、蓮章を見下ろした。 「おまえ! なんという格好で……」 「え? ……ああ」  自分の体を見て、蓮章はぼんやりと、 「いろいろあって……」  本当に色々あったのだろう。  自分で始末する以外にどうしようもない痕跡が、敷布に転々と残されていた。 「寝ぼけておらんで、さっさと起きろ。そして、着物を着ろ!」  子どもにするように、慈圓は蓮章の頭を片手で鷲掴みにし、激しく揺すった。  乱された髪を指で梳きながら、蓮章は息を吐いた。 「ハァ……十日振りに寝た……」  言ってから、我に返る。欄間から、青い空を見上げる。 「今、何刻だ?」 「もう昼を過ぎてる」 「えっ!」  目を見開いて、蓮章は慈圓に向いた。潔いまでに堂々としたその姿に、慈圓は怒りを超えて絶望を感じた。東雨はすでに、ぽかぽかと身体中が火照っていた。 「どうして起こしてくれなかったんだ?」 「おまえが、起こすな、と部下に言いつけたのだろう?」 「あれは俺じゃ……」  と、言いかけて、慈圓の向こうに東雨を見つけた。  慎のことは、慈圓と涼景しか知らない。 「だいたい、公務の右衞房の部屋で、おまえは何ということを……」  慈圓はすっかり、蓮章が誰かを連れ込んだものと思っている。 「まったく、おまえは昔から変わらん。|夜毎日毎《よごとひごと》に色欲に狂いおって!」 「これは、その、本意じゃないというか……」 「何? 不本意でこんな不埒な真似をしたというのか!」  師匠の怒りに油を注いで、蓮章は少し体を縮こまらせた。しぶしぶと黙り、着物を羽織り、所在なさげに袖を弄ぶ。その所作さえ、情動の名残を思わせる妖艶さだ。  叱るとも嘆くともつかない慈圓の説教が続く。一度火がついた慈圓は、何を言っても無駄だった。黙って時が過ぎるのを待つしかない。だが、蓮章には、気掛かりがあった。 「……暁隊から、誰か来てはいないか?」  蓮章は、思いきって慈圓を遮った。 「暁隊?」  慈圓が、また言い訳をするつもりか、と、あからさまに眉を寄せる。蓮章は間髪入れず、 「今朝、|亜塵《あじん》渓谷へ発つ予定だった……俺も一緒に……」 「そういえば、凛が言ってた……」  東雨の声は、妙に上擦った。 「俺がいなければ、呼びに来るはずなんだが……」 「暁の方達なら、誰も来ていませんよ」  突然、扉が開いて、先ほどの近衛が顔を見せた。蓮章の痴態など見慣れているのか、動じることもない。 「でも今、ちょうど備拓様がいらっしゃって……」 「失礼する。梨花どのに頼みがあって……」  かしこまった備拓が、左近衛隊長らしく、厳粛な空気をまとって颯爽と入ってきた。  蓮章は、素肌に着物一枚を肩に羽織り、牀の上で片膝を立てて座っている。  備拓は蓮章を見下ろした。  蓮章は上目遣いに備拓を見た。  二人の目が合う。  数瞬、言葉にならない沈黙が流れた。その間に、近衛はまた、さっさとその場を逃げていく。  備拓は何か問いたげに、ゆっくりと慈圓に首を回した。  同年代の二人は旧知である。当然、蓮章が慈圓の愛弟子であることも承知している。蓮章本人よりもむしろ、慈圓の方が気まずかった。 「いろいろ、あったのだ」  慈圓は一言だけ、言い訳をした。 「備拓様、私に頼みとは?」  まるで何も問題はない、というように、蓮章はさらりと話題を振った。 「いや、まぁ、なんだ」  備拓は言い淀んだ。格式を重んじ礼儀作法に細かい彼が、この衝撃から逃れるのは一苦労だ。 「実は、今夜、天輝殿の夜間警備の全指揮を頼めないかと……」  東雨は、じくじくと疼く体の熱を持て余しながら、痛ましそうに備拓を見た。  真っ昼間に公の場所で、素肌に布一枚の裸の男に、皇帝の御殿の警備指揮を願わねばならないとは。  宮仕って、気の毒。  それぞれに苦労が多い、と、東雨は親近感すら覚えた。 「今夜?」  蓮章の目が泳ぐ。その瞳にはさまざまな思いが交錯している。 「……わかりました。備拓様のお頼みとあれば」 「それは助かる」 「しかし、本来ならば夏史どのがいらっしゃるはず。お体でも壊されましたか?」  こんな姿の蓮章に心配されるなど、夏史もそうとう屈辱であろう。  慈圓はふたりのやりとりを見ながら、小さく息を漏らした。 「実は、そのことで詳しく話がしたかったのだが」  備拓はちら、と慈圓と東雨を見た。