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11 邪をもって悪を退く(2)

 犀星は腕の中の玲陽を、しっかりと抱いたまま、その肩越しに紀宗の細い目を見つめた。 「歌仙様」  紀宗は形ばかりの礼をして、いつもの通り、五亨庵の中をうろつき始めた。薄革の草履は、足音をほとんど立てない。動くたびに法衣の裾や袖がわずかに揺れ、その影が奇妙に長く伸びる。  この風変わりな陰陽官は、五亨庵建設当時から、月に一度程度、こうして唐突に訪れては、中を見て回るのが習慣だった。  時折小さな声でぶつぶつと何かを呟くだけで、邪魔にもならない。犀星も何も言わずに好きにさせていた。  だが、今回は少々、事情が違いそうだった。  紀宗は床から突き出している石を順に回り、そしてそのたびに、玲陽を振り返った。犀星はその視線から守るように、玲陽の頭を自分の肩に引き寄せ、振り向かせまいと抱え込んでいた。玲陽も、その気配を感じ、犀星の意図も察して、おとなしく目を閉じ、身を預けている。  足音を立てず、紀宗は順に石をたどり、最後に、最初の位置に戻ってきた。金色の筋の走った白い巨石の前で、手を揃えてこちらに向いて立つ。わずかに顎を引いて、上目遣いの様子である。細い目の中に、きらりと光る何かがあった。 「歌仙様」  紀宗はじっと犀星に目を向けたまま、聞き取れるか否かの声で言った。 「最近、お体のご様子におかわりはありませんか?」  犀星は眉を寄せた。紀宗がこのようなことを伺うのは初めてだった。そして、よりによって今、犀星の身には明らかな変調の兆しがある。  犀星は黙って、紀宗を見下ろすだけである。何を言っても、真実を見透かされてしまいそうな鋭さが、この偏屈な陰陽官にはある。 「よからぬものの、障りがございましょう」  その声も、視線も、まっすぐに玲陽を示している。  紀宗の声は、犀星の神経を露骨に逆撫でした。  犀星は他者に干渉する性格ではない。己の信念に反するか、大切なものを傷つられない限りは。  紀宗はその全てを余すところなく網羅し、最も踏み込んではならない領域を荒らしてくる。  珍しく、犀星は露骨に顔を歪めた。  腕の中で震えるただ一人の愛しい人のために、犀星の苛立ちと怒りはまっすぐに紀宗に向いた。  言うべきことは言う。それが自分にできる守り方だ。  犀星は玲陽の頭を自分に押し付けたまま、決して振り向かせようとはしなかった。 「何も聞くな。何も考えるな。俺だけを感じていろ」  小さな囁きで、玲陽を励まし、腕に力を込める。玲陽の体がわずかに軋んだ。玲陽にもまた、犀星の気持ちがよくわかっていた。  自分を守るために、今、全てを賭けてくれている。だからこそ、自分はただ黙って素直に委ねる。  だが、玲陽はただ守られるだけの存在ではない。もし、少しでも、自分を抱く腕が震えたならば、その時は自らが盾とも矛ともなって、ともに戦うつもりだ。  玲陽の覚悟も、犀星の覚悟も、お互いに知り尽くした上での時が流れた。  ただ一人、紀宗だけはじっと動かず、五亨庵を眺め、石を眺め、二人を見比べた。 「歌仙様におかれましては、見えざる力と見えざる声と、その全てが、今まさにその御前に現れておいでかと存じます」  紀宗は珍しく長く話した。それは陰陽官としての矜持であるか、それとも人としての忠言であるか、定かではない。 「その御身の身辺に悪しきものある限り、お心の優れること叶わぬかと」 「…………」 「取り除かぬ限り、五亨庵の力は食いつくされ、負に転じ、宮中も都も、ひいては国をも脅かす存在となり果てましょう」  犀星は静かに、しかし揺るぎなく、目を据えて紀宗に相対した。 「紀宗、お前が言う『悪しきもの』とは何のことだ」  それは核心だった。避けて通ることはできぬ。  紀宗の目が、犀星の肩のあたりを撫でた。突き刺すのではなく、まさに撫で回す目線で玲陽を見ている。  それは犀星にもはっきりとわかった。自分が最も手放すことのできない相手を、手放せという。  わずかな時間に、犀星の思考がめまぐるしく展開し、飛び交う。どの言葉を用いれば望む答えが引き出せるのか。  ただ玲陽を守ることだけが全てだ。  だが、その答えへの道のりは見えない。どの道を行っても、紀宗の言葉に絡めとられてしまいそうで、犀星は道を選ぶことをやめた。  代わりに、猛禽が狙いを定めた鼠を狩るごとく、天空から一直線に獲物に向かう。 