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11 邪をもって悪を退く(1)
それは突然訪れた間隙だった。
慈圓と東雨が秘府へ向かい、緑権が足りなくなった食材を仕入れに、朱市へ出かけていった。
偶然、五亨庵には、犀星と玲陽の二人が残された。
しんとした中を、わずかに心地よい風が吹き抜けてゆく。風の道筋を追って、玲陽は顔を上げた。天井の近くをぐるりと囲む明かり取りの欄間から、春空が覗く。風は静かにそこから吹き込み、広間の中を回遊して、床と壁の隙間に作られた通風口から放たれて行く。風の流れが見えるようだと玲陽は思った。
特に、料理の匂いが染み付いた今は、それが唯一呼吸のできる空気のようにも思われた。
朝から色々と食べさせられ、玲陽は満腹でぼんやりと時を数えていた。頬杖をつき、うつろな目を正面に向けた。相変わらず緑権の机の周りは騒がしい。何故か五段梯子が立て掛けられている。
何に使うつもりだったんだろう。
玲陽は好奇心が湧いたが、緑権のする事は考えてもわからなかった。そっと横を見ると、そこは慈圓の席である。彼はよく、多くの竹簡を抱え、予算の捻出のために人々を脅しに行く。慈圓の幅広い人脈は、あらゆる場面で五亨庵の政治的な助けとなる。ときには、政治だけではなく、貰い物の米や野菜、豆類が手に入ったりもする。どことなく犀遠に雰囲気も似ている。慈圓は玲陽にとって良き師である。
さらに視線を動かすと、中庭の扉がわずかに空いているのが見えた。少しでも空気を入れ替えるため、最近は開け放している。
中庭から、東雨の短い掛け声が聞こえてくる気がした。一生懸命稽古はするのだが、どういうわけか彼の剣術の腕はさっぱり上がらない。物覚えが良く機転もきき、発想も豊かで感受性が強く、誰にも優しい。一見、完璧に見える東雨だが、人は何かしら苦手なものがある。東雨にとって、それは剣術だった。
近侍という立場から考えると致命的である。犀星は気にしていないが、東雨自身は、どうにかしようと必死だった。
私も少し剣を振らなければ。
玲陽は、最近すっかり文官が板についてしまった自分を嘆いた。
犀遠は玲陽に、文武両道であることを求めていた。それは二兎を追えということではなく、幅広く学べという意図だ。砦での劣悪な生活の中ですっかり体を痛めてしまったが、玲陽はもともと動き回ることが好きだった。
視界の中に、自然と犀星の姿が入った。周りの景色に溶け込むように、じっと動かず、少しうつむいたままである。てっきり何かに集中しているものと思っていたが、犀星の目は焦点を失っている。玲陽と同じように肘をつき、向けるとはなしに几案の上に注がれている。
玲陽は息をつめ、犀星を見つめた。
きれい。
全身でそう思った。柔らかい光の中で、犀星の整った面立ちに、より一層の儚さが宿る。儚いばかりか、芯の強い美しさまでが共存する。
こんな人は他にいない。
玲陽は惚けた。|顔形《かおかたち》を褒めても、犀星は喜ばない。それどころか、逆に疎む素振りまである。それを知っていて、玲陽は決してあれこれ言うことはない。それでもやはり、本心では美しいと思う。それは玲陽の贔屓目だけではないはずだ。前に東雨が言っていたように、誰が見ても犀星はやはり美しいのだ。
何よりも、犀星の心が尊いのだと玲陽は思っている。自分たちが絶望の淵に立たされ、途方にくれた時も、犀星はただ一人、希望を見出していた。声を荒げるでもなく、ただ静かに自分たちを促し、導いてくれた。その心の全てを知ることはできず、寡黙の中に、繊細な知恵と、限りない可能性を秘めている。
時折見せる感情的な一面が、自分にだけ許した甘えなのだと思うだけで、玲陽は幸福感に満たされる。
二人きりの時、自分にだけ見せる素顔。
それがたまらなく嬉しい。
思わず口元が緩み、にやにやとしてしまう。玲陽は、そっと袖で顔を覆った。隠れて、思いきり笑顔になる、そうやって気持ちを整え、改めて澄まし顔を作ると、首をかしげて犀星を見た。やはり表情が動いていない。視点が定まっておらず、微かに眉間に皺が寄る。
「星……」
そっと声をかける。珍しく、犀星は気がつかない。不安になって、玲陽は席を立ち、そばに寄った。
「大丈夫ですか?」
その声にようやく犀星は顔を上げた。何を言われたかわからないという表情だ。