慈圓は時を得た、とばかりに背を向けた。 「わしらは急がん。外で待たせてもらうゆえ」  ぼんやりしていた東雨は、あわてて慈圓のあとを追う。 「あ、いや、残されても……」  備拓は思わず振り返ったが、扉がぴしゃりと目の前で閉められた。  その背後で、蓮章は気だるそうに髪を掻き上げながら、 「あの二人のことは、どうぞ、お気遣いなく」  おまえは、少し、気を遣ったらどうなのだ?  備拓は、思わず息を吐いた。  仙水どの。お互い、副長には苦労させられるな……  蓮章が着物を纏う音を聞きながら、備拓の肩は一層下がった。  慈圓と東雨は、備拓たちの話が済むのを待つ間、裏の練兵場へ出た。  透き通る春の風が吹き抜け、一気に世界が広がる。  練兵場の周りは若葉が芽吹き、爽やかな気配が満ちていた。隅の木陰には整然と槍や鉾が立て掛けられている。涼景も蓮章も不在だが、年長の近衛が指揮を取り、儀式的な訓練が粛々と進む様子があった。  百名近い衛士たちが、一糸乱れずに礼をし、刀を掲げ、抜刀、納刀まで揃って動いた。 「すごい……」  東雨は彼らの動きに見入りながら、小さくつぶやいた。慈圓がうなずいた。 「形だけのものと思うかもしれぬが、これもまた忠誠の一つ。特に、ここの近衛は伯華様付きゆえ、余計にしゃんとせねば」  慈圓は少し皮肉めいて笑った。 「ただでさえ型破りな歌仙親王だ。他の貴人たちに侮られぬよう、そばに控える近衛は一層気を遣うのだろう。昔はもう少したるんでいたが、最近は、それらしくなってきた」  東雨は慈圓の話を横に聞きながら、一人ひとりの動きを順に目で追っていた。  隊士たちは、無言で、わずかな表情の乱れもない。五亨庵の近衛詰所では長榻に横になって昼寝をしている者も、この場所では皆、引き締まった顔である。  見た目の美しさが求められ、物音一つにすら注意が払われる。号令に合わせる動きは見事だった。訓練の様子を離れた位置から見守る補佐役が、木札に何やら書き込んでいる。  涼景がいなくても、こんなにやってるんだ……  東雨はまた、遠くの友のことを思った。  ふと、若い衛士が目に入る。自分と同じほどの歳だろうか。大人びて見えるが、体格は他の者達より一回り小柄だ。時折思い出したように背筋を伸ばし直し、緊張で額に汗をにじませている。 「この人たちは、みんな若様のために……」 「偶然、担当が伯華様だっただけのこと。まぁ、中には志願した者もいるだろうが」  慈圓は、くつろいだ表情だ。だが、東雨のほうは至って真面目だった。 「玄草様、俺、こんなのできないです」  慈圓は首をかしげた。 「あんなふうに刀を振ることも、姿勢を正して歩くこともできません。なんだか悔しいです」  東雨は犀星の近侍である。東雨の言動はそのまま、犀星の評価につながる。  奥歯を噛み締める東雨の横顔を、慈圓は目元を緩ませて見つめる。そして少し声を大きくした。 「おまえには、彼らができないことができるではないか」 「例えば……?」  例えば、と言われると、慈圓も困ってしまう。思いつくのはどれも、本来の近侍の仕事ではない。 「とにかく、人と自分を比べないことだ」 「でも、俺、若様に恥をかかせたくないです」  慈圓は思わず笑みをこぼした。東雨は本心から言っているのだ。あまりにもいじらしい。  右近衛隊の動きが、いかに整って優れたものであろうと、東雨一人の忠誠心には到底及ばない。 「おまえには、まだ自分の価値が見えてはいないな」 「価値……でも、俺、やっぱり……」 「ならば、仙水に相談してみると良い」 「え?」 「近衛の儀礼を学びたいのなら、あやつに聞くのが早かろう?」 「涼景、に……?」 「何を、不思議そうな顔している? あれでも近衛だぞ」  涼景と言われると、東雨には暁隊の印象が強すぎる。だが、慈圓の勧めは、東雨の気持ちにぴたりとはまった。自分と涼景とをつなぐ細い糸が見えて、心が少しだけ前を向いた気がした。  ふと、東雨の頭に、先ほどの小部屋の情景が蘇った。 「玄草様…… 蓮章様も、あれでも近衛なんですよね?」  慈圓は何も答えなかった。遠くで一声、鶯が鳴いた。

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