「紀宗。私の心はただ一つ。たとえ国を滅ぼそうとも、決して手放しはせぬ」  犀星の腕が、強く玲陽を抱き、呼吸が長く漏れた。それは玲陽の不安を解くよりも、自らを勇気づける力だった。  紀宗は予見していたと見えて、眉ひとつ動かさず、小さな口を細かく震わせた。 「たとえ歌仙様が、なんとおっしゃろうと、我が役目を負うまでのこと」  紀宗の声はぼそぼそと途切れ、しかし、不気味なほどに聞き取れるのだ。それはまるで、心のわずかなひびにしみこんでくる湿気のようでもある。 「陰陽をつかさどる身として、見過ごすわけには参りません」  紀宗はいつになく強気だった。  怒りを表す事は、冷静さを欠く第一歩である。犀星は、ただ玲陽を抱きしめることによって、心を抑えていた。玲陽もまた、抱き返すことによって犀星の怒りを飲み込んでいた。  かつて玲陽は一度、紀宗と会ったことがある。その時、彼が言った言葉が蘇る。 『面白いものをお持ちだ』  紀宗が言ったのは、何のことであったのだろうか。傀儡を喰らう力なのか、それとも玲家の血そのものか。  または、自分も知らぬ何か別のものなのか。  何にせよ、紀宗は今、玲陽を追放せよと言うのである。  そしてそれは犀星にとって、決して受け入れることのできない条件である。 「手放す気はない」  犀星は低く繰り返した。  紀宗は動じない。いかに親王と言えど、国の吉兆を司り、その特殊性を持って皆に恐れられる陰陽官を服従させることは難しかった。  国において、皇帝が表を牛耳るならば、裏を支配するのが陰陽の者たちだ。紀宗は次席ながら、その影響力は大きかった。  自信の表れか、または彼の生来の性格か、紀宗はまったく動揺することなく、小さな体をそのままに、背を少し丸めて立っていた。 「なれど……」  唸るように、しわがれた声が言った。 「……わたくしといたしましては、陰陽官として、《《それ》》をこのまま放置するわけには参りませぬ」  紀宗の言葉は宣戦布告だった。 「……親王殿下には……いずれ、諦めていただかねばなりますまい。平穏を得るには、ただひとつ、命を絶つ以外に、手立てはございませぬ」  玲陽はぞっと背中が冷えた。本人を前にして、紀宗の言葉には容赦がない。 「……この国において、わたくしより術に通じた者は、まずおりますまい。しかし……そのわたくしをもってしても、生かしたまま浄化することは……不可能にございます」  犀星の腕が玲陽の腰を周り、自らの刀の柄に伸びる。それを感じて、玲陽は犀星の肩に埋めた首を小さく振った。  追い打ちをかけるように、紀宗は言い放った。 「殺すしか、ございません」  破裂するような犀星の躍動を、玲陽は咄嗟に押し戻した。壁に押し付け、体重をかけて動きを止める。触れ合う体が震え、冷静さを欠いた瞳が焦点を失って闇雲にあたりを睨んだ。 「星!」  非礼を承知で、玲陽は名を呼んだ。全身で抱きしめ、痺れるほどに腕に力を込める。 「駄目です! どうか!」  犀星の激しい衝動は、怒りか、恐怖か、判断がつかない。  明らかに紀宗は、犀星の逆鱗に触れた。玲陽のこととなると、冷静さを失う犀星の気質は、己にも止めようがない。  紀宗はそれすら想定していた、というふうに、静かに見守っている。紀宗の静けさと相反し、犀星の呼吸は荒く、玲陽を掴む指が深く食い込む。  どうしたら……  刻一刻と熱を帯びる犀星の身体に戸惑いながら、玲陽は必死に考えた。自分が何か言えば、余計に犀星を煽るだけだとわかっていたが、助けを求められる相手もいない。  どうしよう!  玲陽の緊張が頂点に達したとき、 「ただいま戻りましたぁ」  場違いに明るく能天気な声が、緊迫した糸を断ち切った。 「あれ、紀宗さま、いらっしゃってたんですか?」  内扉が突然に開き、両腕に食材の籠を抱えた緑権が入ってきた。  犀星の体がピクっと動く。目の奥で何かが瞬時に交錯し、ぴたり、と未来を見定める。玲陽は恐る恐る、紅潮した頬を見た。  何か、考えた顔だ。  こうなれば、流されてみるのが一番良い。  玲陽は覚悟した。  事情を知らない緑権は、さっさと荷物を厨房へ運び入れると、ひと息をついた。  ふと見ると、犀星の様子がいつになく険しい。しかも、人前にも関わらず、しっかりと玲陽を抱きしめている。

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