「どうしたんです。さっきから、ずいぶんぼんやりして」
犀星の目がふらりと揺れた。こういう時、彼の心は何か一つのことにとらわれている。玲陽は、犀星の横にかがむと、その膝に腕を乗せて、顔を見上げた。ぴたりと寄り添って甘えるようでもある。
犀星は、かすかに震えていた。
「どうしたんです……?」
犀星のまぶたがピクリと動く。玲陽の顔が心配で歪む。心細そうなその目を見て、犀星は苦しそうに笑った。
「心配ない。少し……」
「少し、なんです?」
「少し、頭が痛い」
犀星の顔がふっと曇る。右の側頭部に激しい痛みが巣食っていた。波打つように、頭を締め付けてくる。
「もしかして、頭痛だけじゃなくて、声も、ですか?」
玲陽の問いかけに、犀星は目元を一層、歪めた。
「聞こえるんですね?」
膝にあった玲陽に腕を、犀星は撫でるように両手で包んだ。小さく、頷く。
「教えてください。その声は、なんと言っているんです?」
「…………」
黙って、犀星は玲陽を悲しげに見つめた。玲陽はそれ以上、聞けなかった。
互いに顔を寄せ、自然と頬が近づく。目を閉じると、こつりと額が当たった。優しさが染みてくる。玲陽は思わず鼻をすり寄せた。普段ならこのような場所では決してしないことだ。二人きりだという心の油断が玲陽を大胆にさせた。
その瞬間、犀星の体が大きく震えた。それは何か鋭い痛みのような衝撃だった。じっと何かをこらえている。明らかに表情には動揺があった。
玲陽の胸がぎゅっと締まる。辛そうな姿を見ると、自分が体を裂かれるよりも苦しい。巨大な不安感が玲陽の中に生まれてくる。
飲み込まれてはならない。
そう思いながら、犀星の手を強く握る。
犀星は迷った表情で玲陽を伺った。唇が動いて何かを言おうとしたが、そのたびにぐっとこらえてしまう。
玲陽は、蒼い瞳を覗き込んだ。
「言ってください。私に隠す必要はない。どんなことでも、あなたと共に……」
犀星の指に力が入る。
「怖いこと、聞こえてくるんですね?」
玲陽は、わずかな変化から犀星の心を掴む。犀星は素直に頷いた。
「…………」
吐息だけで囁くように、犀星は聞こえてくる声を伝えた。
その言葉は鋭く、短く、抉るように刺さる。
玲陽はまっすぐに受け止めた。犀星の声のほかは、自分には何も聞こえない。
「ここには誰もいない。俺たちだけだ。なのに……」
一瞬戸惑い、それから少し呆れたように笑った。
「俺はやっぱり、どうにかなったんだ……」
「待って」
玲陽は、じっと犀星を見つめた。
蒼い瞳があまりに透きとおり、心の底まで覗けそうなほどまっすぐに、見つめ返してくる。
玲陽は手を重ねたまま、耳を澄ませた。ゆっくりと、五亨庵の中を見回す。その行方を追って、犀星もまた、視線を巡らせた。柔らかな春の光が、うっすらと銀粉のように差し込み、揺れている。
その中に、わずかに黒く細いものが走ったような気がして、玲陽は目を凝らした。
空中の一点。
中に舞う黒髪のごとき何かは、人の情念の結晶の前触れだ。
「まさか、傀儡……傀儡の声……?」
玲陽の呟きに、犀星は身震いした。
「……陽、今……!」
「なに?」
犀星の目が、玲陽を捉え、さらにその後ろへ向く。
玲陽が振り返ったとき、視界を覆う黒い霧が一瞬、見えた。
犀星は素早く玲陽を抱き寄せた。背中のやけどに腕が触れ、ぎしりと痛む。
「星……!」
震える玲陽の声と重なるように、内扉を叩く音がした。続いて、詰所にいた近衛の声がこちらを呼ぶ。
「歌仙様。紀宗陰陽官がお見えです」
顔を上げたとき、犀星の視界に曇りはなく、傀儡の気配は消え失せていた。
代わりに、内扉の前に立つ、陰陽官の姿がぽつん、とあった。
独特の、紫色の法衣を長めに垂らし、帯の結び目には魔除けの白い石の玉を下げている。目深にかぶった巾が、その小さな顔を余計にこじんまりと見せていた。
手は常に袖の中に隠れていることが多いが、出したときには指に銀と骨を組み合わせた細い指輪がいくつか見える。
巾の後ろには細い銀の飾り紐が垂れ、紐の先に黒曜石の小珠が結ばれている。
「かようになっておったとは……」
何を見て何を言ったのか判然としない口調で、紀宗は口の中で呟いた。クンクンと鼻を利かせる。
「悪気の焼ける匂いがしおる」
いや、それは緑権の魚なのだが……
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